44. 予兆なき嵐、名を呼ばれし影
「夜が明けないのなら……せめて、誰かの手の中に――希望が残っていればいい。」
……動かぬ空。
しかし――何かが、壊れた。
歴史が記すのは、常に“最初の叫び”とは限らない。
それ以前の……誰もが息を呑むような“静寂”こそが、本当の始まりかもしれない。
空は――揺れなかった。
風は……息を潜めていた。
時間は、ただそこに――立ち尽くしていた。
木の葉は……落ちることを忘れ、
影は……伸びることをやめ、
世界は……沈黙していた。
それは――平和だからではない。
あまりに長く、“呼吸”を止めていたからだ。
……世界が息を止めすぎるとき、
それは――誰かが“沈黙”を破るのを待っている合図だ。
かつて“京都”と呼ばれていた――この日本の中心。
その文化の心臓は、今――鼓動を失っている。
いや……
正確には、その鼓動は“微かすぎて”、もう誰にも――聞こえないだけ。
人々は……これを“大転換”と呼ぶ。
だが、すべての“変化”が――進化とは限らない。
中には、時代に呑まれた“呪い”の繰り返しもある。
……忘れ去られたはずの業が、
静かに――そして確実に、戻ってくる。
なぜなら、その日……
夜空は透き通るほどに静かで――
星々は、あまりにもはっきりと見えていたから。
鳥たちは……いつも通りに空を舞っていた。
風も……相変わらず礼儀正しく吹いていた。
だからこそ――不安が芽生え始めた。
その朝、帝の勅命が全市に貼り出された。
『……外出を禁ずる。
これより――大嵐が来る。』
簡潔で、平易な命令だった。
むしろ――あまりにも“普通すぎる”ほどに。
しかし……黒雲は見えなかった。
突風も……吹いていなかった。
だからこそ、誰もが察したのだ。
本当の災厄とは――警告なしにやってくるものだと。
町の色が……少しずつ褪せていくその頃、
黒と白の装束に身を包んだ者たちが――静かに現れ始めた。
彼らは兵でも、僧でもない。
……陰陽師。
この世と、“語ってはならぬ世界”の狭間を読む者たち。
ある者は――走り、
ある者は……呪を唱え続け、
ある者は――灯りのない場所に、炎を灯した。
街の“要所”が……次々と“発火点”へと変わっていく。
それは、照らすためではない――
……生き残るためだ。
東南より、“闇”がやってくる。
しかも……今回は“ひとり”ではなかった。
数千の妖――
外からではなく、人の内側から生まれた“影の群れ”が……
東南の京都を目指して、静かに進軍を始めていた。
その歩みを導くのは……飢えた本能だけ。
濃霧と、理で説明できない霊的嵐に――隠されながら、
彼らは……進み、壊す。
彼らの通った村々では――
寺社が音もなく崩れ落ち、
霊的な結界も……ただの割れた硝子のように砕けていった。
浪人たちの亡骸が、そこかしこに……転がっていた。
叫ぶ間もなかった者。
逆に……叫びすぎて声を失った者。
だが――
この暗闇の中にも……まだ“灯り”が残っていた場所がある。
それが――京都。
陰陽師たちの本拠地。
そして、その中心に立つ……ひとりの少女の姿があった。
朝霞 茜。
十二人の霊機大将のうちのひとり。
その赤い法衣は、血と泥にまみれていたが……
威厳は、まったく失われていない。
瞳は……静かに燃えていた。
恐れを知らないのではなく――
彼女が崩れれば、すべてが崩れることを……知っていたから。
長い赤髪を揺らしながら、彼女は……静かに立つ。
その身体は……やや余分な丸みを帯びていたが――
それすらも、“魅力”として……調和していた。
「……報告を。」
その声は冷たく――だが、鋭さを失っていない。
若い陰陽師が膝をつき、息を切らしながら答えた。
「防衛線の半数が……壊滅。
三つの大寺が、跡形もなく――消失しました。」
茜は……小さく頷く。
「生きている者を……避難させて。
他の者は、可能な限りでいい――時間を稼いで。」
その時……別の方向から、疲れ切った中年の男が声を上げた。
「……混乱が広がっています。
浅香様、何か声明を出すべきでは?」
「――不要だ。」
彼女の返答は短く、そして即断だった。
「恐怖は――負のエネルギーを引き寄せる。
そして、“あいつら”は……それを何より好む。」
その隣で、銀青色の長い髪を揺らす少女が……一歩、近づく。
松島 蒼希。
同じ霊機大将の一人。だが――性格は正反対。
「このままでは……前線が完全に崩壊するわよ。」
彼女が……低く囁いた。
「結界がまだ不安定。
今、私たちが出たら……被害はもっと拡大する。」
茜の声には、かすかな揺らぎが混ざっていた。
だが……その中に、まだ覚悟の炎は宿っていた。
「じゃあ……いつまで待つの?
もう“希望”なんて、頼ってられない――」
「蒼希、忘れたの?」
茜の声が――静かに、室内を裂いた。
「……数日前に、安倍の比楼に連絡を送ったわ。」
その瞬間……すでに静まり返っていた部屋が、さらに深い静寂に包まれた。
“ヒロウ”――その名は、ただの名ではない。
それは、“変数”だった。
運命という池に投げ込まれた石――
……何が起こるか、誰にも読めない。
蒼希は……苦笑を浮かべた。
「あの人? 何ヶ月も消息不明だった、
“人間の存在意義を見つけたい”とか言って、山にこもったままの?」
「……知ってる。」
茜は、小さく呟いた。
「でも――
彼が来るなら……まだ耐えられるかもしれない。」
……歴史は、
“間に合った英雄”を記録するわけではない。
ただ、“起きたこと”と……
“それに立ち向かった誰かがいた”という事実だけを――
静かに……刻んでいく。
保証も、確信も……ない。
ただひとつ、分かっているのは――
外では……嵐がすでに迫っている、ということだけだった。
叫ぶこともなく……引き裂くこともなく。
ただ、静かに――近づいてきた。
「希望」という言葉は……
選択肢が尽きたときにだけ、美しく響く。
それは……終わりなき嵐の行進の中に混ざった――
悪魔の行列。
その破壊を引き連れる存在の……ただひとりが、
なぜか――微笑んでいた。
転生雷腐の鬼神・イグツカその名を知る者は……少ない。
だが――陰陽師たちの間では、それを耳にした瞬間……
空の色が――消える、と言われている。
「雷を纏う角の魔神イグツカ」
千の妖を従える王。
――身長三十三メートル。
――三本の角。
――隕鉄より硬い肌。
そして……
近くでその声を聞いた者は、即座に意識を失うとされる――“音の呪詛”。
その姿は……目覚めることを忘れた悪夢のようだった。
足音は、自信過剰な――葬列の太鼓の音。
その笑みは、人間とは何かを問い返す……“悪意の仮面”。
彼は――祭りを楽しむかのように……歩いていた。
だが――踏み出すたびに……
家々は崩れ落ち、炎はかき消され、
結界の呪は――唱え終える前に、沈黙へと変わっていた。
……一方、都市内部では、混乱が徐々に広がっていく。
二条城。
徳川兵たちが、次々と門を越え――出陣していく。
それが“抵抗”なのか、“防衛”なのか……
あるいは――ただの“混乱”なのか……誰にも分からない。
囁きが……都市の裏通りを這うように広がっていく。
「……これは内部の反乱なのか?」
「なぜ――帝が突然、動き出した?」
「誰が仕組んだ? 誰が――最初だった?」
かつての都は……神経を失った身体のようだった。
意思も、命令も……もう正しく伝わらない。
刺激が――多すぎた。
制御する“中枢”が……存在しなかった。
皇宮の奥、黄金の帳の向こうから――
ただ“見守る”役目だったはずの近衛たちが……ついに前線に姿を現した。
だが――彼らも分かっていた。
この敵は、“剣”で斃せる類ではないと。
霧が……すでに目視できる距離まで迫っていた。
それは、普通の人間が“見てはいけないもの”を――
見てしまうほどに……濃く、そして近い。
歪んだ姿。
噛むためではなく……“支配”を誇示するために生まれた牙。
彼らは――走らない。
襲いもしない。
ただ……待っている。
まるで、人間のほうが“先に間違える”ことを……知っているかのように。
――一方その頃。
急激に薄れゆく霊的結界の内側。
陰陽寮の頂上にて……茜と蒼希が立っていた。
言葉は少ない。
言葉にするまでもない“現実”が、もう目の前に広がっていたからだ。
「……茜。」
蒼希が――沈むような声で口を開く。
黒ずむ地平線を……見つめながら。
「あの男、本当に……この状況を変えられると思う?」
茜は……小さく息を吐いた。
疲れからではなく……その問いが“理屈”で答えられるものではなかったから。
「最初から……私たちには“計画”なんてなかった。
この事態は、何の兆候もなく始まった。
それに……ここにいるのは、たった二人だけ。
本来なら、第一波を防ぐだけでも――
最低でも六人の霊機大将が必要だった。」
蒼希は……静かに歯を食いしばる。
「せめて……大陰命、と協力できれば、
勝算はかなり上がるはず。」
「……問題は――」
茜が……視線を横に流す。
「彼は……“帝の護衛”を任されている。
もし、あちらで何かあったら――
京都そのものが……崩れる。」
「じゃあ、今頼れるのは……
式神すら繋がらない、あの“行方知れずの男”だけってわけ?」
蒼希の声には……怒りというより、焦りに近い棘があった。
茜は――すぐには答えなかった。
ただ……遠く、霧の奥から忍び寄る嵐の輪郭を見つめる。
何かを待つように。
誰かが……そこから現れることを、信じているかのように。
彼女の笑みは……
かすかに、薄く……そして、すぐに消えた。
「……少なくともね」茜は呟く。
「彼に“正しいご褒美”を与えれば……たまに本気を出すのよ。」
蒼希が――小さく笑った。
それは……楽しい笑いではなかった。
むしろ……自分の愚かさを理解しながらも、笑うしかない者のそれだった。
「……あんな男が、自由気ままに現れては消える理由って、何?」
その問いに……返答はなかった。
言葉で説明できる“答え”など……最初から存在しなかったから。
過去二年、**安倍ノ比楼**という名は、
陰陽師たちにとって――ただの“影”でしかなかった。
けれど……
その“影”は、いつも世界が崩れかけたその時に――風のように現れた。
呼ばれたわけでもなく……説明もなく。
だがその登場は、いつも状況を――“反転”させた。
そして、全てが落ち着いた頃には……
まるで最初から存在しなかったかのように、姿を消していた。
彼を知る者たちは……誰一人として、多くを語らなかった。
だが――その名前が出るたび、会話の間には……奇妙な“間”が生まれる。
まるで、世界がその名を認識するために……
ほんの一秒だけ――回転を止めなければならないかのように。
蒼希は腕を組み、再び嵐の方角を見つめた。
「……夢だったら、よかったのにね。
でも、あの人の“効果”は――現実すぎて、無視できない。」
茜は……静かに頷くだけだった。
いつものように……
二人の少女は、肩を並べて――立っていた。
思い浮かべるのは……同じ“男”。
けれど――それぞれ、違う方法で。
そして……
誰にも言えない想いを、
消えることなく……でも、叶うこともなく……
胸の奥に、ただ――しまい込んでいた。
だが――現実は……笑顔など気にしない。
彼女たちの頭上……
空が――音もなく、ひび割れ始めた。
それは……あまりに長く“影”を映していた鏡が――
ついに、限界を迎えたように。
悪鬼たちの行進は……
まだ、街の中心には届いていない。
……まだ、“来ていない”だけ。
彼女たちは……まだ知らない。
あの男が――
すでに“動いている”ということを。
ようやく、『カゲゴショ』の第二巻に取りかかることができました。
これはあくまで自分自身で作った構成リストに過ぎませんが、
それでも十二万字以上を書き上げられたことに、ささやかな誇りを感じています。
競争の激しい世界では、心がすり減ってしまうこともあります。
だからこそ、常に自分なりの動機を見つけ、前に進もうと思っています。
私はこれからも、“現実逃避”を通じて、
同じ時代を生きる人々に少しでも希望や勇気を届けられるような物語を綴っていきます。




