7. 千夜の叫び、名前の記憶
「……名前を知っているだけで、世界は少しだけ優しくなる。」
夜の空気が――変わった。
一瞬にして、炎も……煙も……呪の痕跡すらも、跡形もなく消え失せた。
まるで、「戦いは終われ」と命じる……声なき命令が、世界そのものに響き渡ったかのように。
そして、次の――刹那。
あらゆるものが……沈黙に呑まれた。
「!? な、なんだ!?」
最初に声を上げたのは、黒曜の陰陽師の一人だった。
彼の視線は……黒装束を纏った同胞たちに向けられていた。
その者たちは、洞窟の奥から次々と……我を忘れたように逃げ出してくる。
「退けッ! 全員、今すぐ退けェ!!」
その叫びは――命令でも指揮でもない。
ただ、生存本能が吐き出した……純粋な“恐怖”だった。
(……中で何が起きたんだ!?)
その時だった。
「ギャアアアアアアアアアアアア――ッ!!」
それは……悲鳴ではなかった。
それは……人の声ですらなかった。
それは、獣の遠吠えとも……地獄の底から響く苦悶の残響とも言える。
しかも、それは――一つではなかった。
二つ……三つ……十、二十、百――
数えること自体に意味がなくなるほどの、無数の叫びが……洞の奥から溢れ出す。
そして――そこから現れたのは……**〈闇〉**だった。
翼を持つ怪物。
目のない女。
三本足の鬼。
腹から人間の手が生えた蜘蛛。
すべてが瘴気に包まれ……飢えと怒りと呪詛を纏いながら、地を這うように出てくる。
「あれは……!」
「百鬼夜行?」
――違う。
それは、“それ”以上だった。
遥かに禍々しく……混沌としていて、そして――制御不能な“何か”。
「……これは、“千鬼夜行”」
誰かが、かすれた声でそう呟いた。
帝に長らく仕えてきた老陰陽師。
その顔は青ざめ……目には純粋な“畏怖”が宿っていた。
「古き記録に、一度だけ記されていた……
すべての封印された禍が、一夜にして解き放たれた、“災厄の夜”――」
そして、“それ”は……現れた。
――金属を引きずるような、重い音。
大地が揺れ……空間そのものが拒絶するように――歪む。
漆黒の洞窟から……
一歩、また一歩と――
その“巨影”が、姿を現す。
その高さ……五丈(約十五メートル)。
左腕は、巨大な刃のように鋭く。
右腕は、無数の鈍器が折り重なったような……異形の塊。
その肉体は……骨と溶けた硝子で構成されているかのように脆く、歪んでいた。
まるで――“呪いの意志”だけで無理矢理に形を保っている、不自然な“存在”。
だが――
何よりも人々の視線を奪ったのは、その“目”だった。
額の中央に……一つだけ宿る、巨大な“目”。
それは――燃えるような紅に輝き、
この世界そのものを“敵”と断じているかのように……すべてを睨みつけていた。
「ッ……!」
誰ひとりとして――動けなかった。
恐怖ではない。
ただ……その“圧”が、存在そのものが――すべてを支配していた。
その場にいるだけで……術式が乱れ、式神は怯え、思考が凍る。
そして――
「……やれ」
それは……誰の声でもなかった。
だが確かに、すべての者の脳裏に――“命令”として響いた。
次の瞬間――
斬撃が走る。
視界が……真っ二つに裂かれた。
時が……止まったように感じた。
音も、叫びも、術すらも――存在しない。
ほんの一瞬の出来事。
……だが、それだけで――すべてが終わった。
大地が――裂け、
樹々が……なぎ倒され、
空は――灰色に染まった。
式神は粉々に砕け、
陰陽師たちの身体が――
「ぐっあああ!!」
誰かが、悲鳴を上げた。
だが……大半はその声すら上げる暇もなく、
沈黙のまま――倒れた。
たった一撃で……戦場は消滅した。
「逃げろ!
……せめて、一人でも生き残って、
このことを――伝えてくれ!」
――遅すぎた。
助けるには……あまりにも、遅すぎた。
夜は、染まる。
血に。
炎に。
絶叫に。
――そしてこうして、“戦”は終わった。
そして……“破滅の幕開け”が、始まった。
* * *
……まだ、身体には訓練の疲れが残っていた。
川の流れを、ぼんやりと眺めながら――俺は思い出していた。
いつも夢の中に現れる……あの少女のことを。
「雪代」と呼ばれる少女。
誰もが自然とその名を口にし……
彼女は、家族や友人たちと穏やかに――日々を過ごしていた。
ある夜……彼女は俺に、微笑みかけた。
その笑顔には――優しさと冷たさが、不思議に同居していた。
またある夜……彼女は俺を、まるで“異邦人”のように見つめた。
まるで……こう言っているようだった。
「君はこの世界には――属していない」
そして、ある日。
彼女は……沈黙の中へと静かに――消えていった。
言葉も……感情も……すべてが無音に吸い込まれるような――深淵。
だが、不思議なことに――その静けさから俺は、
“何か”を……学んだ気がした。
彼女を見るたびに、なぜか……俺は笑ってしまう。
理由は――分からない。
いや……本当は、分かっている。
ただ、彼女が――そこにいるだけで……
この世界は、ほんの少しだけ……退屈じゃなくなるのだ。
「……また、ぼんやりしてるのね。三河」
その声は――春風のように耳を撫でた。
月華様の声。
ときに……花の香りを帯び、
ときに……血の香りを纏う。
すべては――あの御方の気分次第だった。
「ちょっと……考え事をしていただけです」
「……彼女のこと?」
振り向くと、月華様は――湖面のように静かな笑みを浮かべていた。
だが、その奥には……何かがあった。
「……雪代、と呼ばれる彼女――ご存知なのですか?」
自然と……声が震えていた。
だが、月華様はただ――
微笑んだ。
それは……肯定か否かを語らぬ、神秘の微笑。
そして――静かに背を向けると、川の水面の上を歩き出した。
彼女の足元には……光が生まれ、そして消えていく。
まるで……儚い記憶の欠片のように。
神は……決して、答えを与えない。
ただ、“問い”を残す。
俺たちが迷い、もがき続ける姿を――
どこか遠くから……静かに見つめている。
その瞳に……憐れみがあるのかどうかは、誰にもわからない。
俺は――地面に描いた雪代の顔を見つめる。
風に揺れて、線が……少しずつ薄れていく。
「……頼むよ。また、いつものみたいに……助けてくれ」
呟くように笑い、そして……心の中で思った。
まだ――その時じゃない。
けれど……必ず、“その時”は来る。
風が運んだ、あの声を思い出す。
「……この世界が動き出すのは、“機”と“縁”が重なった時だけ」
俺は、また――“俺”に戻った。
静かに……夜を待つ。
今夜も、きっと……彼女は夢に現れる。
そして――今夜こそ。
彼女に、尋ねる覚悟を決める。
……もし、答えを聞く勇気が、あるのなら。
いろいろな感情が湧き上がりながらも、できるだけ集中して書こうと心がけました。読んでくださる皆様に楽しんでいただけたら嬉しいです。