34. 優雅なる破滅
[怒りを語る必要はない。
ただ、“静かに歩く者”が……すべてを示す――。]
***
混沌の中心で、霊的な嵐が――方向もなく、ただ無軌道に渦を巻いていた。
かつて闇に覆われていた空は今や……紫と深紅の絵の具が、濡れた画布に零れ落ちたように染まり、ゆっくりと――螺旋を描く。
《千鬼夜行》が……始まった。
だが、そこに――歌はない。
あるのは、無秩序な咆哮と……もはや原形を失った者たちが刻む、乾いた足音だけだった。
あらゆる姿形の妖が、《イグツカ》の封印口から――次々に這い出してくる。
家屋ほどの巨体を誇るものもいれば、針の先ほどの……微細な存在すらいた。
だが彼らは、等しく――飢えていた。
どこからともなく声が響き渡り、別の存在たちが風に導かれ……渦へと呑まれていく。
その風は、祝福をもたらすものではない。
選り分けもせず、ただ――すべてを飲み込み、貪るだけの風。
――しかしその混沌のただ中に、一人の少女が現れた。
爆発音もなければ……神々しい光もない。
ただ――歩いていた。
……静かに。
ゆっくりと。
説明も意図もいらぬ、“存在”そのものとして――。
不思議なことに、その霊的な嵐は……彼女の身体に触れなかった。
まるで、世界そのものが――彼女の輪郭を認識し、尊重しているかのように。
血のように赤い長髪は、風に揺れながらも……空間に定着したカーテンのようにたなびき、
その身を、より一層――際立たせていた。
肩をあらわにした赤のミニ着物は、護身のためというよりは――美の象徴。
だが、その肉体には……一片の無駄もなく――
まさに、「完成された女」としての威厳を宿していた。
黒の長羽織は、前を開けたまま……闇のように彼女の背を優しく撫でていた。
まるで“夜”そのものが、彼女から――離れたくないと願っているかのように。
腰に携えた、鈍く沈む――暗鞘の刀。
その刃は、まるで「……まだ語る時ではない」とでも告げるように、
ただ――静かに沈黙していた。
その姿を……妖の将たちは、見ていた。
テガタナ鬼。
アシグモ。
ジンバ郎。
槍吹雪。
――誰一人として、声を発する者はいなかった。
それが……畏敬からくる沈黙か、恐怖ゆえか。
あるいは……ただ反応する術を、忘れてしまっただけなのか。
だが、彼らにだけは――分かっていた。
一つ、確かなこと。
“怒り”よりも……恐ろしいものがある。
それは、決して崩れぬ“優雅さ”の中に……静かに封じられた怒りである。
彼女の瞳は――静かに戦場を見渡していた。
それは、まるで……
この世界に拒まれながらも、自らの欠片を探し求める者の目。
きっと、彼女は……ずっとこうして歩いてきたのだろう。
音も立てず、誰かに理解されることすら……求めずに。
……一歩。
そして、もう一歩。
人を襲うことにためらいのない妖たちでさえ――
その歩みに、今はただ……視線を伏せるばかりだった。
中には、顔を背ける者すらいる。
誰一人として……近づこうとはしなかった。
戦う前から“敗北”を知るというのは……きっと、こういうことだ。
そして、ついに――彼女は口を開いた。
その声は……大きくない。
威圧でも……ない。
だが、不思議と――はっきりと届く。
「人間の世界に戻れて、嬉しいのかしら?」
……誰も、答えなかった。
いや――答えられるはずがなかった。
なぜなら、その問いは……返答を求めるものではない。
それは、“ここに立つ者”が――もはやただの人間ではないということを、
あらためて……世界に思い出させる言葉。
妖でもなく、女神でもなく、鬼ですらない。
力を得すぎたがゆえ……“怒り”すら形を失った存在。
そのとき――地の奥深くから、
重く、低い咆哮が……響き渡った。
それはまるで……地球の腹の底が息を止め、
そして――破裂しようとする瞬間のような音だった。
その咆哮は……ただ音として響くだけではない。
聞いた者の胸を――締めつけ、生きていることすら疑わせるほどの……重みを持っていた。
同時に、黒い瘴気が――地中から溢れ出し始める。
ゆっくりと、しかし確実に……。
重く、広く、空間そのものを蝕むように――静かに広がっていく。
やがてそれは……一つに収束し、
巨大な“何か”の輪郭を――浮かび上がらせた。
その形は――曖昧で、しかし紛れもなく“巨大”。
それを目の当たりにした妖たちは……まるで呼吸すら忘れたかのように――沈黙した。
――二度目の咆哮が、響き渡る。
先ほどよりも……獣じみた、そしてより“個人的な”叫び。
それは、千年の眠りから目覚めた存在が、
自らを迎えたこの世界に“失望”した時に放つ、魂の叫び。
――だが少女は、ただ静かに……微笑んでいた。
まるで、この世に――最初から何も期待などしていなかった者のように。
「感謝なさい。あなたたちは、こうして再び現れる“機会”を与えられたのよ。」
それは……決して称賛ではなかった。
それは――死に飽きた処刑人が吐く、“慈悲”という名を借りた……死刑宣告だった。
その瞬間――。
黒き巨影が、瘴気と悪意から成る――漆黒の腕を持ち上げた。
一撃を……振り下ろそうとしていた。
だが。
少女は――ただ一度、手を払っただけだった。
それだけで……あの巨大な腕は。
まるで、本体から――切り離された影のように、あっさりと……落ちた。
あまりにも当然のように。
あまりにも――無言で。
その場にいた妖たちは、息を呑むしかなかった。
少女の眼差しは、今やはっきりと……“それ”を捉えていた。
《雷斧の鬼神》――イグツカ。
「行動を――慎みなさい。
もし、お前たちが私の計画に必要な存在でなければ……
とっくに、消していたわ。」
叫び声も……反論もなかった。
恐怖という感情すら知らぬはずの存在たちでさえ、
その時ばかりは、本能的に――“従うべき時”を悟っていた。
妖たちは……まるで合図でもあったかのように、一歩――後退する。
イグツカでさえ……もし呼吸という概念を持っていたのなら、
きっと今は、それすらも――止めていただろう。
少女は一瞬……静かに間を置いてから、言った。
「よろしい。では、よく聞きなさい。任務は――単純よ。」
「京都へ行って――可能な限り、破壊しなさい。」
……誰も答えなかった。
もちろんだ。
それは、返答を求める“命令”では――なかったから。
少女は、ふっと……小さく、ため息を吐いた。
疲れでは――ない。
ただ……この世界が、何一つ約束を守ってくれないという現実への、静かな落胆。
「やはり、理解できないのね。……最初から、分かってはいたけれど。
この程度の命令も受け取れないのなら――」
少女は、静かに――刀を引き抜いた。
縦に振り下ろされたその斬撃は……
音もなければ、圧もない。
ただ空気を裂く“事実”として……そこにあった。
そして――次の瞬間。
イグツカの身体が、音もなく……真っ二つに割れた。
……沈黙。
数秒の間を置いて、ざわめきが――広がり始める。
怯えたような囁き声。
気配を断ち切るように、さらに距離を取る者たち。
まるで、先ほど刀が通った“空間”すらも……もはや穢れているかのように。
少女は――静かに一歩を踏み出すと、
足元に転がった“黒き断片”のひとつを、音もなく……踏みつけた。
その姿は、まるで――
“苦痛を与える価値すらない”と判断した悪魔のようだった。
「……理解した?」
「今、この場における自分たちの“立場”を。」
誰も――「はい」とは言わなかった。
だが、それは……必要なかった。
“恐怖”こそが、――そのすべてに答えていた。
「……いい子たちね。」
少女は、ゆっくりと――手をかざし、掌に赤い結晶の球体を生み出す。
それを、真っ二つになったイグツカの身体へと……ためらいなく投げつけた。
球体が接触した瞬間――瘴気に満ちた躯が、再構成され始める。
今度は……さらに巨大に。
さらに濃密に。
そして――より“忠実に”。
「任務を果たせば、報酬は用意しておくわ。
私は慈悲深い女ではないけれど……成果には、敬意を払う主義なの。」
その言葉に、ようやく――妖たちが反応を見せ始めた。
その身体は……恐怖ではなく、
イグツカから放たれた新たな“波動”に――共鳴するように震えていた。
それはまるで……長い沈黙の果てに、
再び“生”を与えられた者たちの、蘇生の震え。
「この怒りは……我が君の怒りと、繋がっている。」
「世界に見せてやりなさい。“畏れ”と“怒り”が……何であるかを。」
「憎しみからではない。……愛した心に、無遠慮に触れたことへの罰よ。」
その言葉を合図に――地を揺るがすような、妖たちの足音が鳴り響く。
《千鬼夜行》――再び。
狂気の風が……荒れ狂い、獣の咆哮が空を裂く。
空はまるで、裂かれた傷口のように赤黒く染まり、
その裂け目の奥から……名もなき“闇”が滲み出していく。
その混沌の中心で――
少女は、誰にも見えない、遥か彼方を……静かに見つめていた。
「我が君。この心は……永遠に、あなたのもの。」
その囁きは――まるで祈りのようで。
そして……呪いのようでもあった。
いや、きっと――両方だったのだろう。
「あなたが許さぬのなら……私が動く。」
「あなたの手では触れられぬほどに汚れてしまったこの世界を……
代わりに、私が“救って”みせる。」
それは、希望の声では――なかった。
それは……たとえ世界を壊してでも、
愛を守ろうとする者の――静かな決意の声だった。
誰も……知らなかった。
“女”という存在の“想い”が、
時として――神ですら抗えぬ破滅を呼ぶことを。
その時――風向きが変わった。
空が……裂ける音を立てた。
カクヨムに作品を投稿したところ、なぜか週刊ランキングに入ることができました。
どうやら、タイトルがアルゴリズムに引っかかったようです。
それで、二つのプラットフォームに同時投稿することに決めました。
こちらでも、早くアルゴリズムの目に留まるといいなと願っています。




