3. 神々と食卓
もう一度修正しました。まだまだ足りない部分があると感じたので、手直しを入れました。
「家族というものは、時として“現実”よりも……“幻想”に近い。」
そう思ったのは――
月の女神が、空中をひと撫でするだけで、
騒いでいた妖怪の鳥を……静止させた瞬間だった。
その鳥は、空中でピタリと動きを止め、
次の瞬間には――淡い青白い光となって霧の中へと……消えていった。
「うるさいわ。食卓に羽が舞う必要なんて、ないもの。」
月華様は、まるで朝露よりも……冷たい声で、そう呟いた。
その声音には、感情も余韻も……なかった。
けれど、それがかえって――重く、鋭く響いた。
返事をする間もなく、彼女はこちらを一瞬だけ……振り返る。
その金色の瞳に射抜かれた瞬間、俺は――悟った。
今日は、ただの“朝”じゃない……。
月華様の声は、まるで空気そのものに“圧”を加えるような――威圧感を帯びていた。
彼女は再び背を向け、静かに……言葉を落とす。
「ちゃんと食べなさい。」
振り返らず、視線も逸らさず。
ただまっすぐに、刺すような口調で……言葉を続ける。
「最近、顔色が優れない。倒れられると面倒だわ。
あなたが病気になったら、私が毎朝最初に潰す相手が……いなくなるでしょう?」
その言葉に、俺は無意識に……肩をすくめた。
月華様の態度は、いつも通り――冷たく、率直。
けれど、その一言一言は、まるで心臓にゆっくりと差し込まれる刃のようだった。
静かで、鋭くて……妙に温かい。
俺は小さく息を吐き、彼女の背中を見つめていた。
不思議なことに――彼女がそこにいるだけで、心が少し……落ち着く。
「“体に気をつけて”って、素直に言えばいいのに。」
思わずそんなふうに呟くと――
「それが……私の“普通”なのよ。」
と、彼女は静かに返した。
一切、こちらを振り返ることもなく。
月華様は、生姜湯のような存在だ。
体に良いが、油断すると……舌を火傷する。
優しさを、鋭利な形で差し出す人。
言葉の調子は――相変わらず平坦だ。
けれど、その奥底には、どこか……
“愛情”に似た何かが、ほんの微かに潜んでいる気がした。
俺はふと、朝日を浴びる彼女の背中に……目をやる。
黒い着物は、やわらかな光を拒むように……静かに立ち、
その姿は気高く、決して目立とうとはしないのに、
誰よりも強く――視線を惹きつける。
振り返らずとも、“ここにいる”と――確かに感じさせる存在感。
その静けさが、なぜか……心地よかった。
ただ、そこに在るだけで。
この歪な世界の輪郭が、少しだけ……整う気がする。
――朝食の時間。
俺は、母と祖母とともに卓を囲む。
もちろん、月華様も。
いつものように、俺の隣に座っている。
……正確には「見守っている」というより、「見張っている」と言うべきだろう。
俺の中の“何か”が、暴走しないように。
障子越しの朝の光が、室内を淡い白で包み込み――
それだけで不思議と、静かな安らぎをもたらしていた。
ふと、ひとつの疑問が浮かぶ。
……月の女神って、食事なんて必要なんだろうか?
いくら記憶を辿っても――
月華様が何かを「食べているところ」は、見たことがない。
けれど……彼女の料理の腕は、確かに“神域”だった。
その味わいは、まるで……神の奇跡。
何度食べても、新たな感動がある。
……だが、今はそれどころじゃない。
今、この腹の中では――
正義の味方たちが戦争している。
(たぶん昨晩の……唐辛子入り漬物が、主戦場を血に染めてる。)
母の笑顔は、朝露のように柔らかく、
まるで寝起きの猫がこちらを見つめるときのような……優しさに満ちていた。
その視線は“我が子”を見るというより、
“可愛がっている猫”を眺めるそれに近い。
……まあ、それも悪くない。
祖母はというと――なぜか、母との間に“年齢差”をまったく感じない。
自然体の美しさと、どこか神聖な気配を帯びた気品。
まるで……神前に供える御供物のような、静かな威厳がある。
ちなみに――今年で、母は四十五になる。
だがその姿は、どう見ても……二十代の娘にしか見えない。
もはや……加齢とは? 時空とは? 物理法則とは?
――そんな哲学すら芽生える朝だった。
まるで……菓子作りを終えたばかりの女中か、
婚礼前の大名家の姫君のような佇まい。
祖母に至っては――それ以上に謎だ。
七十一歳とは思えない童顔。
それでいて、時おり鋭く光る瞳で、
まるで……孫の罪を見抜くような視線を放ってくる。
まるで、毒舌の姉のように――ピンポイントで刺してくるタイプ。
……正直、この家の“匂い”だけで、武士が戦場から逃げ出してもおかしくない。
まあ――ちょっと大袈裟かもしれない。
でも……仕方ないだろ?
“理想の日本女性”と“完璧な主婦神”が同居してるような家なんて、そうそうない。
その結果――俺の美的感覚はとっくにバグっている。
……だからこそ、“現実”に戻る瞬間が、少しだけ辛い。
母が優しく微笑みながら、俺の茶碗にご飯をよそってくれる。
俺は箸を手に取り――一口。
「……うん、やっぱり美味い。」
母は穏やかに微笑んだ。
「今日も、自分で起きたのね、ミーちゃん。」
その手の動き。
茶碗を差し出す所作が……妙に懐かしく感じられて、
胸の奥が、ほんの少しだけ、あたたかくなった。
声に出すことはなかったけれど――
心の中で、そっと呟いた。
……ありがとう。
「朝寝坊するとさ……なんか嫌な予感がして」
と、俺はぼそりと答えた。
それが――精一杯の“照れ隠し”だった。
隣には、月華様が静かに座っている。
誰の目にも映らない、俺だけの“守護天使”。
――ただし、その目つきは幕府の徴税官よりも鋭い。
優美な笑顔に隠された、冷ややかな視線。
そして今、俺の太ももには……小さな“つねり”。
……これが、俺が朝練をサボれない最大の理由だ。
この“義務の女神”に付きまとわれるのは――俺一人で十分。
彼女の裏の顔を知った上で、なお生き残れる人間なんて……そういない。
「まあまあ、ミーちゃん。どうしたの? そんな浮かない顔して。」
祖母が目を細めてこちらを見つめる。
その目には……完全に“楽しんでる”色があった。
俺はとっさに何か返そうとして――咳き込んだ。
「うぐっ……ばあちゃん、いきなりやめてよ!」
「まぁ、ミーちゃんったら……お口が可愛いわねぇ。」
だが当然、母の“ミーちゃんセンサー”は――
空を舞う鷹よりも高性能だった。
「ミーちゃん、体調悪いの?
だったら、無理して朝の稽古なんか行かなくていいのよ?」
母の声は、静かで、あたたかくて――
まるで……春の陽だまりみたいだった。
俺は苦笑いを浮かべながら、味噌汁を一口すする。
「……いや、大丈夫。ただ……ちょっと考え事しててさ。」
湯気が、ふわりと空へ昇っていく。
その温もりの中に、ほんの少しだけ――
切なさが、混じっていた。
ああ……なんて甘い誘惑なんだろう。
もう一時間だけ、寝ていたい。
世界なんて……どうでもいい。
俺は――布団と一体化したいんだ。
……だって、布団こそ世界平和の源じゃないか。
現実逃避するように、月華様を――振り返る。
彼女の笑みは、いつもと変わらない。
けれど……その笑顔は、真冬の山頂よりも冷たかった。
もしその笑みを“翻訳”するなら――きっとこうだ。
「やってみなさい。命が惜しくなければ。」
……俺はただ、うつむくしかなかった。
またひとつ、魂が“義務の女神”に捧げられた――瞬間だった。
この幸福が、永遠に続かないことはわかっている。
……だが今だけは、その現実から目を逸らしていたかった。
キィッ。
障子の向こうから……微かな音。
視界の端で、影が揺れた。
――小さな獣牙を持つ。
妖怪の鼠だ。
「……面倒ね。」
ツン。
指を鳴らす音が鳴った瞬間――
小さな闇が鼠の姿を呑み込み、痕跡もなく……消し去った。
「また迷い込んだのか……」
俺の箸が、一瞬、止まる。
「神様って、器用だな。」
月華様は――何も言わなかった。
……最近、時間が異様に早く過ぎていく気がする。
それが、少しだけ……怖い。
(何か“大きなこと”が、近づいている。)
そして、それを知っているのは――
月華様、あなただけだ。
月華様が、かすかに呟いた。
「彼らが動き始めたわ……影の向こうで。」
その言葉に、俺は……言葉を失った。
目を逸らそうとしたその瞬間――
彼女の手が、俺の肩に触れる。
その手は……冷たかった。
気温ではなく、張り詰めた空気を伝えてくるような――冷たさ。
けれど同時に……
誰よりも多く、俺に触れてくれるその手には、
不思議と――温もりがあった。
「あれを見なさい。」
その声に導かれ――俺は顔を上げた。
そしてその瞬間――俺の世界は、わずかにひび割れた。
地平線の向こう。
人の目には見えぬ、はるか彼方。
そこに……“影”があった。
黒く、揺れ……しかし空虚ではない。
いくつもの“人影”が、静かに――立っていた。
彼らの装束は、どこか僧のようでありながら……
くすんだ御札や、呪具で全身を覆い尽くしていた。
俺は目を細める。
何かが……違う。
陰陽師。
だが、俺たちが知るそれとは――違う。
封印の守り手でもなければ、悪霊を狩る者でもない。
彼らは、“均衡”の道を捨て……
ただ“生き延びる”ために、闇と手を結んだ者たち。
「……黒陽」
その名が、自然と口をついて出た。
まるで――ずっと前から知っていたかのように。
彼らは、かつて正統な陰陽寮に属していた。
だが今は、歴史の影に潜み……
絶望の底から“呪”を紡ぐ者たち。
そして今――ついに、動き出した。
「ひとつだけ、問いましょう。」
月華様の声が……静かに空気を裂く。
朝の風が止まり――
まるですべてが、その問いのために息を潜めていた。
「あなたは、どうしたいの? 三河。」
その声には、命令もなければ、強制もなかった。
……けれど、だからこそその問いは、何よりも重かった。
俺は月華様を見つめ、
再び――遠くの地平線へと視線を向ける。
朝から背中に感じていた不安が、ようやく……その“正体”を現した。
そして俺は、悟った。
――あの布団の温もりに戻れる時間は、もう……残っていない。
* * *
その頃。
伊賀の近く――小さな村に、数人の浪人が足を踏み入れた。
主を失い、生きる意味を見失い、
誇りさえも……投げ捨てた男たち。
女を、食料を、争いを求めて――
荒んだ目的のまま、たださまよっていた彼らが目にしたのは……
静寂、だけだった。
人の姿はなく――
家々は扉を開け放たれ、
貴重品すら、無造作に残されたまま。
ひとりが、ごくりと唾を飲む。
もうひとりが、刀を抜く。
何のためかも――もう、わからぬままに。
……本当に恐ろしいのは、“敵”じゃない。
“無”だ。
後に、人々はこの時代を「安定の始まり」と呼ぶようになる。
だが――その転換点を目の当たりにした者たちは知っていた。
それが、“死の沈黙”に……限りなく近いことを。
前回は少し長くなりすぎたため、今回少しだけ修正を加えました。
わずかな変更ではありますが、楽しんでいただければ幸いです。