48. 沈黙の再会、名を呼ぶ時
「英雄になりたくなかった。
でも……君たちがまだ立っているなら――俺はもう、一歩を止められない。」
私たちは……空を駆け抜けた。
静寂な森を後にして……その足跡を覚えてくれる者など、誰一人いない。
下を見下ろせば、日本の大地が……墨絵のように広がっていた。
谷、川、街、そして眠りについた村々――何も知らない世界。
そして、頭上の星々は沈黙を保ったまま……ただこちらを見つめていた。
月華様と俺のあいだに流れる静けさは……言葉を失ったからではない。
それぞれの言葉が、きっと……誤解を生むと分かっていたからだ。
「……ふと思ったんだ。」
ようやく口を開いた俺は……空に浮かぶ他の星よりも、少しだけ強く輝く一点を見つめながら言った。
「これって……全部、過去に失敗したシナリオの焼き直しなんじゃないか?」
「どれのこと? ――世界? それとも、あなた自身?」
月華様の声は……静かで、どこか冷たい雨のようだった。
「……たぶん、両方だ。」
彼女は、くすりと笑った。
その音は……夜風に溶けて、まるで遠い昔の亡霊の囁きのようだった。
「ミカワちゃんがそう感じるのも、無理はないわ。
だって、あなたは――自分の存在に気づきすぎてるもの。」
「……世界を救った人の中には、自分が“何を救ったか”すら知らないまま動いていた人もたくさんいるのよ?」
「じゃあ……“意味”なんて、考えない方がいいのか?」
「そうとも限らないわ。
ただ――せめて、それに足を止めさせられないで。」
俺は……手にした《桂城の煌月》の刃に目を落とした。
そこに映っているのは――俺ではなかった。
仮面をかぶり、借り物の衣をまとった……
“誰か”の曖昧な影。
自分が……必要とされているのか、
それとも――偶然その場に居合わせただけなのかも分からない……そんな存在。
「月華様……俺は、“救い手”なんかじゃない。
ただ――人間の弱さの影にすぎないんだ。」
「だからこそ、」
月華様は……そっと囁いた。
「誰よりも、自由に動けるのよ。」
……また、沈黙が戻った。
けれど、今度は――どこかあたたかい沈黙だった。
風の匂いが……変わる。
煙の香り、ほんの少しの硫黄、そして――焼けた術式の残り香が混ざっていた。
京都は……すぐそこだった。
遠くの空に、霊的な光が――ちらほらと瞬き始めていた。
まるで、こちらに気づいた“目”たちが……静かにこちらを見張っているかのように。
そして……
南東の山の向こうから、それは――現れた。
黒い雲。
天候の一部ではない。
それは、死を孕んだ“気”だった。
人間には……決して作り出せないもの。
それは、“転生妖怪”。
絶望を吸収し、それを破壊として吐き出す存在だけが放てる――濁った霊圧。
「……間に合わなかった、か。」
俺がそう呟くと……月華様が隣で答えた。
「いいえ。ちょうど、あの子たちが――諦めそうになるその瞬間に、私たちは来たのよ。」
それが……褒め言葉なのか、
それとも――希望に包んだ皮肉なのかは、わからなかった。
だが、聞き返す時間も……なかった。
今夜――この美しすぎる夜空の下で、
俺はまた、“英雄になりたくない男”として――立つ。
それでも……すべてが消えていくのを、ただ黙って見ているわけにはいかなかった。
夜の空を切り裂くように飛びながら……俺の胸にひとつの違和感が沈んでいく。
この景色は……俺の知っている“霊都・京都”じゃない。
街の灯りは、不規則にちらつき、
術式の詠唱と――悲鳴が交差し、
そして……遠くの空、南東から、暗黒の嵐が渦を巻いていた。
まるで、巨大な顎が――この都を丸ごと飲み込もうとしているかのように。
「……ひどい。」
ほとんど無意識に、独り言のように呟いた。
「……想像以上に壊れてる。」
隣では――月華様が微笑んでいた。
だが、それは……決して優しい笑みではない。
まるで――悲劇の始まりを静かに楽しむ者のような、鋭く、冷たい笑み。
「ふふ……これだけ乱れてるから、何か“大きな力”が目覚めたのかと思ったのだけど。」
目を細めながら、彼女は言う。
「どうやら、“あの二足歩行の牛”が――封印を抜け出しただけ、みたいね。」
俺は……黙っていた。
別に――同意したわけじゃない。
ただ、“二足歩行の牛”という言葉を、あまりにも自然に使う彼女に……どう反応していいのか分からなかっただけだ。
もう一度……下を見た。
人々が――逃げ惑っていた。
徳川の軍勢、浪人たち、宮中の衛兵……
いや、それどころか一般市民までもが――まるで歴史から切り離された記憶の欠片のように、街を駆け抜けていた。
これはもう……“霊的な勢力の衝突”なんかじゃない。
緩慢な――虐殺。
それを、パニックという包装紙で……丁寧に包んだだけだ。
京都を取り囲む対妖結界も……まだ完全ではないようだった。
霊脈の亀裂が……数カ所で口を開き、
このままでは――妖怪たちが結界を突き破り、
一夜にしてこの都は……地獄の裏庭と化すだろう。
「……もし、あの“三本角の牛”がここまで来ているなら――」
俺は……低く呟いた。
「俺たちが来たのは……ある意味、ちょうどいいタイミングってわけか。」
月華様は、肩をすくめた。
「人生の試練って、だいたいそういう時に現れるものよ?」
その声は……軽い。
けれど俺には――それが“ドラマ好きな神”の教義にしか聞こえなかった。
もし……神々がこの世界の台本を書いているとしたら、
ジャンルは間違いなく――戦争と悲劇の混合作品だ。
やがて、俺たちは――陰陽寮の本部前、
正門の庭に……着地した。
この場所は、いつもなら――静寂と儀礼に満ちた聖域のはずだった。
だが今や、そこは……完全に臨時の戦時司令部と化していた。
数十人の陰陽師たちが集まり……
その多くは、混乱した目をしていた。
ちらほらと……俺の姿を見て動きを止める者もいた。
だが、残りは――負傷した仲間の手当てに追われていて、
俺などに構っている余裕は……なさそうだった。
無理もない。
紫衣に覆われた俺の顔は……目元しか見えず、
その瞳には――未だ二振りの刀の霊圧が、微かに残っていた。
しかも――陰陽師としての標準装備は一切持っていない。
まるで、“高位の侵入者”そのものだ。
だが……説明している時間など、もうなかった。
俺は――彼女の気配を感じ取った。
朝霞 茜。
その霊気は……静かで澄んでいて――だが、確かに燃えていた。
刀を鞘に収め、代わりに……《桂城の煌月》の力を解放する。
彼女の気配は――陰陽寮の本殿、その中心にあった。
俺は……飛んだ。
時の風雨に削られた……古い柱を越え、
そして――京都で最も高いこの社殿の中央、
陰陽師たちの会議場となる大広間の窓に向かって……思い切り蹴りを入れる。
バァンッ!
木と紙でできた障子が、まるで雪片のように……宙に舞い散った。
俺は――そのまま、堂々と着地する。
大広間の、ど真ん中に。
その瞬間――
数十の視線が、いっせいにこちらへ向けられた。
反射的に呪符や刀の柄に……手を伸ばす者もいた。
空気が、ぴん、と張り詰める。
まるで一本の弦が、誰かの手で――今にも弾かれそうな、そんな緊迫。
だが……俺は気にも留めなかった。
なぜなら――俺の視線の先には、“彼女たち”がいたからだ。
部屋の奥。
他の陰陽師たちの一歩前に出た場所で、
彼女たちは……並んで立っていた。
砕けた窓の向こうに広がる戦場の気配にも目を向けず、
まるで……ずっと待っていた相手が、ようやく“窓から現れた”とでも言うように。
「……比楼?」
ひとりが、小さく呟いた。
その声はかすかだったが――
その響きが、この場の空気を重くするのに……十分だった。
まるで、俺の名前が――
長年引き金にかかったままの弾丸だったかのように。
「安倍の比楼。……久しぶりね。」
もうひとりが、言った。
その口調は鋭く……唇の端に浮かんだものは――笑みではない。
ずっと癒えていた傷跡が、再び開いたような……そんな表情。
朝霞 茜。
その瞳は――冷たく、だが否応なく裁く。
まるで凍った露が……花が咲く前にそれを枯らしてしまうように。
姿勢は常に通り、静かで、美しく、揺らがない。
けれど、その呼吸の……わずかな揺れが物語っていた。
――この女は、抱きしめたいと思っている。
だが、“その資格があるのか”を……まだ自分に問い続けている。
松島 蒼希。
最後に見たときより……髪が伸びていた。
だが、その目に宿る“雷”は……何ひとつ変わっていない。
動きは相変わらず落ち着きがなく……電撃のように予測不能。
なのに、今は……静かだった。
その沈黙こそが――何よりも恐ろしかった。
俺はひとつ……深く息を吐いた。
本来なら、ここ――
陰陽寮最上層の会議場は、こんな私的な“再会”のための場所ではない。
けれど、この瞬間に限っては……
誰も口を挟もうとしなかった。
その静けさは……まるでこの場にいる全員が、
“この空気を壊してはいけない”と……理解していたかのようだった。
天井の隙間から差し込む夕焼けすら――
まるで場の空気に気圧されたかのように、その色を……潜めていた。
「……よう。」
ようやく口を開いた俺の声は、乾いていて……どこか投げやりだった。
「遠くから見てたんだけどさ。
正直、京都って……もうちょっとゆっくり死んでいくものだと思ってた。」
一拍置いて――視線をまっすぐに向ける。
「でも……思ったよりもずっと、しぶとく生きてるな。お前たち。」
ついにミカワを、二人のヒロインと対面させました。
少なくとも、アベノ・ヒロウとしての登場はちょっとふざけた感じにしてあります。
ミカワが肩書きや立場を気にせず、もっと自由に振る舞えるようにそんな気持ちも込めています。
楽しんでいただけたら嬉しいです。




