71. 神域を越えて、封じの剣
「神々が見下ろす中で、
人はなお、“秩序”を選んだ。」
再び視線を京都へと戻した瞬間――
思いがけない光景が、目に飛び込んできた。
二条城の天守、その屋根の上で――
月華様が、神と……会話をしていた。
それだけではない。
そのさらに遠方には、数柱の神々が集結していた。
空気が、違う。
圧が、尋常ではなかった。
彼らはただの傍観者として現れたわけではない。
少なくとも、戦う覚悟を持って――この地に降り立っていた。
「……もう、ここまで来てしまったのか。」
すぐに〈遠視〉の術を解除する。
これ以上、覗いてはいけない。
今度こそ、この事態を終わらせねばならない。
すべてが――取り返しのつかないことになる前に。
「茜。」
振り返りながら声をかける。
「これから、京都の守護封印を解除する。
市内の結界を維持している陰陽師たちの状況を、確認してくれないか?」
朝霞 茜は、静かに頷いた。
「わかったわ。でも……“イグツカ”も、元の場所で再封印しないと。」
「それは……俺がやる。」
小さく、だがはっきりと返した。
「今のイグツカは不完全なまま放っておけば、誰かに――
特に悪意ある者に利用される危険があるからな。」
「ふぅん? じゃあまた“新人さん”が増えるってこと?」
松島 蒼希が、肩をすくめながら軽い口調で言う。
その声音は、まるで世間話でもしているように気楽だった。
「比楼には、その方が納得できる話かもしれないけど……」
西郷 穂津子が、ふとこちらに目を向けた。
「でも、あなたの身体は大丈夫なの?
さっき、かなり無理して力を使ってたじゃない。」
――三人とも。
特に茜は、じっと俺の様子を見つめていた。
まるで、心の底から……俺のことを案じているかのように。
俺は、静かに微笑んだ。
「心配しなくていいよ。イグツカとその眷属たちを再封印して……
それから京都の結界を解放したら、少し休めば元に戻る。
いつも通り、すぐにね。」
茜は小さく頷き、すぐさま指示を出した。
「なら、早く終わらせて、比楼。
あなたの“真・大妖怪”たち――あの四体を撤退させて。
長居させるわけにはいかないわ。」
俺は茜の方を向き、声を落とす。
「……その前に、一つだけ。」
茜は少し目を見開き、不思議そうにこちらを見つめた。
「さっき、偶然見えたんだ。
徳川家康の一行が、都へ入ってきた。
あの件……君に任せたい。」
その瞬間、茜の表情が僅かに強張った。
けれど、声は落ち着いていた。
「太陰命様、そして朝廷と連携して対応するわ。
もし状況が悪化したら……いつものように、私たちは散って行動する。」
「さすがに、家康も前みたいな真似はしないだろう。」
俺は、少しだけ目を細める。
「今回の状況は、誰の目にも明らかだ。
普段、沈黙を選ぶ者たちでさえ、もう黙ってはいられない。」
その言葉に――
三人は、まるで息を合わせたかのように、同時に小さくため息を吐いた。
だがそれは、偶然の一致ではない。
幾度も、こうした場を共にしてきた証だった。
「だからこそ、比楼――」
茜が、やわらかながらも真剣な声で言った。
「あなたも、皇族側と面会して。
できれば、血を流さずに終わらせたいの。」
「……わかった。あとで会うよ。
でもその前に、この封印を終わらせてしまいたい。」
三人は顔を見合わせると、そっと空へ舞い上がった。
俺のために、空間を空けてくれるように。
夜風が、少しだけ穏やかになる。
そして――
俺を包んでいた炎の衣が、静かに消えていった。
茜の加護の力が、徐々に遠のいていく。
三人が京都の内側へと消えていったその刹那――
俺は、短く息を吐き出し、片手を掲げた。
掌に、術式が刻まれた一枚の護符が現れる。
それを、空高く……放った。
護符は空へと舞い上がり――
淡く、黄金の光を放ち始めた。
そして俺は、刀を抜いた。
――桂城の煌月。
ゆっくりと顔を上げ、
黒雲が覆う空を見据えながら、刃を高く掲げる。
「……皆、少しだけ……隙をくれ。」
その声を合図に、戦場を囲んでいた四体の真・大妖怪が静かに動き出す。
彼らは一歩ずつ後退し――
やがて四方に膝をつき、頭を垂れた。
まるで、儀式の場を整えるかのように。
あるいは、この戦場において“誰が最上位か”を、黙して示しているようだった。
俺は正面を見据え直した。
そこには、無惨に砕かれたイグツカの巨体が横たわっていた。
生気を失った、ただの“人形”。
……だが、まだ終わってはいない。
桂城の煌月の切っ先を、奴へと向けたその瞬間――
俺の両眼が、隠しきれない紅の光を放ち始めた。
これが、“本来の姿”。
そして、その気配に気づいたかのように――
砕けたイグツカの身体が、微かに震える。
次の瞬間、残された力を振り絞るように、巨体が――立ち上がった。
そして、逃げるように背後へと駆け出す。
一歩ごとに、大地が揺れる。
その慌ただしい動きは、後方に控えていた無数の下級妖たちを巻き込み、
踏みつけ、弾き飛ばし、時には跡形もなく消し去っていった。
だが、それは――
あまりにも、遅すぎた。
低く抑えた声で、俺は呪を唱えた。
「――第一階位封印。
幻想の中で、永遠に眠れ。」
空中に漂う護符が、濃密な光を放ち始める。
黄金に染まった光の中心に、漆黒の“穴”が現れた。
それは抗うことのできない“闇の門”――
すべてを呑み込む、封印の口。
そしてその闇の奥から――
無数の“黒い手”が、這い出してきた。
細長く、歪み、定形を持たない。
生きた影のように、飢えた動きで地上を探る。
それらはすぐさま、イグツカと共に現れた妖たちに襲いかかった。
抵抗しようとする者も、逃げようとする者も――
区別なく、容赦なく、全てを引きずり込む。
だが……
最も壮観だったのは。
巨大な黒い手の群れが、イグツカの全方位から現れ、
その巨体を乱暴に、情け容赦なく、闇へと引きずる光景だった。
ズゥ……ギャァァァァァアア――!!
京の空を裂くような咆哮が響き渡る。
だが“それ”は止まらない。
決して揺るがず、決して情を持たない。
ただひたすらに――
その全てを、闇の底へと連れていく。
残された者など、一人もいない。
全てが――
まるで、地獄の門が開いたかのようだった。
名も無き深淵が、ただ黙々と、妖の群れを飲み込んでいく。
そしてその黒き渦は、なおも回り続けた。
俺の眼前に広がる、静かなる終末のように。




