38. 刀火、そして透華その一閃に込めた、真実と虚構のはざま
「……真実と虚構、その両極を抱いて、人は――戦う。」
俺は――静かに立ち上がり、彼女に鉄扇を手渡した。
一見すれば、それはただの――古びた天上劇の装飾品。
けれど……俺は知っている。
それが、どれほど致命的な武器であるかを。
何故なら、俺自身が……いや、何度も――
この死神のような女神の標的となったことがあるからだ。
その攻撃に……肉体的な傷は一切残らない。
なのに、精神は――薄氷のように、音もなく軋みながら……砕けていく。
月華様にとって――幻も、光も、ねじれた現実すらも……
すべては、この扇ひと振りで形作れるものだった。
だからこそ、俺は――それを読み解く術を身につける必要があった。
それが……生き延びるための、最低条件だった。
彼女は俺から鉄扇を受け取り、ほんの僅かに……頷いた。
その一瞬だけ、彼女の表情は――“女神”ではなかった。
どこか、弟子を“次の段階”へと導こうとする……“導師”の顔だった。
「……ありがとう。」
その声は静かで、添えられた微笑みは――
どこまでも、儚くて……優しかった。
「――さあ、始めましょう。」
俺は、ゆっくりと……息を吸い込む。
恐怖からではない。
むしろ、分かっているからだ。
月華様との“本気の戦い”は――身体だけではなく、
心も……そして、自分の中に隠していたものすらも――
すべてを曝け出すことになる。
……風が止まった。
いや、時の流れさえも……鈍くなった気がした。
俺の目の前で――月華様が扇を構える。
その動きに応じて……空間がねじれ、光が揺れる。
まるで、この世界が……自分の“形”を思い出そうとしているかのように。
俺は、二本の刀を抜く。
鞘から滑り出た金属の響きは、決して――大きくはない。
けれど、それだけで――
“人間としての限界”を超える覚悟を示すには……十分だった。
一本目に抜いたのは――
《葛城の光月》。
……別名、“幻を斬る剣”。
それを、左手に構える。
まるで、俺の内なる闇が――こう囁いてくるようだった。
「……これこそが、世界を欺くに相応しい」と。
その刀は、風が影に化けたかのような――気配を纏っていた。
……ただの研ぎ澄まされた金属ではない。
この《葛城の光月》は――
肉体を断つためだけの刃ではなかった。
敵の意識、その隙間に入り込み……錯覚を植えつける。
一振りごとに、肉体だけでなく、“知覚”すら――切り裂いていく。
……現実は、その瞬間から、“真実”であることをやめる。
破壊されたのではない。
……ただ、俺が作り出した虚構を、“信じた”だけだ。
そして、もう一本――
俺の右手に握るのは、
《月輪の透華》。
……“現実を斬る剣”。
これは、兄弟刀とは違う。
《葛城の光月》が影と幻に生きるのなら――
この剣は、言葉を省き、ただ“真実”だけを突きつける。
……飾り立てた希望も、曖昧な優しさも通じない。
握る右手は、約束などしない。
ただ――「これは真実だ」と、冷たく断言するだけ。
この剣の能力は、目を惑わすものではない。
……傷をなかったことにする幻想でもない。
この剣は――“世界の根幹”に干渉する。
……物理法則を書き換える。
この刃の一閃で、
……重力は空へと流れ、
影は光に背を向ける。
「正しい」と「間違い」の境界が――音もなく、崩れていく。
生と死さえも。
本来ならば、宇宙を支える“絶対の概念”が……
この剣の前では、
“信じる者の視線”ひとつで――崩れていく。
なぜなら、この刀の斬撃は……
ただの攻撃ではない。
それは――“世界を再構築する意思”の発露だった。
「……この現実は、間違っている。」
その想いひとつで――
この剣は、“新たな現実”を創る。
たったひとりの意志によって、
……世界は“塗り替えられる”のだ。
俺は、二本の刀を――同時に持ち上げた。
最初に感じたのは、単純な“重さ”だった。
……だが、時間が経つにつれ、
それは手から、胸の奥へと――移り変わっていった。
わかっていた。
俺の選択は、道を切り開くだけじゃない。
それは同時に……無数の分岐を生み出す。
世界が良くなるか、それとも破滅に向かうか――
その岐路は、たった一つの“呼吸”にすら含まれている。
俺の準備が整ったことを見て、
月華様は――静かに頷いた。
……小さな、控えめな動き。
でも、それが“彼女”の仕草である限り――
その一挙一動が、世界を揺るがす。
彼女は、右手の鉄扇をひと振りした。
……軽やかに。
まるで、目に見えぬ塵を払うかのように。
ただ――それだけだった。
だが、その瞬間――すべてが“変わった”。
空気が、最後の息を吸い込んだように……静止する。
そして次の瞬間、無音の“爆発”が広がった。
空間が……軋む。
だが、それは物理的な崩壊ではない。
“存在”そのものが、不安定に――軋み始めていた。
まるで、この現実が……月華様の前で
「どうあるべきか」を忘れてしまったかのように。
――月光が“溶けた”。
比喩ではない。
……本当に、溶けたのだ。
空から銀の絵具がこぼれ落ちるように、
液体となった月の光が――地面に染み込み、
やがて渦を巻き、
その輝きが……夜の毛布のように
俺たちの全身を包み込んでいく。
俺は――静かに目を閉じた。
……恐怖ではない。
これは、“理解”だ。
この光を通り抜ければ、もう……“あの世界”には戻れない。
そして――目を開けたとき、そこにあったのは。
……見知った世界では、なかった。
これは夢ではない。
幻でもない。
これは、月華様が創り出した“次元”だ。
彼女が“許した”からこそ存在する、閉ざされた空間。
この場所こそ、彼女の“真意”が眠る舞台。
ここは……
俺たちがよく“訓練”と呼んでいた場所のひとつだ。
もっとも、「訓練」という言葉が本当にふさわしいかどうかは――疑問だが。
この場は、たとえ神であっても……足を踏み入れるのをためらうだろう。
出られないことを恐れてではない。
出たとしても、果たして“同じ存在”でいられるのかどうか――
それが問題なのだ。
頭上に広がる空は、濁った紫。
優しい紫でも、温かな紫でもない。
……まるで“時間”が腐っていくような、
夕暮れが永遠に終わらず、夜へ進むことを拒み続ける世界。
月も、星も、存在しない。
ただ、どこからともなく漏れる――薄明かり。
そして、地面に揺れる俺たちの影だけが……
まるで、自分の身体から逃げ出したいかのように、長く伸びている。
この空間には、俺と月華様しかいない。
ここには、“音”も、“温度”も、存在しない。
だが、“圧”はある。
……胸の奥をじわじわと押しつぶすような、
目に見えない手が、心の重さを量ろうとしてくるような感覚。
「この場所、覚えてる?」
月華様が――ふいに声をかけてきた。
その声は、実際の距離よりも近くに感じられた。
……まるで、この空間が“彼女と俺”の間に、
“距離”という概念を許していないかのように。
「忘れようがないよ。」
俺は、少し硬い声で返す。
「初めてここに連れてこられたとき、死にかけたんだ。」
彼女は、ほんのわずかに微笑んだ。
「それでも、今のあなたはとても落ち着いて見えるわ。」
……言葉が出なかった。
理由は、分かっていた。
けれど、その“答え”を口にしたところで――
どんな言い回しにしたところで、
それはきっと、“哀しい言葉”にしかならない。
だって、
時には、
……自分を殺せるほど強い相手と戦うほうが、
自分の傷を理解しようとしない人と“話す”よりも――
よほど安心できるから。
「わからないよ。」
そう、俺は答えた。
安全な言葉だった。
けれど、ひと欠片の誠実さもない……
そんな言葉だった。
今回は、少しだけ締めの言葉を変えてみようと思います。
この章を書いた理由について、少し語らせてください。
もちろん、「ただ強大な力を描きたかったから」――そんな単純な動機ではありません。
どれほど強い力であっても、それを扱う「使い手」こそが、すべての限界であることを、私は信じています。
この章で描きたかったのは、三河という存在が背負う運命の重さと複雑さ、
そしてその中で得た「大きな力」の意味です。
彼が持つ剣たちは、彼自身の象徴でもあります。
それは――
神でもなく、
ただの人間でもなく、
二つの世界の狭間に立つ者が、
“選択”という名の行為に向き合おうとする姿。
さらに言えば、それは心の中の葛藤の具現でもあります。
――「心地よい幻想の中で生きるか」
――「それとも、苦くても真実を選ぶか」
この問いこそが、私がこの物語を書こうと思った根本の衝動です。
今まで誰も触れようとしなかった、あるいは触れるのを恐れていた物語に、私なりの答えを示したくて――。
この作品は、私の“渇き”から生まれたものです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。




