65. 神なき時代の守護者
「この目で見たものが、史書には決して記されない。」
「……まだ、どうしても理解できないことがある。」
――私は口を開いた。
「なぜ、いきなり深界妖怪が京都に現れた? まさか……ずっとその存在を、我々から隠していたのか?」
その問いかけは、空気に――波紋のような不安を広げた。
数人の公家たちが、首を横に振った。
そして、いつもなら皮肉めいた笑みを浮かべる志深川命・渋川雅友でさえ、今回ばかりは……真摯な態度だった。
「……もし我々にそれができていたなら――」
彼は静かに言った。
「徳川幕府が今日まで存続するなど、不可能だったはずです。」
――私は黙り込んだ。
たしかに、その通りだ。
……だが、それがかえって恐ろしかった。
なぜなら、彼らが知らなかったということは――
我々の手の届かぬ“何か”が、すでに動き出しているということになるからだ。
「……では、なぜ彼らは現れた?」
「今のところ――我々にも答えはありません。」
彼は、肩をすくめながら答えた。
「だが……もし私の予想が正しければ――すべての鍵を握っているのは、“あのとんでもない不遜な若造”でしょうな。」
「世に知られる《妖怪最終》安倍の比楼です。」
その名を口にした瞬間――彼はまた、愉快そうに笑った。
……聞いたこともない名だった。
だが不思議なことに、その名が語られた途端――
部屋の空気が、ほんのわずかに冷え込んだ気がした。
「阿倍? まさか……阿倍家の血筋という意味か?」
「正確に言えば……帝の御所に記録された“正統な阿倍家”の末裔かどうかは分からん。
――だが、その力は、決して侮れない。」
渋川は少し言葉を切り、視線を落とした。
「……実のところ、私も驚いたのですよ。
京都に現れた――あの四体の巨大妖怪。
そのすべてから、彼の気配が……濃密に流れている。
まるで彼は、奴らを“呼んだ”だけではない――
“縛っている”かのように。」
そして彼は、また笑った。
それは、喜びの笑いではなかった。
……おそらくそれが、現実味を帯びてきた恐怖に飲まれないための、彼なりの――唯一の処し方だったのだろう。
一方、私は――沈黙したままだった。
人生で初めて……自分が「ただの老人に過ぎない」と感じた。
戦場のど真ん中で剣を握っているにもかかわらず、もはやその“剣”という存在自体が――否定されたような、そんな錯覚に襲われていた。
「……人間に、それほどの力があるのなら――なぜ、私は今まで知らなかった?」
それは……自分の意識よりも先に、口から零れ落ちた言葉だった。
この私――表からも、裏からも、日本を操ってきたこの手が……ついに認めたのだ。
自らの影響が届かない“もうひとつの世界”が、存在していたことを。
その事実のほうが……戦よりも、はるかに恐ろしかった。
妖怪をも従える人間が存在する――その想像だけで、背筋に冷たいものが走る。
気温ではない。
……制御不能な恐怖だ。
そのような存在は――私を黙らせた信玄よりも、
私を閉じ込めた秀吉よりも……私の道を焼き払った信長よりも、遥かに危険だ。
志深川命・渋川雅友は、そんな私の胸の内を読み取ったかのように……静かに口を開いた。
「……大御所様。そこまでご心配なさらずとも――大丈夫です。」
まるで……私の心を覗いたかのような声音だった。
「安倍の比楼は、一応帝の陰陽寮に名を連ねています。
形式上は“協力者”だそうですが……本人は“ただのボランティア”と言っていました。」
そして彼は、さらに一言付け加えた。
――その声は、むしろ怒声よりも不気味だった。
「……私は、彼の思考がまるで理解できないのです。」
私は――反射的に彼を見た。
「……つまり、今あの京都を守っているのは……彼、なのか?」
志深川命・渋川雅友は、ゆっくりと――うなずいた。
「まあ、そんなところでしょうな。
ですが……もしご自身の目で彼をご覧になれば――私よりも、よほど多くを理解されると思います。」
まるで……運命が舞台の幕を引こうとしているかのように、彼は軽く――命じた。
「……障子を開けよ。」
木と布が擦れ合う音が、室内に――静かに響く。
そして、そこから差し込んできたのは……
“夜”とは思えないほどに明るい、異様な光だった。
私の目に映ったのは……常識では語れぬ光景だった。
京都の空――
それはまるで、神々が戦を繰り広げる天上の戦場だった。
無数の光が空に舞い、炸裂し、
渦を描き……稲妻のように裂け――
そして、人智を超えた抽象的な“何か”の姿を成していた。
その轟きは――砲撃ではない。
まるで……大地そのものの叫びを、空が代弁しているかのようだった。
――そして、その遥か彼方から。
濃密な闇の嵐が……静かに、しかし確実に――京都へと迫っていた。
「……これも、安倍の比楼の仕業か?」
誰に向けたのか……自分でも分からぬ問いだった。
渋川は、視線を空に向けたまま――
こちらを振り返ることなく、答えた。
「……いいえ。帝の陰陽師たちも、できる限りの支援をしています。
――ですが、正直に申し上げましょう。
今の京都の防衛の九割は……安倍の比楼、ただ一人の力によるものです。」
その言葉は――まるで、鉄槌のように私の胸に落ちた。
これまでのどんな敗北よりも……重かった。
なぜなら――それは戦の敗北ではなかったからだ。
……“時代”そのものに、私は敗れたのだ。




