72. 静寂の果てに、彼の影は微笑んだ
「英雄とは、名を残さぬ者のことを言うのかもしれない。」
そして、ついにイグツカの番が来た。
あの巨躯――一度は抗ったその身も、いまや完全に力を失っていた。
ゆっくりと、だが確実に……俺の方へと引き寄せられていく。
――近づき、さらに近づき……
そして、数えきれぬほどの“黒い手”がその巨体を飲み込み、渦の中へと完全に引きずり込んだ。
刹那のうちに――
彼の姿は、消えた。
千の妖が蠢く“百鬼夜行”がすべて呑まれ、封印の儀が完了した瞬間――
空は、再び静けさを取り戻した。
嵐は、止んだ。
そして、美しくも儚い夜が戻る。
先ほどまで雲に隠れていた淡い星たちが、少しずつ顔を覗かせ始める。
月の光が、瀕死の京都を優しく照らしていた。
――遠く離れた場所で、三人の影が並んで立っていた。
朝霞茜、松島蒼希、西郷穂津子。
彼女たちは、それぞれの想いを胸に、穏やかに戻った夜空を見上げていた。
「……術式は、いつも通りだったね。」
そう呟いたのは蒼希だった。瞳はまだ夜空の彼方を見つめている。
「ひとりの陰陽師が扱うには……あまりにも恐ろしすぎる。」
その声には非難の色はなく、ただ――隠しきれない畏敬の念が滲んでいた。
そんな蒼希の言葉に、穂津子が静かに応じる。
「だからこそ……私たちは、あの人を信じられるんだと思う。」
「だって、加計清の爺さんが“安倍の比楼”を闇の陰陽師の頭目かもって言ったとき――正直、すごく違和感あったもん。」
「だって、あの人は……いつだって、“必要なとき”に現れるじゃない。」
茜は……しばらく沈黙していた。
けれどやがて、風に溶けるような柔らかな声で、口を開いた。
「……でも、比楼はもう、相当疲れてるはずだよね。」
茜の声は、心配を隠せずに震えていた。
「これだけのことをした後で……今度は“大陰命”や、帝、そして……あの徳川家康まで相手にしなきゃいけないなんて。」
その名が並ぶだけで、空気が一瞬、重くなる。
「でも――私たち三人がいるじゃない?」
穂津子が小さく笑って、軽やかに言った。
「少しくらいなら、比楼を助けてあげられると思う。……まあ、問題の本丸は、やっぱり徳川家康だけどね。」
「心配しすぎだよ、茜。」
蒼希が彼女の肩を軽く叩いて励ました。
「何かあったら、いつも通り――ぶつかるだけでしょ?」
それは無茶にも聞こえる言葉だったが、どこかで……一番頼もしい言葉でもあった。
「……このまま、大きな騒ぎにならなければいいけど。」
茜がぽつりと呟いたその一言は、まるで夜空への祈りのように静かに響いた。
そして――その瞬間だった。
空が、完全に晴れていく。
京都の外を包んでいた嵐の霧さえも、すうっと薄れていく。
すべてが、まるで最初から“ここで終わる”と決まっていたかのように。
……ほんのひとときだけでも、
この空は、誰かにとっての安らぎであることを許されていた。
けれど――その静けさの中で、
茜だけが、何かに気づいた。
「……比楼、まって……!」
掠れるような声だったが、そこには確かな“焦り”が宿っていた。
一歩、前へ。
その足取りは、戸惑いと決意が混じったものだった。
――そして。
その呼びかけに応えるように、
霧の残滓の向こう――
遠くに佇んでいた安倍の比楼が、ゆっくりと振り返った。
比楼は――
ほんのりとした、いつも通りの“読み取れない笑み”を浮かべ、
静かに手を振った。
そして、残っていた霧が完全に消え去った瞬間――
安倍の比楼は、姿を消した。
彼を囲んでいた四体の巨妖たちも……同じように。
「――っ!」
茜はすぐさま飛び立つ。
残された熱気を突き抜け、先ほど比楼が立っていた場所へと向かう。
だが――
そこには、何もなかった。
誰の気配もない。
足跡も、声も、風の震えすらも。
ただ、空虚な空気と、戻ってきた静寂だけがあった。
遅れて蒼希と穂津子が追いつく。
二人の顔には、同じ“信じられない”という表情が張り付いていた。
「……まったく、あの男ったら。
肝心なときに、また逃げるなんて。」
穂津子が苛立ったように拳を握る。
「どうしていつもこうなんだろうね?」
蒼希が被せるように言う。
「こんなに大きな功績を立てたっていうのに。
彼が表に出なきゃ、周りは“私たちが奇跡を起こした”なんて言い出すんだ。
まるで……これが全部、彼の力じゃないみたいに。」
その声は感情を隠せず、顔が赤くなるほどだった。
そんな二人を横目に、茜はただ、無言で立ち尽くしていた。
だが――やがて、
空を見上げるようにして、静かに口を開く。
「……あの人は、確かに面倒な人だけど。」
夜の空虚を見つめるその瞳は、少しだけ優しかった。
「……これが、彼の“望んだ形”なんだと思う。」
深く息を吸い込み、吐き出す。
「……まだ、終わってない。
京都には、まだやるべきことが残ってる。
――だから、準備を整えないと。」
その言葉は、静かで――けれど強い。
蒼希も穂津子も、黙ってうなずいた。
そして――何も言わず、
三人の影は夜空へと舞い上がる。
静かに戻りつつある京の空を裂き、
陰陽寮の本陣へと――
答えの見えない夜へ、消えていった。




