46. 主役は匂いでバレる
「……幸福も、絶望も、箱に詰めて届くのが人生だ。それを開ける役目が、たまたま俺だっただけだ。」
俺は――深く息を吸い込んだ。
身体は……まだ完全に“人間”に戻ってはいなかった。
神の気配が――霧のように肌の上を漂っている。
だが――迷っている余裕は、なかった。
素早く膝を折り――跳んだ。
夜の風が、頬を鋭く叩く。
俺は、空中をふわふわと漂う式神――
まるで昼寝を嫌がる子どものように逃げ回る、小さな狐を追いかけた。
最初は避けようとしていたが……
俺がわずかに神気を解放した瞬間――狐は素直に近づいてきた。
片手を伸ばし、ぴたりと――捕まえる。
そして……着地。
無事だった。
月華様が――微笑んだ。
それは、彼女が「これから厄介なことが起きる」と確信しているときに浮かべる……クラシックな笑みだった。
「ふふっ、腕を上げたじゃない。」
その声は、綿のように柔らかく――しかし、税制トリックよりも狡猾だった。
俺は……ただ黙って頷いた。
同意したわけじゃない。
ただ、答える気力が――なかっただけだ。
そして、手にした式神の中の文を見る。
その封蝋には……ある紋章が刻まれていた。
帝国陰陽寮の者だけが使える――特別な印。
月華様が一歩――近づいた。
その目が――きらりと光る。
誇らしさではない。
それは……問題の匂いを察知した者の、純粋な興味だった。
「あらあら……これは“とっても大きな問題”の予感かしら?」
扇で口元を隠しながらの甘い声。
だが、その背後に潜むのは――最大級の危険信号。
「……これが、さっき言っていた“前兆”ですか。」
俺はようやく――声を出した。
それは抗議かもしれないし……ただの愚痴だったかもしれない。
「ふふっ、だって――有能すぎるのが悪いんじゃない?」
彼女の返答は……あまりにも軽かった。
「……すべては、あなたの教育のせいです。」
理論的には完璧な反論――
なのに、言えば言うほど……自分の足場が崩れていく感覚に襲われる。
……現実は、非情だ。
月華様を相手にするということは――
秦の始皇帝から江戸の遊郭まで、すべての戦術書を読み尽くした神と将棋を指すようなもの。
「……私って、やっぱりすごい女神よね?
失敗作の人間を主役にまで仕立て上げたんだから。」
その言葉に添えられた、かすかな笑い声。
それは――露骨な侮辱よりも、ずっと痛かった。
……何も言えなかった。
なぜなら――彼女の言葉が、悲しいほど正しかったからだ。
おかしいことに――
その手紙、まだ開封していなかった。
理由は……簡単だ。
任務よりも恐ろしいのは、
“それを彼女と一緒に経験しなければならない”という現実だった。
そして――いつものように思ってしまう。
幸福も、苦痛も、絶望すらも――
きっと無名の箱にひとまとめにされて届けられるのだと。
帝の印は、ただの“物語のプロローグ”。
本番は、その後にやって来る――“人生”だ。
だが――
問題は、そこじゃない。
俺は……誰にも、自分の正体を明かした覚えがない。
陰陽寮の関係者どころか、皇室にまで届くような情報など――渡したはずがなかった。
「織田三河」という名前は、切り札だ。
一度切ってしまえば……霊的な世界どころか――
政治、歴史、そして何より皮肉なことに、自分の“プライド”までをも巻き込む。
だからこそ――そんな名前を軽々しく使うことなど、絶対にしない。
俺はただ……静かに見守るだけのつもりだった。
“見守るだけ”――そのはずだった。
今の有様を見れば、それがもう観察の域を越えていたのは明らかだ。
「皇から直々に式神を送られるなんて……相当な理由があるに違いない。
でも――どうやって、俺の居場所を突き止めたんだ?」
額に皺を寄せ、ぼそりと呟く。
「……陰陽道って、そんなに高精度な追跡ができたか?」
もしそれが本当なら――
遅かれ早かれ、この“仮面”も……剥がされる。
そのとき――
隣で、まるで雨の日の午後に恋愛小説でも読んでいるかのような表情を浮かべていた月華様が、
ゆるく……首を横に振った。
揺れる銀の髪が、俺の懸念を嘲笑うかのように、ふわりと舞う。
「……それは、たぶん無理ね。」
彼女の声は――静かだった。
けれど、その中に混じる“哀れみ”が……妙に鼻についた。
「……高位陰陽道はもう長い間、停滞したままよ。
継承も進化もない。――あの世界はもう、腐りかけているわ。」
その言葉はまるで、
古き都の栄華に取り残された神殿のように――静かに、しかし確かに響いた。
「……考えられる理由は、たったひとつ。」
月華様は――続けた。
「送り主が、あなたのことを……とても強く想っていて――
そして、とてもよく知っている人間である、ということ。」
……とてもよく、知っているか。
俺は――しばらく黙り込んだ。
そんな相手、いた……だろうか?
俺は――誰かと深く関わるタイプじゃない。
けれどまあ、人間らしく生きてきた結果――
ほんの少しだけ……
“なんとなく、よく絡んでしまった”女の子たちが、いないこともなかった。
冗談に笑ってくれた顔。
わざと怒ってみせながらも――いつも同じ場所で俺を待っていた顔。
記憶の隅で、そんな曖昧な輪郭が……いくつか浮かび上がる。
だが――すぐにその幻影を追い払った。
……今は、関係ない。
俺は――ゆっくりと、文を開いた。
筆跡は丁寧で……けれど、意志の強さを感じさせるものだった。
『安倍の比楼様へ
朝霞 茜より。』
その瞬間――隣から、小さな笑い声が聞こえた。
「あらあら……その子ね。」
月華様は――俺の肩にもたれかかりながら、楽しそうに言った。
「霊気大将クラスの女の子。三河ちゃんのこと、どうやら好きみたいよ〜?」
その口調は……軽い。
だが、“三河ちゃん”と呼ばれたときはいつだって――
ろくでもない未来が待っている証だった。
「……待て。」
俺は眉をひそめる。
「どうして式神が……俺の変装を見破れた?
この身分、完璧に隠してあるはずだ。
霊紋の指紋も、五重の幻術で覆っていたはずなのに――」
……答えは返ってこなかった。
月華様は――ただ静かに微笑んだだけだった。
そして――
彼女の指先が、そっと……俺の腰に差してある刀に触れた。
――月輪の刀花。
桂城の煌月。
それは……肉体だけでなく、幻と現実すらも切り裂く――二振りの刀。
「……忘れたのかしら?」
月華様が、どこか誘惑めいた声で囁く。
「今のあなたの“身体の状態”を――」
その瞬間……すべてが腑に落ちた。
“気配”。
この二振りを同時に抜けば、残るのは――ただの霊気ではない。
それは、どんな隠蔽術でも覆いきれない……存在そのものの痕跡。
霊的な香りが、“あなただけの”輪郭を――描いてしまう。
そして、それを感じ取れる者が……世の中には確かに存在する。
「……なるほど。」
俺は――目を閉じた。
「式神は、居場所を探したんじゃない。匂いを……辿ってきたんだ。」
月華様が、くすっと笑う。
「目立ちすぎよ、三河ちゃん。
たとえ千の霊の中を歩いていても、あなたは“主役”のまま。」
困ったことに……
それが誉め言葉なのか、それとも警告なのか――判別がつかない。
だが……一つだけ、確信があった。
この手紙が、こんなにも自然に俺の手に届いたという事実。
それはつまり――
“あの人”はとっくに、ここで俺が現れることを――知っていたということ。
……それが、願いだったのか。
それとも、言い訳もせずに去った俺への――遅すぎた怒りなのか。
「……残念ながら、“安倍の比楼”という名前は、帝国陰陽師の正式な記録にすら存在しない。」
手紙を指先で――くるりと回しながら、俺は呟いた。
「報酬も出ない……ボランティアみたいなもんだ。
もしくは、陽動用の影武者ってところか。」
この仮の姿の目的は、単純だった。
少しばかりの自由を得るために――
“織田三河”という名前を外して、ただ観察し、旅をして……
普段ならできないことをするため。
……それだけのはずだった。
けれど、世の中には――妙な癖がある。
俺が何かから離れようとすると、必ずといっていいほど――
その渦中へと引き戻される。
「……残念だけど、今回は無視できそうにない。」
そう呟いた俺の声は、いつになく低かった。
「この手紙……背中に突き立てられた槍みたいに、重い。」
「……少なくとも、警戒はしておくべきだな。」
それは誰かに向けた言葉ではなく――
むしろ、自分自身に言い聞かせるような独り言だった。
俺は、もう一度……手紙の文面に目を落とす。
使われている言葉は、礼儀正しく、穏やかだった。
だが、その一文一文の裏に――張りつめた緊張が宿っていた。
まるで……遺書に込められた、静かな決意のように。
安倍の比楼 殿
ランクA(転生妖怪)の個体、
京都南東より出現の兆候あり。
百鬼夜行、進路上の村々に甚大な被害を及ぼす。
霊都最終防衛のため、即時の参陣を要請する。
――朝霞 朱音
……百鬼夜行、か。
それは比喩などではない。
それは――歴史書ですら筆を止めた、
かつて日本列島を震撼させた“最大級の霊災”の名。
たった一体でも、ランクの妖怪が暴れ出せば――
京都は、沈むどころの騒ぎでは済まない。
街も、文化も、記憶も……すべてが“消し飛ぶ”。
主人公について考えるとき、物語を動かす存在として、常に目立つ人物や、何でも手に入れるのが当たり前のような人物が思い浮かぶかもしれない。
もちろん、それには様々な要素が関係している。
けれど、私が本当に描きたいのは自分の行動についてきちんと考える主人公だ。




