68. 神々は観た、ひとりの人間を
「この瞬間だけは、神々すら口を閉じる。
なぜなら、この物語の結末を紡ぐのは――人間だからだ。」
「ふふっ――私って、そんなに危険だったかしら?」
その甘えたような、そして小悪魔めいた態度は、八幡神のような大御所の神でさえ、ほんの一瞬、堪忍袋の緒が切れそうになるほどだった。
「やめろ、星羅殿。そのような振る舞いは、お前にふさわしくない。かつてタカマガハラの半軍を単身で壊滅させ、個人的な理由だけでスサノオ様を追い詰めた月の女神にはな。」
星羅は小さく笑い、手にしていた薙刀がゆっくりと木製の扇子へと姿を変えていく。
「そう言うなら、そうするわ。八幡。」
その瞬間、先ほどまで空を割らんばかりだった緊張感は、香の煙のようにふわりと消えていった。
二人は再び肩を並べて座り、夜空を仰ぐ。
その夜の京の空は、紅く染まっていた。
雷鳴と霊的な爆発、そして結界で覆われた呪詛の霧――
人の目には、さながら地獄絵図のように映るだろう。
だが、この二柱の神にとっては、どこか祭りの花火のようでもあった。
うるさくて、騒がしくて、でもなぜか目が離せない。
「……星羅殿。」
八幡がぽつりと呟く。
「ひとつ、聞いてもいいか? あの人間の子のことだ。お前がいつも庇っている、あの者。」
星羅は何も言わず、少しだけ腰をずらす。
やがて、囁くような声が返ってきた。
「――聞きたいなら、聞けばいい。」
「なぜ、そこまでした? 神々の秘術を教え、人間には本来与えてはならぬ力まで授けてまで……なぜ、彼に?」
しかし星羅は、すぐには答えなかった。
星羅は何も言わず、扇で口元をそっと隠したまま、星ひとつない夜空を見上げる。
まるで、あの闇の中に何かを探しているかのように。
一拍の沈黙。
そして――微笑みが戻ってきた。
「いいじゃない?」
扇を指先でくるくると器用に回しながら、星羅が言う。
「長い長い時を生きてきて、ようやく初めて“弟子”ができたのよ? 少しくらい特別な力を教えてあげたって……ふふっ。」
その笑い声は軽やかで、どこか無邪気だった。
だが、その背後にある意味は――とても重い。
八幡はすぐには返事をせず、しばらく空虚な眼差しを地上へと落とす。
燃えるような霊的爆発が、下界を紅蓮に染め上げていた。
夜空は、まるで墨絵に火を点けたような光景だった。
「……その“少し”で、もう奴は小神クラスだ。」
ぼそりと呟いたその声には、わずかに苛立ちが混じっていた。
「もし、お前が本気でその魂を欲しているなら――
いずれ訪れる“その時”まで、じっと待っていればいいだろう?」
「ぱしっ。」
静かな音を立てて、扇が閉じられる。
星羅はそちらへ顔を向け、つまらなそうな目で八幡を見た。
「……私が、今までそんなに我慢強い神に見えた?」
その言葉に、八幡は思わず吹き出してしまった。
可笑しいわけではない。だが、論理だけでは世界は持たない。
時には、こんな小さな笑いが必要になる。
「いや、悪い。ちょっと意外だっただけだ。」
「なにが?」
「タカマガハラ最強格の一柱にも、ちゃんと“女”の顔があるんだなって。」
星羅の頬がぷくっと膨らんだ。
その反応は、まるで人間の娘のようで――
「もう、失礼ね。仕方ないじゃない。可愛いんだもの、あの子。」
「放っておけるわけないでしょ?」
そして、扇の端をトントンと肩に当てながら、少しだけ目を細めた。
「それに……あの子、三河の冷たい部分も持ってて、それがまた――魅力的なのよね。」
「魅力、ね。……恐ろしくもあるが。」
八幡は小さく首を振った。
それはまるで、星羅が庇うあの人間の子への同情を、振り払うかのように。
「……なんだか、少しだけ同情してしまいそうだな。あの子――名前は確か、安倍のヒロウだったか? あるいは……織田・三河、だったか?」
「そうよ。」
星羅はゆるやかに扇を振る。
まるで空中に“運命の線”でも描いているかのように。
「でも正直に言えば、“徳川三河”って呼び名の方が、象徴的にはしっくりくる気がするの。」
八幡の眼差しが変わる。
ただ眺めるだけの目ではない。
それは、魂の層を貫くような視線。
その視線の先にあるのは、今まさに“テガタナ鬼”と死闘を繰り広げている人間――
恐ろしい霊気をまとう剣を握り、
戦いそのものを愉しむような紅の瞳を宿し、
呪のように鋭い意思を秘めた者。
織田三河。
もしくは、安倍のヒロウ。
「お前の趣味に合うかどうかは知らないが……」
八幡の声は、やや低く、重くなった。
「――あの魂、すでに人の枠を超えている。
層と層が重なりすぎて、歪になっている。
まるで、燃やしきれなかった“トラウマ”と“覚悟”で作られたような……そんな魂だ。」
少し、沈黙。
「だが――」
「血筋、祖霊、霊的系譜……すべてを辿った上で言える。
今のこの国の“流れ”を、本当の意味で変えられる唯一の人間かもしれん。」
「――残念だけどね。」
星羅は空を見上げ、そっと言った。
「彼、考えすぎるの。必要のないことまで。
まるで、この世界を“理屈”で理解できると信じてるかのように。」
「……オーバーシンキングか。」
八幡はこめかみを指で押さえながら、深く息をついた。
「でもね……おかしいのよ。」
星羅の声は、夜の風よりも静かだった。
「一度決意すると、あの子は――まるで“悪魔”みたいに変わるの。躊躇なく、冷酷に。でもそれは、心が黒いからじゃない。」
扇を軽くひとひら揺らしながら、彼女は言葉を継ぐ。
「必要なら、"悪"になることを“選ぶ”からよ。」
その言葉に、八幡は小さく息を吐く。
「……それこそ、“徳川家康”の血筋の特徴じゃないか。」
その声音は、ほとんど独り言に近かった。
「冷徹な決断で戦国を終わらせる――
だがその手は、常に血に濡れていた。」
その言葉に、誇りの色はなかった。
むしろ、その語尾にはわずかな迷いがあった。
まるで、“正しい判断”をした者ほど、歴史に酷く扱われることを、彼自身が誰よりも知っているように。
星羅は、ふと地平を見つめた。
その瞳は――一瞬だけ、“将”の目になっていた。
鋭く、広く、計算され尽くした視野。
遠くに、他の神々の気配が見えた。
神社の屋根の上。
巨樹の枝。
宙空に浮かぶ神域。
彼らは皆、何かを待っている。
あるいは、誰かを。
「……知ってる。」
星羅は、淡々とした口調で言った。
「三河は、私の選択。……だけど、より正確に言えば――」
「“アマテラスの選びし者”って言うべきかもしれないわね。」
八幡の肩がわずかに震える。
それは、全ての盤面が最初から仕組まれていたことに、ようやく気づいた者の反応。
――自分が座っていたこの場所が、すでに“戦場”の只中だったと知った瞬間の表情。
「……噂では聞いていたが。」
八幡は目を細める。
「アマテラス様の“七柱の守護者”たちが、それぞれ独自の任務に動いているって……まさか、これがそのひとつだというのか?」
星羅は扇を指先でくるくると回しながら、ふっと笑った。
「私はただ、自分の“任務”を果たしているだけよ。……まあ、99%くらいは遊び感覚かもしれないけど。」
その軽口に、八幡は反論できなかった。
星羅の“格”を、彼は誰よりもよく知っている。
彼女は――
《高天原最後の防壁》
アマテラスが誇る、七柱の守護者の中で“第一位”を冠する者。
本来であれば、“守り”のために地上に降りてくるような存在ではない。
「……人間一人を守るために動くには、大仰すぎる。」
その声は低く、正直で――同時に、どこか疑念を含んでいた。
だが星羅は、やはり笑っていた。
けれど今回のその笑みには、ほんのわずかに――“鋭さ”が混じっていた。
それは、無邪気な微笑みではない。
それは、警告を秘めた微笑だった。
「アマテラス様の“選択”に、異を唱えるつもりかしら? 八幡殿。」
――その一言に、空気が一瞬張り詰めた。
八幡の肩がわずかに硬直する。
たとえ神であっても、“触れてはならぬ一線”があると知っている。
「……まさか。異を唱えるなんて。ただ……理解できないだけだ。」
星羅はふと空を仰ぎ見た。
「この“劇”が幕を下ろした時には――少しはわかるはずよ。
なぜ、アマテラスが三河を選んだのか。」
その声は、風のようにやさしく、
けれど夜の帳のように、静かに覆いかぶさる。
八幡の視線は、はるか下界へと向かう。
そこには――命の保証すらない戦場で、今もなお戦い続ける三河の姿があった。
言いたいことはいくつもあった。
だが、彼の口からこぼれたのは――
「……彼、何か大きなことを企んでるのか?」
八幡の問いに、星羅はくすっと笑った。
「大きなこと、じゃないわ。」
彼女はふと振り返り、八幡の目を真っ直ぐに見据える。
その瞳は――満月のように澄みきっていた。
「“常軌を逸してる”の。
神々ですら想像しなかったような、狂気のスケールで。」
静寂が落ちる。
そして――八幡が小さく笑った。
「……そこまで危険な存在なら、確かに“興味深い”人間だな。」
星羅は扇を静かに閉じた。
「八幡殿。」
その声から、戯れの色が消えていた。
「――考えたことはある?
“欲望”を否定せず、むしろそのエネルギーを別の方向へと“変換”する人間が、
この世界で最も危うい存在になり得るって。」
八幡はその言葉に目を細め、星羅をじっと見た。
「……それこそ、“善”を求める人間の理想ではないか?」
「いいえ。理想じゃ、足りないの。」
星羅は静かに首を振り、そして空を仰いだ。
「災いの元とされてきたもの――
人を堕落させ、争わせ、破滅へと導いてきたその“根”を、
彼は飼い慣らそうとしている。」
「拒絶するんじゃなくて、それを“受け入れて”、
世界を救うための“素材”にしようとしてるのよ。」
「……何を言ってるんだ?」
八幡の声に、ほんのわずかに困惑が混じった。
だが星羅は答えない。
その代わりに――彼女はゆっくりと立ち上がった。
その所作は、夜風に舞う月光のように静かで美しかった。
袂が風に揺れ、彼女の輪郭が淡く浮かび上がる。
それはもはや、“人”でも、“神”でもなかった。
何か――もっと古くて、もっと高次の存在。
存在の“間”を歩く者のように。
月と虚無に包まれたその姿は、まるで“旧き世界”の最後の守人のようだった。
その微笑には――すでに始まる前から勝利を収めた者の静かな誇りが宿っていた。
「八幡殿。そして、今宵の京に集うすべての神々へ。」
星羅は夜空を見上げる。
その先には、弟子が編み出した結界の彼方に隠れた星々があった。
「――沈黙を。」
「誰も、何も、乱してはならない。」
そして――
詩を詠むように、やさしく語った。
「物語の主役に、この“結末”を託しましょう。」
その一言が放たれた瞬間――
京の夜が、一瞬、時を止めたかのようだった。
陰陽師と妖たちが入り乱れる修羅の只中に、
まるで風のない湖面のような静寂が広がっていく。
わずかに生まれたその静けさが――
この夜を、“運命が書き換えられる前の最後の夜”に変えた。




