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66. 私のいない時代が、始まっていた

「理解が、間に合わない。

私は、ただ取り残されていた。」


この日本には――

“災厄”に抗える者がいる。

目に見えぬ力を操り、

どの“制度”にも許可されることなく、

ただ、英雄として立つ者が。

……だが、徳川家康たるこの私が、その名を聞いたことは一度もない。

その手綱を握ったこともなければ、

その存在に――気づいたことすらなかった。

つまり、私は……

自らの権威の陰に、“病”を育ててしまっていたということだ。

誰の目にも映らぬその病は、

いまや嵐すらも抑え込むほどの力を手に入れていた。

――そして私は、ただ立ち尽くし、それを見上げるしかできなかった。

私だけではない。

いつもなら敵を一刀両断にする忠勝も、

普段は黙して語らぬ政成までもが……息を呑んでいた。

我ら三人は、夜空を仰いでいた。

そこにあったのは、ただの“現象”ではない。

神話だった。

神々の戦が、いま――

帝都の真上で、現実のものとなっていた。

異様な色彩が空を裂き、渦を描き、

無数の花弁のような光を放っては、

やがて、塔よりも高くそびえる“巨影”を生み出す。

それは、花火ではない。

人の手によるものでもない。

もっと原初的で、もっと野性で、――そして何よりも、“真実”だった。

そのとき、渋川が口を開いた。

まるでこれが日常であるかのような静けさで。

「今、前線に立っているのは……

霊気大将級の陰陽師たちと――安倍の比楼。

幕府の兵が動けば、ただ妖たちの餌になるだけだ」

私は、彼の方を振り返った。

その言葉は――まるで鞭のようだった。

優しく、だが深く……心に痛みを刻み込む。

侮辱の意図はないと、分かっていた。

けれど、それでも……

“徳川の軍勢”――この国の象徴とまで言われた我らが、

ただの“囮”でしかないと告げられたその事実は、

胸の奥を締めつけるには十分すぎた。

遠くの空の向こう、

その姿が、はっきりと見えた。

神をも思わせる、しかし“忘れ去られた怨念”から生まれたような――

禍々しき巨影。

全身に角が生え、

黒い脈動が絶えず身体を巡るそれは、

一歩歩くだけで、大地ごと震わせていた。

……たとえ空越しに眺めるだけでも、その圧は絶大だった。

そして、それに立ち向かうのは――

人間だった。

たった一人の、人間。

想像しただけで、足がすくむ。

あの“何か”を前に、なおも立つ者がいるなどと……。

「つまり、我々ができるのは……黙って見ていることだけか?」

私は、呟くように問うた。

「まあ……そんなところだな」

渋川の返事は、まるで天気予報でも伝えるかのような無感情なものだった。

だが、その静かなやり取りの背後で――

空は、恐ろしいほどに美しかった。

まるで死を告げる、最後の花火のように。

その“美しさ”は、恐怖を超えて……ただ、心を奪う。

そんな沈黙のなか、

最初から私の目を引いていた少女が――

静かに、そして丁寧に、帝へと一礼した。

「そろそろ参りますか、神崎殿?」

「ええ、陛下。

お預かりした“任”を、これより果たしてまいります」

「どうか、お気をつけて。……犠牲者が、あまり出ませんように」

「私も、そう願っております。――では、これにて失礼いたします」

その声は、柔らかく、澄みきっていて……

まるで人間のものとは思えなかった。

ただ“話す”ための声ではない。

自然そのものを鎮めるために、訓練されてきたような――

そんな響きだった。

忠勝が、目を見開いた。

政成でさえ、息を止めていた。

いつも頼りにしている二人の剣士が、

まるで田舎の若武者のように呆けている姿は……少し情けなかった。

そして彼女は、ゆっくりと我々三人の方へと振り向いた。

その微笑みは、攻撃的ではなかった。

だが、ほんの少しだけ胸の奥に刺さるような――

それは“愛情”ではなく、“喪失感”に近い痛みだった。

「先程の無礼、どうかお許しください。

大御所様、忠勝様、そして服部様――」

彼女は丁寧に一礼し、そして静かに名乗った。

「神崎と申します。

京都にて“大光屋”という名の茶屋、宿屋、診療所、

そして……芸者の遊宴を営む、ただの一人の女でございます。

もし、幕府様にて何かお力が必要な際には、

微力ながらお手伝いさせていただきます」

忠勝は、まるで恋の矢に射抜かれたかのような顔をしていた。

政成でさえ、珍しく赤らみながら、不自然な咳払いを繰り返していた。

……だが、私はただ黙っていた。

興味がないわけじゃない。

正直に言えば、

この老いた心ですら震えるほど、彼女は“完璧”すぎた。

けれど――

私の心には、すでに美雪みゆきという名がある。

それだけで、十分だった。

私はもう――

微笑ひとつで恋に落ちるような若造ではない。

この身で、あまりにも多くの季節を生きてきた。

もはや、乾ききらぬ根から“新しい感情”が芽吹くことなど、許されるはずもなかった。

私は、わざと咳払いをした。

「……ゴホン。――よかろう。その申し出、覚えておこう。

だが、ひとつだけ気になることがある。

どうして、今の今までその名を耳にしたことがなかったのだ?」

何気ない問いのように装った。

だが、それはひとつの“試み”だった。

何重にも張り巡らせた監視網――

諜報役の浪人、行政役人、そして乞食に紛れた密偵までも。

この徳川の目が、“彼女のような存在”を見逃すはずがない。

だが、彼女はただ、静かに微笑んだ。

その笑みには――

嘘を隠す意図もなければ、試されているという意識すら感じさせなかった。

まるで、“試すこと自体に興味がない”者のように。

「この二年ほどで、ようやく基盤が整ってまいりましたので」

そう穏やかに言った彼女の声は、

まるで風鈴の音のように涼やかだった。

「まだ“大御所様”のお耳に届くほどの商いではなかったのかもしれません」

……完璧な答えだった。

あまりにも、完璧すぎた。

彼女の近くにいると――

正直、心が揺らぐ。

いけないと分かっていながら、思考が逸れる。

あの美貌、あの所作、あの知性。

すべてが、あまりにも洗練されすぎていた。

この時代において、あれほどの器量を持つ女に許される道は――

せいぜい、高貴な男の側室止まり。

だが彼女は、その“期待”すら超えていた。

……だが、いけない。

私は、もう“自制”という言葉の重みを知る年齢なのだ。

「そうか。――で、なぜお前がここにいる?

御所から、お前にどんな“依頼”があったのか?」

もし帝がこの女を使って、幕府の影響力に介入しようとしているなら――

私は、さらに慎重にならねばならない。

だが、神崎の返答はあまりにもあっさりとしていた。

まるで風に乗せた挨拶のように、自然な声音で。

「陛下からのご依頼は、

負傷した陰陽師の治療と、京都へ避難してきた民の看護。

それと、私や仲間たちが破損した建物の修復に協力することで、

幕府様が災害の修繕費を負担なさらずに済むように、とのことでした」

……私は、黙り込んだ。

疑っているわけではない。

むしろ、その理屈があまりにも“正しすぎた”からだ。

――これほどの口ぶりで語れる女が、

いったいどれほどの資産を動かしているのか。

「保有している石高は、どれほどだ?」

私は率直に尋ねた。

「多くはありませんよ」

彼女は微笑みながら、淡々と答えた。

「五百石ほどでしょうか。

ですが今月は千石に届きました。

京都の復興が進むにつれ、収入も自然と増えていきましたので」

……“多くはありません”、か。

この女――

本当に危険だ。

力の強さゆえではない。

この“静けさ”が、怖いのだ。

まるで……

誰にも気づかれずに咲く花のように。

咲いた瞬間、世界そのものが彼女を見ざるを得なくなる――そんな在り方。

「そうか。……この時代に、女でそこまで成し遂げるとは。見事だな」

そう言った私に、彼女はほんのわずかに頭を下げた。

その仕草は、あまりにも真摯で――

なぜか、胸の奥に“罪悪感”すら芽生えさせた。

「私は……自分にできる範囲で、ただ精一杯やっているだけです。

むしろ感謝しているのは私の方です、大御所様。

――私のような女が、自分の運命を変えられる“時代”を創ってくださったことに」

……見事だった。

それは称賛のようでありながら、

同時に鋭く胸を突く一言だった。

――あなたが築いた時代が、私という存在を生みました。

その“結果”に、あなたは向き合う覚悟がありますか?

……そんな問いが、彼女の言葉の奥に潜んでいた。

私は静かに頷いた。

「それを成し遂げられるのは、真に強い意志を持った者だけだ」

「では……これにて、失礼いたします」

彼女が立ち上がり、歩み去った瞬間――

空気が、まるで解き放たれたかのように緩んだ。

だが、私は見逃さなかった。

忠勝も政成も、未だに彼女の背中を見つめたまま、

現実に帰ってこれていない。

「お前たち……そろそろ、いい加減にしろ」

その一言で、二人ははっとして顔を伏せた。

頬が赤く染まり、子供のようにうろたえていた。

私はため息をひとつつき、

再び外の空へと視線を向ける。

空は、まだ燃えていた。

戦は、まだ続いていた。

そして――

胸の奥に、ひとつの願いが芽生えていた。

……どうか、これが早く終わりますように。

もはや恐れているのは、物理的な“崩壊”ではなかった。

私の心を占めていたのは、

“理解が置いていかれること”への恐怖だった。

この世界は、変わろうとしている。

……そしてその変化に、私は――もう、必要とされていないのかもしれない。


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