59. 決断と仮面、霧の都にて
「進む者には……迷いが許されない。
だが――迷いを許した者だけが、導ける未来もある。」
歩みは……決して速くはなかった。
だが――一歩一歩が、まるで地に刻み込むように、確かなものだった。
そしてその姿は……いつものように“解決そのもの”ではなく、
「もはや、解決を先延ばしにはできぬ」という――時の到来を告げるものだった。
望もうと……望むまいと。
「浪人たちにも避難を命じよ。――皇居の守備は、将軍家の兵に任せるのだ。」
家康は……わずかに顔を動かした。
その先にいたのは――鷹司信房、関白。
その顔に……勝者の余裕は微塵もなかった。
ただそこにあったのは――終わらぬ争いの間で、終止符を打てぬまま調停に奔走し続けた男の……深い疲れだけだった。
「承知いたしました、関白殿。」
金一は……深々と頭を下げ、
嵐の空を飛び続けた……疲れ切った鳥のように、静かに身を翻して駆け出した。
そして、信房が……家康の前に進み出る。
「大御所様に、無礼がありましたら……お詫び申し上げます。」
その声音は……低く、静かだった。
家康は……彼を見つめ返した。
微笑も、叱責も……そこにはない。
ただ、似たような重荷を背負ってきた者だけが分かる――静かな疲労の色があった。
「状況のすべてを把握しているわけではない。
だが……できる限り、この都を守ろうと思っている。」
それは――中立的な言葉だった。
だが、信房には……分かっていた。
徳川家康の口から放たれる「中立」は、時として――警戒の印であり、
あるいは――最後通牒に等しいものであることを。
そしてそれを……勝重もまた、理解していたはずだ。
それは――約束ではない。
警告だった。
あと一歩でも踏み違えれば……京を包むのは、霧ではない。
煙と――炎になるだろう。
「帝のお言葉により、家康公、そして本多殿、服部殿を――内裏へとお連れするよう仰せつかっております。
どうか……ご同行を。」
家康は……静かに、しかし確かに――頷いた。
そして、家康は……傍らの部下へと視線を向けた。
「勝重。――優先順位を変更せよ。
まずは皇居の安全を確保するのだ。
その後で……京を整える。」
「はっ、承知いたしました。」
三人は……静かに歩き出した。
消えぬ霧の中を……一歩、また一歩と――進んでいく。
そして、家康は……知っていた。誰よりも――深く。
この世が……その姿を見せようとしないとき。
指導者とは――まず、自らが踏み出さねばならぬ存在なのだ。
たとえ、その足元が……まだ“現実”である保証すら――なかったとしても。
***
茜や穂津子、蒼希をからかいながら……ふざけていたその時、
ふと――風向きが変わったことに気づいた。
ずっと上空を舞っていた月華様が……テレパシーで語りかけてくる。
「本当に……父上にあそこまで知られても平気なのかしら?」
『構わないさ。そもそも僕と帝側の間に……正式な契約なんて存在していないからね。』
「やれやれ……まるで悪の片棒を担いでいるみたい。
きっとあとで――天罰が下るに違いないわ。」
冗談めかした口調だったが……言っているのは天上の存在そのもの。
やはり――妙な説得力がある。
『少なくとも、家康が今まで守ってきた……この儚く脆い平和の姿だけは見せておきたいんだ。
敵が多すぎてね。一度にすべてと向き合えば……確実に崩れてしまう。
だからこそ――焦点を分散させることが必要なんだよ。』
「ふふふ……第七魔王ともあろう者が、なにを聖人ぶってるのかしら。
その気になれば、一撃で全部蹴散らせる力があるくせに。
――なぜ、そんな優しい手段を選ぶの?」
布で覆われた口元の奥で……そっと、微笑む。
『もちろん。いつもそばにいてくれる女神様に……最高の娯楽をお届けしなくちゃね。』
「そう言っておきながら……どうやらすべて計画通りに進んでいるように見えるけど?」
『さあ、どうだろうね。うまくいっているのは事実だけど……僕自身も確信はないよ。』
「それって、つまり――わざと、こうなるように仕向けたってこと?」
『少なくとも、“安倍の比楼”という仮面は……疑念を向けられるにはちょうどいい顔さ。
それに――単なる人間との戦い以上の混沌に直面したとき、
家康がどんな判断を下すのか……僕としても、それはとても興味深いところなんだ。』
月華様は、また――くすくすと笑った。
「やれやれ……これが復讐だとしたら、ちょっとやりすぎじゃないかしら。
まあ――もう全てが始まってしまった以上、手遅れだけどね。」
『少なくとも……僕が最初に仕掛けたわけじゃない。
でも――今の状況は、だいたい把握してるよ。』
「そうなら……今こそ、目の前の三人君に夢中な女の子たちに集中すべきじゃない?」
……しまった。彼女たちの存在を……少し忘れていた。
「比楼、さっきから――何をボーッとしてるの?」
心配そうに近寄ってきたのは……茜だった。
『ああ……なんでもないよ。どうかしたの、茜?』
「前にも言ったでしょ?
どうやら大御所・徳川家康様が……ついに京都に入られたみたい。
今はもう――皇居に到着された頃よ。」
『そうか……陰陽師たちには、将軍家の兵とは接触しないように指示したかい?』
「もちろん。
けれど問題は――南東の防衛線に張りついている陰陽師たちよ。
もし彼らを退かせたら……あなたを守る者がいなくなる。」
……なるほど。
やっと――事情が見えてきた。
『下げてくれて構わないよ。
これ以上、大きな騒ぎを起こすわけにはいかないからね。』
「でも……京都全域を覆う妖怪避けの結界を一人で維持するなんて、正気じゃない。
少なくとも、私と蒼希に――手伝わせて。」
そのとき――穂津子の八咫烏が、頭上を旋回しながら声をかけてきた。
「私もすぐに到着する。
霊気大将三人の力が揃えば……壊された結界の再生に必要な時間を稼げるはず。」




