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58. 言葉なき戦、礼の中の刃

「忠誠とは、時に――刀よりも静かに……人を裂く。」


「お前は分かっていないのか? この行為は、徳川幕府に対する“反逆”と見なされても……仕方がないのだぞ。」

勝重の声色は、低くなった。

だが、その抑えた声には――かえって重く、鋭い圧が込められていた。

家康にも、それは……感じ取れた。

張りつめた堤防は、あと一滴で――決壊する。

その瀬戸際が、今まさに……目の前にあった。

「道を開け。

我らが――直接、帝の意を聞く。」

だが、一条兼和は……一歩も引かなかった。

「現在、帝は――京の危機対応に専念されております。

すべてが落ち着いた後で……必ずや板倉殿にも事情をご説明くださるでしょう。」

言葉は、あまりに……整いすぎていた。

丁寧すぎて――逆に薄ら寒さを覚えるほどに。

この混乱、この張り詰めた状況に……似つかわしくないほど“完璧”な言葉。

家康は、こういう言葉を――何度も見てきた。

形式の中に……本音を隠す者たち。

言葉の美しさの裏に――崩れかけた真実が潜む時。

そして、それは……家康だけではない。

勝重もまた、同じものを……感じ取っていた。

だからこそ、彼の手が――上がりかけた。

それは、両陣営の誰もが……恐れていた「最初の一手」となりうる動きだった。

一つの動作が、数百の命を……火に投じる火種になる。

家康はすでに――その瞬間を止める準備をしていた。

今ではない。

ここではない。

ここで血が流れれば……燃えるのは京だけでは済まない。

だが、その刹那――

勝重の手が完全に上がる前に……誰かの声が、静かに場の空気を断ち切った。

その声はまるで……静けさそのものを刃にしたかのようだった。

細く、冷たく――ためらいなく。

まさに、静謐を纏った剣。

「勝重。――やめよ。」

その瞬間、空間が……凍りついた。

誰もが息を呑み、音が――消える。

一歩も動かぬ兵たち……揺れすら止めた空気。

時が、張りつめた弦の上で――止まったようだった。

家康が、ゆっくりと……隊列の奥から進み出る。

その声に、誰もが――知っていた。

それは議論の始まりではなく……決断の印だった。

勝重が、静かに……振り返る。

帝の兵、幕府の兵、傭われた浪人たちまでもが――その姿に目を向ける。

馬の蹄が……石を踏む音だけが、場の沈黙を切り裂いて響く。

家康は、中央で――馬を止めた。

その眼差しは……冷たい。

だが、そこに――怒りはなかった。

あったのは……重責。

終わらせるために、ここへ来たのだ。

燃やすためではなく――収めるために。

それは、そこにいた誰もが……理解していた。

この瞬間から――全てが変わるのだと。

本多忠勝と服部正成が、家康の左右に立つ。

三人は言葉を交わさぬまま……ただその場に立つだけで、空気を完全に支配していた。

彼らに――言葉はいらない。

時代の最前で共に歩んできたその背中が……全てを物語っていた。

家康の視線が、じわりと場を……なぞる。

槍を構えていた若き浪人たちも、次第に……武器を下ろしていく。

だが――それは敬意ではない。

混乱。

知らないことへの……漠然とした恐怖だった。

そして、そんな空白を秩序へと変えるものは――ただ一つ。

権威――その名の重みだけだ。

勝重が、一歩……前に出た。

「御館様ご到着、ありがたく思います。」

勝重の声は、相変わらず……静かだった。

だが家康には――分かった。

その静けさの奥に、限界が迫っているのが……見えた。

「どうやら、帝と公家・一条殿が……密かに謀反を企てているようです。」

率直だった。

あまりにも――真っすぐだった。

疑いというより……すでに“断定”に近い響き。

だが、それでも――間違っているとは思えなかった。

家康は……すぐには応じなかった。

ただ、視線をそっと――横に向ける。

目を留めたのは……最前列に立つ、豪奢な衣を纏った一人の男。

一条兼和。

その名を――家康は知っていた。

五摂家の血を引く、名門中の名門。

都が崩れようと……なおも礼儀を崩さぬ者。

その男が、深くではなく――程よく、礼を取った。

「一条殿。」

家康の口から、淡々と……名前が呼ばれる。

その声音は――乾いていて、感情もなく、ただ形式としての敬意のみを帯びていた。

「ここで……何が起きている?」

兼和は、まっすぐに……家康を見据える。

答えは――はっきりしていた。

その声音には……幼き頃より刷り込まれた、貴族特有の抑揚があった。

「妖怪の襲来により、帝は私に命じられました。

浪人たちを一時的に集め、急造の守備兵とするようにと。

これは一時的な措置であり……混乱が収まれば、すぐに解散する予定です。」

整った答え。

隙のない構文。

だが――あまりにも整いすぎている。

家康は、数十年に渡る……宮中の駆け引きの中で、こうした言葉を幾度となく聞いてきた。

美しく巻かれた書状の……裏面に滲んだ“真意”を読み解くこともまた、統治者の――務め。

それでも……今は口にしない。

反論も、否定もしない。

家康は……小さく一つ、頷いた。

それは「理解した」という意味にも……「判断は保留する」という意思にもなり得た。

その――曖昧な沈黙こそが、最も強い牽制になることを……彼は知っていた。

そして、家康は――再び口を開いた。

声は、大きくもなく……小さくもない。

ただ、それだけで――兵たちの進むべき道が見える声だった。

「勝重。――二条城へ戻れ。

今は……帝の命に従え。」

それは――譲歩ではなかった。

ただ、舵を切ったに過ぎない。

嵐の中で……賢き船乗りは、風に逆らわぬ。

ただ――時を見て、帆を張るだけ。

「かしこまりました、御館様。」

良い返答だった。

早すぎず……だが、一切の反発もない。

それが――忠義の証だった。

家康は……わずかに息を吸う。

霧は、まだ晴れず。

あの巨きな影の声も……未だ、沈黙を保っている。

だが――世界は、再びゆっくりと……動き始めた。

この混沌の中で、一つの静かな決断は――

千の怒声よりも……価値を持つ。

再び、彼は命じた。

「忠勝、正成。――兵を京の各所に展開せよ。

京方の兵と協力し……治安の維持にあたれ。」

それは――簡潔な命令だった。

だが、それだけで……街の鼓動が再び、律動を取り戻す気配を帯びた。

家康は……視界の隅で、わずかな違和感を捉える。

自軍の兵たちの列に……揺らぎがあった。

迷い。

彼らは……沈黙していた。

それが――かえって良かった。

戦場では……沈黙こそが、最も純粋な忠誠の証となることがある。

言葉は時に……決断を濁らせる。

そして、一条兼和が……再び一礼する。

今度は――先ほどよりも深く。

それは……言葉よりも多くを語っていた。

「ご理解いただき、恐悦至極に存じます、大御所様。」

一条兼和の言葉は、端正で……礼を尽くしていた。

だが――家康には分かっていた。

そこに“安堵”は……なかった。

ただ、“義務”の履行があるだけだった。

まるで……望まずに押された印判のように、ただ決められた形をなぞっただけ。

兼和が一歩……下がり、手を軽く振る。

その合図で、浪人たちが……動き出す。

彼らは、皇居の門を囲むように……散っていく。

足取りは速い。

だが――そこにはもはや、敵意の色はなかった。

緊張は残る。

だが……刃を抜く意思は見られない。

家康は……静かに周囲を見渡す。

霧は、まだ――深く漂っていた。

あの巨躯の影たちは……なお、動かない。

待っているのか。

それとも――ただ、見ているのか。

空気に満ちる霊圧は……祈りでも策でも癒せぬ、“裂け目”のようだった。

精神を削る、静かな――傷形なき脅威。

もし、あの妖の姿を自ら見ていなかったなら……家康は今頃、全員を拘束していたかもしれない。

あるいは、幕府軍を宮中へと……押し入れさせていたかもしれない。

――かもしれない。

だが今、この世界は……もはや“以前の理”に従ってはくれない。

その思考が形を成す前に……空気が裂けた。

清潔で、整った声音が……霧の中を、まっすぐ貫いてくる。

長く、権力と崩壊の狭間に立ち続けてきた者にとって――聞き覚えのある声だった。

「一条殿。――帝よりの御沙汰をお持ちいたしました。」

声の主は、西の方角から……姿を現す。

その後ろには、帝に仕える……二人の近侍を従えていた。


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