70. 戦の終わりにして、序章
「正義も悪も、支配も解放も――
何も終わってなどいなかった。」
「ねえ茜、なんでまだそんなに心配してるの?」
穂津子が軽い調子でつぶやく。
「だってさ、ここには敵より強い妖怪を呼び出せる変な人がいるじゃない?」
からかうような声色。そして案の定――三人の視線が一斉に、俺に向けられた。
……まあ、そうなるよな。
その視線を感じた瞬間――上空からの圧力が一気に強まった。
躊躇う暇もなく、俺は動く。
カタナを抜き放ち、振り下ろされる巨大な腕を受け止める!
ドンッ!
俺たちの頭上で、激しい衝突音が響いた。
「おい、そこの三人!」
俺は必死にその腕を支えながら叫ぶ。
「少しくらい手伝ってくれてもいいんじゃないか!? これ、マジで重いんだけど!」
だが、返ってきたのは――まさかの笑い声だった。
笑ってる!? 本気かよ。
「はぁ……」
穂津子は肩をすくめながら言った。
「だってあんなでかい妖怪、私たちがどれだけ攻撃しても、傷ひとつ付かないんだもん。手伝ったって無駄じゃない?」
それは文句のようで――でも、彼女たちの正直な気持ちを代弁していた。
俺は小さく鼻を鳴らし、息を整える。
そして一気に、イグツカの巨大な腕を空へと押し返す。
流れるような動きで、一閃。
深く、鋭く――
別れを告げる一太刀を。
その手首は、静かに――けれど確かに斬り落とされた。
空を滑るように落下し、大地に叩きつけられた瞬間、小さな地震のような衝撃が周囲を揺らす。
地面が、一瞬だけ震える。
そしてそれに呼応するかのように、イグツカの背後に控えていた妖怪たちの行軍が、ピタリと止まった。
彼らは京都へと近づくことに、迷いを見せ始めていた。
その時――
遠くから、轟くような咆哮が響く。
“角牛”。
月華様がそう名付けた存在の声だった。
それが勝利の合図なのか、それとも新たな混沌の始まりなのか――
まだ誰にも、わからなかった。
背後から、三人の少女たちが再び口を開く。
「ふふっ、腕はまだまだ鈍ってないみたいね」
穂津子が軽く茶化すように言った。
俺は口元にわずかな笑みを浮かべる。
「鈍ってたら、茜に呼ばれたって、わざわざ来たりしないさ」
「まぁ、それって……つまり」
穂津子がウインクを一つ。
「三人の中で、茜が一番のお気に入りってこと?」
――危険な質問だ。
穂津子は、いつだって面倒ごとの種を蒔くのが上手い。
案の定、茜と蒼希も、じっと俺の答えを待っている。
その視線は、まるで何かを期待するように――真っ直ぐで。
「そ、そうだな……もちろん、茜が一番プレゼントくれるから、ってだけさ。ね? 茜?」
……。
三人の視線が、同時に死んだ。
さっきまでの期待の光は、まるで風に吹かれた蝋燭のように――跡形もなく消え去った。
「はぁ……なんで今こんな時にまで、守銭奴なのよ」
穂津子が呆れ声を漏らす。
「だって、俺はボランティア陰陽師だぞ?」
俺は悪びれずに言い返す。
「霊気大将みたいに給料高いわけじゃないんだし、ちょっとくらいボーナス期待したっていいだろ?」
三人は同時に、深いため息をついた。
まるで息の合ったコーラスのように響く絶望のハーモニー。
――なのに、不思議と心地よかった。
まだ終わらぬ戦の只中で、束の間の“日常”を取り戻せた気がして。
だが、その時――
それまで黙っていた茜が、ふと口を開いた。
「ねぇ、比楼。……それじゃあ今回は、どんな“ご褒美”が欲しいの?」
その声は、いつも通り穏やかで冷静だった。
彼女は続ける。
「それに……六ヶ月前の任務の分も、まだ受け取ってないでしょう?」
何か返そうとした、その瞬間――
またしても、遠くから響く咆哮。
イグツカ。
俺は肩越しに振り返り、静かに息を吸う。
そして、話題を切り替えるように言った。
「それより先に――目の前の敵を片付けないとな」
その頃には、イグツカの背後にいた妖怪たちも、徐々に後退を始めていた。
形勢の不利を悟ったのだろう。
だが、ここで逃がすわけにはいかない。
俺は一歩前に出て、声を張り上げた。
「新・妖怪大臣――今だ、出番だ!」
その瞬間――
京都の四方から、巨大な影が姿を現した。
四体の巨躯が、戦場を包囲するように現れる。
それぞれが異なる方角から進軍し、イグツカと“千妖行列”を取り囲むように布陣を取った。
その姿はまるで、終焉を告げる審判のようで――
そして、彼らの笑い声が夜空を揺らす。
重く、低く、空気を震わせるような咆哮。
それは、京都の空に響く、新たなる夜の幕開けだった。
俺がカタナを前に構えた瞬間――
四体の巨躯が、一斉に暴れ出した。
イグツカの身体が、容赦なく何度も叩きつけられる。
鋼鉄の如き腕、重い拳――隙を与えることなく、圧倒的な力で打ち据えられていく。
そして当然のように――
より弱き妖たちは、本能的に悟った。
どちらが“上”か。
誰が“支配者”か。
それを理解するのに、時間はかからなかった。
数百、いや数千の妖怪たちが――一斉に散り始めた。
悲鳴を上げながら、四方八方に逃げ出す。
秩序は崩壊し、戦場は混沌に呑まれていく。
俺は、その光景を見つめながら、静かにカタナを鞘へと戻す。
カチリ。
嵐の中にかき消されそうな、小さな音。
けれどそれは、ひとつの終わりを告げる合図でもあった。
背後の三人からの反応は――実にそれぞれだった。
「たぶん、こんなの初めて見たかも」
穂津子がぽつりと呟く。
「でもさ、比楼って意外と非情なんだね。イグツカとその部下、あんなに……」
その声には、半分冗談めいた調子が混じっていたが、どこか哀れみにも似た色があった。
すかさず、蒼希が鋭く言い返す。
「そんなこと言わないで、穂津子。イグツカたちは、私たちの仲間をたくさん殺した。……当然の報いよ」
その目に宿る怒りは偽りではなかった。
彼女にとってこれは戦いではない。――償わせるための、戦場だった。
だが茜は、いつものように――調停者であろうとした。
「二人の気持ちもわかる。……でも、これも私たちの責任だよ」
その声は静かで、でもどこか重みがあった。
「イグツカはただの駒。背後にいるのは黒陽。あいつが糸を引いてる。だからこそ、これからの監視を強化しないと。……簡単なことじゃないけど」
三人の言葉を黙って聞きながら――
俺は、ときおり戦場へと視線を戻した。
皮肉なものだ。
道徳だの、責任だのを語りながら、
俺たちの目の前では、妖たちが互いを喰らい、地を血で染めている。
――その時だった。
ひとつの“異変”が、俺の背筋を凍らせた。




