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33. 微笑の奥、燃えるもの

「笑顔が優しければ優しいほど、

心の奥にある炎は静かに、そして深く燃える――。」


……静かな夜の空気の中、

きっと俺の表情は、似合っていなかった。

けれど、それを止める術など、最初からなかった。

足取りは――軽い。

母と祖母のあとを追っているはずなのに……

なぜだろう。

どこか、置き去りにされたような感覚があった。

体は前へ進んでいるのに、

……影だけがあの寺の扉の奥に取り残されているような、そんな感覚。

「帰りましょう。」

祖母の声は――柔らかく、しかし芯のある響きを帯びていた。

「もう料理も済ませたし、おかずも何品か用意してあるわ。

少し温めれば、味もそんなに変わらないと思うの。」

母の声は、いつだって――不思議な温度を持っていた。

熱を出したとき、額にそっと当てられる冷たい手のような……そんな声。

でも――なぜだろう。

その優しさが、今の俺には……少し罪悪感を呼び起こす。

俺は、小さく、静かに――うなずいた。

それでも、二人の視線は――まだ俺を見つめていた。

「ミーちゃん」

母の声には、わずかに……不安がにじんでいた。

語尾には、何かを――たぶん俺自身でも気づいていない“何か”を、期待する気配があった。

「……あ、ごめん。ちょっと聞いてなかった。もう一度言ってくれる?」

その言葉は、まるで――反射のように口からこぼれた。

……いつから、俺はこんなふうに返すようになったんだろう。

核心に触れずに、ただ空白を埋めるだけの言葉で。

母と祖母は、視線を交わした。

何度も見てきた、あの――“サイン”。

「またこの子は、こうなってるわね。」

「何か、気になっていることでもあるの?」

母の声は、普段よりも――ずっと優しかった。

「もしお父さんが、何か嫌なことをしたのなら……

無理に黙ってなくてもいいのよ?」

俺は、――首を横に振った。

「ないよ。普通に話しただけだよ。

母さんたちも、見てたでしょう?」

けれど、その言葉は――

まるで、最後まで読んだことのない物語の台詞を、

ただ……読み上げているだけのようだった。

言葉は――正しい。

でも、そこに“心”が――なかった。

……今度は、祖母が口を開いた。

「じゃあ、どうしてその笑顔なの?」

俺は、返す言葉を――失った。

笑顔……?

自分が笑っていることに、今の今まで――気づいていなかった。

「……笑ってた?」

俺がそうつぶやくと、祖母は静かに――ため息をついた。

「自覚もないのね。その表情……まるで、カズノスケ様が武田と一向一揆を潰した直前みたいよ。」

「ただ、今回は――」

そこで彼女の言葉は一度……止まった。

迷いが、ほんの一瞬――その口元に浮かぶ。

そして、覚悟を決めたように――彼女は続けた。

「さっきの目――ミーちゃんの、その眼差しと微笑み……

まるで、捕らえた敵を焼き捨てる前に笑っていた、あの人とまったく同じだったわ。」

……一瞬、場の空気が――音を失った。

俺はゆっくりと顔を上げ、

寺の灯籠に映る――自分の影を見つめた。

ゆらめく炎の奥、ぼんやりと浮かぶその姿。

そして……ほんの一瞬だけ、自覚した。

――確かに、何かが変わっている。

瞳は――鋭く、斬り裂くような冷たい光を宿していた。

赤く滲む光彩が、残り火のように……闇を貫いている。

そこには、“破壊”の意思――。

まるで、命令を待つ刃のように……静かに、揺れていた。

笑みは――薄い。

だが、それは決して――喜びの微笑ではなかった。

冷たく、計算され尽くしたような、残酷な――“形”。

まるで、この世界を崩すために必要なのは、ただ一つの命令だけだと……信じている者の顔だった。

自分が、いつから――こんな顔をするようになったのか分からなかった。

「……そんなつもりじゃなかった。」

そう口にした。

だが、その声は――あまりにも静かすぎて、逆に説得力に欠けていた。

次の瞬間、母と祖母が――俺の手を取った。

そしてそのまま……

引っ張るようにして、寺から連れ出した。

まるで、さっきまでそこにいた“半分の俺”を――置き去りにしていくかのように。

「家康の悪影響って、やっぱり強すぎるのよね~。さっさと清めないと。」

祖母が――笑いながら言った。

その笑みの中には、確かに……六割の冗談と、四割の本気が混ざっていた。

「あとでちゃんと――いっぱい食べるのよ。

お父さんとの話は全部忘れて。あんなの……ただの石ころよ。」

母の声は――優しかった。

けれど、言葉の鋭さは――決して隠れていなかった。

「蹴り飛ばすべき石ころ、ってやつ?」

俺がそう返すと、祖母がすかさず――言った。

「そうよ、両足で――思いっきり蹴り飛ばすの!」

……この二人、応援してくれてるのか、それとも煽ってるのか。

どっちか分からない時がある。

いや、きっと――両方なのだろう。

「大丈夫。本当に。」

そう言った俺の声が、今度こそ――少しだけ、

ちゃんと“人間らしい”響きを持っていたことを……願うしかなかった。

「そんなの、信じられるわけないじゃない。」

ほぼ同時に、母と祖母が――まったく同じ言葉を返してきた。

その上空に……月華様が静かに浮かんでいた。

笑うこともなく、首を振ることもなく、近づくこともない。

ただ、こちらを――じっと見つめている。

まるで、何かを“待っている”かのように。

『……心配しないでください、月華様。』

俺は意識の中で、そう――呟いた。

『――だが、お前の心はそうは言っていない。』

月華様の返答は――氷のように静かで、火のように真っ直ぐだった。

『今は……まだ動かない。でも、あなたも知っているでしょう――私の“願い”を。』

『分かっています……ただ、やりすぎないように。』

『ふふ……やっぱり君は、私のことを一番よく分かってる。』

『お前がこの世に生まれた時から、私は――そばにいたのだ。

全部……分かっているさ。』

『……ありがとう。』

月華様は、ふわりと――霧のように、そっと近づいてきた。

たとえ俺が火に変わろうとも、この――月の女神は、

きっと変わらず……傍に在り続けてくれるのだろう。

「どうやら、徳川幕府は――ここにいる三人の女性に感謝すべきね。」

そう、月華様がぽつりと――呟いた。

「このままだったら、ここ数年準備していた――あの馬鹿を止められなかったかもしれない。」

「へえ? ここに馬鹿なんて――いたっけ?」

俺が半分ふざけた口調で返すと、

「ふんっ」

月華様がぷいっと――顔をそらした。

それは、あまりにも――珍しい。

まるで、空が澄みすぎた夜にだけ現れる、

ささやかな気まぐれのような……“拗ね顔”。

その一瞬を、俺はどこか……愛おしく思ってしまった。

――一方で、

俺はまだ、考えていた。

母と祖母に――腕を引かれ、帰路につきながらも。

“あの笑顔”のことを。

……自分が、そんな顔をしていたなんて。

まったく――気づいていなかった。

望んでもいないのに、自然と浮かんでしまう、その笑み。

それは、かつての戦で身に着けていた――古い鎧のようなものだった。

捨てるには……あまりにも馴染みすぎていて。

脱ぐには――あまりにも重すぎる。

それが、今の俺の“表情”だったのかもしれない。


三河という人物像を描くにあたって、いくつかの側面から彼を捉えようとしてきた。

だが最初から、彼を“英雄”のような存在にするつもりはなかった。


戦国の終焉後、最も強く、最も純粋な意志を持っていた英雄といえば、

それはやはり本多忠勝だろう。


だが、「平和な時代」と言われる江戸初期にこそ、語られていない数多くの思いや葛藤があったと、私は感じている。

だからこそ、書けば書くほど、当時の空気や矛盾が見えてきて、

ますます物語を綴ることが楽しくなってきた。

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