47. 仮面の影に、名を刻む
「英雄になりたくて動くんじゃない。
ただ、“願い”を黙って見過ごすには……僕は――あまりにも人間だった。」
「ここまで来たら、私信を送るのも……仕方ないよな。」
そう呟いた僕に、月華様は優しく、けれど――計算を孕んだまなざしを向けてきた。
「まだ怒ってるの?……前に起きたこと。」
その声は、まるで少女が――起きたかどうかも曖昧な喧嘩について謝ろうとしているような口調だった。
あるいは……言葉にできないほど深い“何か”を抱えた声にも聞こえた。
ただ、今回の件は――僕と、家康との間の問題だったはず。
「いや、別に。」
そう返した僕の声は、冷静だった。
「どちらかといえば……あの愚かな秀忠のせいだろ。」
聞き心地のいい答え。
でも、それは――上手く整えられた“嘘”だった。
本当は、もっと……複雑だと僕は知っていた。
いや、僕たち三人――僕、家康、秀忠……その名前がすでに、
“ひび割れた歴史”の中に――深く沈んでしまっているのだと。
月華様は、朝霧のように……ゆっくりと浮かびながら近づいてきた。
そして、そっと――僕の肩に手を置いた。
「この世界、もう――かなり可哀想なものね。
霊力もない人間にまで、縋らなきゃならないなんて。」
そう言った彼女の言葉は……痛みと真実を含んでいた。
彼女の言う通りだ。
僕の身体には、霊的な力なんて……一滴も流れていない。
陰陽師でもなければ、巫でもなく――魔術師でもない。
僕にあるのは、
ただ――神格にまで至った二振りの刀。
それを使って……ここまで生き延びてきたにすぎない。
だけど。
たしかに。
それすらも――“偶然”ではないのかもしれない。
「もしかしたら……これは、神々からの“二度目の機会”なのかもな。」
そう呟いた僕に、月華様は――微笑んだ。
そして、静かに……けれど確実に距離を詰めてきた。
その距離は――あまりにも近すぎて。
彼女の唇が、僕の耳元に触れそうになった瞬間――
囁くように、言った。
「これは神様たちが……三河ちゃんを“愛してる”って証拠じゃない?
だったら、どうするつもり?」
耳元――少し、敏感なところ。
思わず、ぞくりと……背筋が震えた。
だが、僕は――一歩も退かなかった。
分かっていたのだ。
その囁きの中には……ただの誘惑以上の“何か”があったことを。
そこには――
……希望があった。
試練があった。
そして……悔いがあった。
僕は、長く息を吐いた。
「……わかったよ。」
そう答えたのは――
英雄になりたいからじゃない。
茜が……頼んだから。
そして、もしこの災厄が本当に現実になるのなら――
何もかもが、無駄になると思ったから。
茜の願いも。
家康の信頼も。
そして……何も知らないまま歴史を歪めた秀忠の“愚かさ”すらも。
そして何よりも――
ただ“黙っていたかった”僕自身も。
でも……“黙っていられない”のが、僕という存在だった。
「あらあら。ついに“安倍の比楼”が――また動く時が来たのね?」
月華様の声音は、いつも通りの……軽さと皮肉に満ちていた。
「“人間の存在意義を探しに行く”とか言って、何ヶ月も消息不明だったのに、ね?」
その言葉は――
思っていたよりも……深く、心を抉った。
僕は視線を逸らした。
あたかも、何も感じていないかのように。
「……やめてください、月華様。」
自分の口から出たその一言すら……どこか“言い訳”に聞こえてしまう。
だが、彼女は――当然やめる気などなかった。
小さく……笑う。
まるで、罪という言葉を知らない女神のように。
そして――
僕の背中を、ばしんと叩いた。
それは……優しさと呼ぶには強すぎて、
怒りと呼ぶには――穏やかすぎた。
「ま、好きにやって。私は観客席から見てるだけだから。」
まるで、この戦いが――ただの舞台劇であるかのように、月華様はそう言って、
僕の背中を……軽く押した。
まるで――怠けている役者を無理やり舞台に引きずり出すように。
僕は、深く息を吸った。
そして……ゆっくりと赤い刀を抜いた。
月輪の刀火
血のような紅い光が……周囲の空気ごと飲み込む。
けれど――それも一瞬だった。
すぐに、光は……消える。
今の僕に、これは――必要ない。
握りしめるのは……一本の刀のみ。
葛城の光月
この“幻想の刃”は――
ただ物理を断つだけでなく、
形と存在そのものを……僕の意志のままに“変える”ことができる。
僕は、その力のひとつを――発動させた。
柔らかな光が……身体を包む。
身にまとう衣服が、ゆっくりと形を変えていく。
まるで……記憶が、己の姿を再構成しているかのように。
深い紫の陰陽師装束が、膝まで流れるように広がり、
頭には――夜のように黒い烏帽子が現れる。
そしてその下には……黒い覆面が口元を覆い、
“織田三河”という本名を……静かに隠した。
そこに立つのは――もう“僕”ではない。
安倍の比楼
虚構から生まれたはずの仮面が、
この世界の影の中で……現実味を帯びていく。
本来、陰陽師とは――
紙札や神扇、あるいは巻物を携えているもの。
だが、僕には……そんなものは、ひとつもない。
あるのは……ただ一本の刀。
そして、それを使う時の――即興の勘と少しの幸運。
いや……もしかしたらそれは――
“呪い”なのかもしれない。
「どうやら、普通の手段じゃ……間に合いそうにないわね。」
背後から――月華様の声が聞こえた。
夜風に揺れる長い髪が、淡く光を反射していた。
「空を飛びましょう、安倍の比楼。」
「ああ。」
僕は――短く答えた。
そして……ひとつの高い跳躍。
いや、むしろこれは――“現実からの逃避”だったのかもしれない。
僕たちは……夜空へと舞い上がった。
冷たい風が……体を撫でる。
それは――あまりに正直で、あまりに静かな夜の歓迎だった。
京都へと続く空は、広く澄んでいて、星が……無数に瞬いていた。
まるで、そこに伸びる道が――
“今宵こそ、霊都の基盤が喰われる前夜”だと……知っているかのように。
僕のすぐ隣では、月華様が、
まるで重力という概念そのものを無視するかのように……優雅に宙を漂っていた。
その細められた瞳は……前を見据えていたが、
僕のことも――確実に見ていた。
「まだ、顔が少し強ばってるわよ、三河ちゃん。」
「……少し考え事をしてただけです。」
「なにを?」
「仮面の裏に隠れてる人間に……
果たして、誰かを救う資格なんてあるのかなって。」
彼女は――答えなかった。
けれど、その表情が……ほんの少し柔らかくなったのを、僕は見逃さなかった。
僕たちは――知っている。
その問いの奥には……まだ癒えぬ傷があることを。
今回の章では、「ヒーローらしさ」からではなく、
誰かの最後の願いに応えるため、
そして“仮面の裏”に隠れる者としての「救う資格」についての葛藤を描きました。
主人公は、誰かに認められたいから動くのではなく、
むしろ自分を隠し、距離を取ろうとする“人間らしい存在”として描きたかったのです。
そんな彼の姿だからこそ、
この物語にほんの少しだけでも、意味が宿るような気がしています。




