56. 霧深き京にて、まだ知らぬ世界を踏む
「最も恐ろしいのは、牙を剥く者ではない。
……沈黙のうちに立ち尽くす“何か”だ。」
――徳川家康の一行が京都へと足を踏み入れた、その時。
街には、既に……何かがおかしいという空気が流れていた。
陰陽師のような白衣の者たちが、混乱をいくらか抑えているように見えたが、
突如として立ち込めた深い霧と、街を包む不気味な光が――
状況をますます不可解なものにしていた。
そして……誰もが、目を奪われた。
初めて見る四体の巨大な影。
その異様な存在感の前には、家康の大行列さえ――人々の視界からかすんでしまう。
住人たちは、白衣の者たちの指示に従って、家々へと避難していく。
だが……その「行列」を目にした途端、陰陽師たちは一斉に逃げ去ってしまった。
「……どういうことだ?」
本多忠勝が一歩踏み出そうとした瞬間――
家康が手で制した。
「待て、忠勝。今は……軽々しく動くべきではない。
確認すべきことがある。」
「にしても、これは一体……この街に何が起きている?
なぜ突然、鬼の類が現れた?」
家康は、横に立つ服部正成に視線を送る。
「正成、報告はどうなっている?」
「――はい。こちらが放った忍びからの報告によれば……
あの光は街全体を包む結界のようなものを形成しており、
四体の巨躯は確かに存在しますが……奇妙なことに、まったく動く気配がありません。」
家康は周囲をもう一度見渡し……小さく息をついた。
「これを説明できるのは……ただ一つ。
――二条城へ向かうぞ。」
彼の言葉とともに、一行は再び動き出す。
だが――二条城に近づいたその時。
さらなる混乱が、彼らを待ち受けていた。
帝の御所へ向かおうとしていた将軍家の兵が……
なんと、宮中の兵に道を阻まれていたのだ。
城門の前で、二つの軍が睨み合う。
まるで今にも、刃が交わるかのように――
そこには、二条城から出陣した京都所司代・板倉勝重の姿もあった。
将軍家の兵を率い、その鋭い眼差しで前方を睨みつける。
「なぜ、将軍家の軍勢の行軍を妨げるのだ。
我らはただ……なぜ帝が一方的に“市民を屋内に留めよ”との勅命を出したのか、
その理由を問いたいだけだ。
この状況では――避難こそが最優先のはずだろう!」
勝重の語気は鋭く、怒りに満ちていた。
だが、それに対峙するのは……後関家の公家である一条兼和。
急遽、帝直属として徴募された浪人たちを率いていた。
「帝の御意は明白です。
……これは予測不能の非常事態。
板倉殿と徳川の兵には、二条城での待機を――お願いしたい。」
「貴様、それがどれほどの意味を持つか……分かっているのか。
その態度は、すなわち――徳川幕府への反逆と同義だぞ。
道を開け。我らが直接、帝から事情を聞く。」
「現在、帝は……京の危機に全力で対処されています。
すべてが終われば、誠意をもって――説明がなされるでしょう。」
その返答に、まるで侮辱されたかのように――
勝重の顔が紅潮する。
怒声が飛び交い、空気が張り詰め……今にも刀が抜かれようとした、その時。
「……勝重、やめよ。」
重く、威厳に満ちた声が――割り込む。
その声の主を認めた瞬間、場の空気が一変した。
――徳川家康。
その姿が、霧の中から現れる。
誰もが……息を呑んだ。
夜の京都は、未だ濃い霧に包まれていた。
いつものように静寂を連れてくるはずの夜の帳が、
今宵ばかりは――不気味なほど冷たく、重たい。
そして、その沈黙を破るのは……馬蹄と鎧の擦れる音。
それは、まるで“何か”が始まる前触れのように――
静かに、確かに、鳴り響いていた。
徳川家康が、その最前を歩く。
彼の目に映るのは……混迷する都の命運。
背筋は伸びている。
だが、その背中には――重みがあった。
年齢はすでに……若くはない。
本来なら、今ごろは静かに余生を送っていてもおかしくない――
それでも彼は、馬にまたがり、石畳の道を進む。
まるで……街そのものが、息を呑んで見守っているかのように。
道は、静まり返っていた。
その背に寄り添うように歩くのは……本多忠勝。
まるで武装した影のように、絶えず主を護る。
そして――ほんの一歩後ろには服部正成。
彼の鋭い眼差しは、霧の奥に……何かを見定めようとする。
まるで、霧の向こうに埋もれた未来を見つけようとしているかのように。
彼らは――まだ、何も知らなかった。
誰一人として、この異変の正体に辿り着いていない。
そして……それこそが、家康の胸を最もざわつかせていた。
「無知」という刃ほど――人を容易に殺すものはない。
京の民が戸を開け、顔をのぞかせる。
半ば信じられないような目で……空を見上げていた。
空が……"何か"を間違えている。
朝が訪れたはずなのに、風景は――まるで終末のそれ。
一日が始まるには、あまりにも……不吉な空気が漂っていた。
――そして、それは現れた。
霧の奥から……静かに、だが確かに浮かび上がる四つの影。
巨人。
この世のものとは思えないほど、異質で……圧倒的な存在感。
音もなく。威嚇もなく。
ただ、そこに――「立っている」。
「……動かん、だと?」
家康の内心に、わずかな戸惑いが走る。
これほど巨大なものが、まるで空気の一部のように……沈黙を貫いている。
――だが。
沈黙こそが、時に最も鋭い牙となる。
咆哮よりも静寂の方が、人の本能を――切り裂くことがあるのだ。
家康の視線は、その巨影から……目を逸らさない。
動きはない。合図もない。
だが――直感は告げていた。
「あれほどの存在が……ただ立っているだけのはずがない。」
――そして、別の方向から響く声。
白装束を纏った男たち、女たち。
列を成して現れ、叫びを上げる。
「家に戻れ! すぐに避難せよ!」
その光景を目にした時……家康は静かに眉をひそめた。
(……まるで、偽物の陰陽師どもだな。)
白き者たちの行動に、どこか――作為的な違和感があった。
この霧の中……誰が「何を意図しているのか」
ますます、霧は――深くなるばかりだった。




