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29. 影の子、名を継がず

「影の中にも、覚悟という名の光がある。」


家康は、まるで何かを測るかのように――じっと、こちらを見つめていた。

「……聞いてくれ。」

その声は、先ほどまでの余裕を捨て去った……深く沈んだ口調だった。

「お前の母にまだ“結婚してくれ”と、そう言わせられないうちは――頼む。波風だけは立てないでくれ。」

私は、ごくりと唾を飲み込んだ。

その言葉の裏に滲んでいたのは……ただの愛情ではない。

それは――積み重なった罪悪感。

あるいは、失うことへの……静かな恐れだった。

「……私が手伝えば、多少は可能性、上がりますかね?」

小さく、問いかけるようにそう告げた私に――

家康は、ふぅ……と大きく息を吐いた。

それは、まるで祈りが届かなかった神前での吐息のように……長く、重く。

「まったく。こんな私が――息子に頭を下げる日が来るとはな。」

苦笑を浮かべながら、彼は私の肩をぽんと軽く叩いた。

「まぁ……“最後の戦略”だと思ってくれ。」

「で、作戦は?」

私は半ば期待しながら、半ば用心して尋ねる。

家康は、まっすぐに私を見据えたまま――静かに口を開いた。

「戦においてな。

時に最善の策は――いったん、負けることだ。」

……言葉を失った。

やれやれ。

恋愛においてすら、父は“将”の言葉で語るらしい。

けれど、それが――この人らしさなのだろう。

私は、まだ……笑える余裕があった。

なぜなら、この男にだけは……どこか憎めない敬意があるからだ。

とはいえ――

恋という分野においては、我ら父子そろって、どうしようもなく不器用らしい。

たぶん、こう思う人もいるだろう。

「そんな立場で、どうしてお前は平然としていられるのか?」と。

けれど、信じてほしい。

私はもう、とうの昔に“ある事実”と――折り合いをつけている。

……別に、強くなったわけじゃない。

鈍くなったわけでもない。

ただ、知っているのだ。

この世界は――

すべての出来事に「公平な理由」をくれるとは、限らないということを。

……それだけのことだ。

幼い頃から、祖母と母は――何度も語ってくれた。

自分たちが、どれほどの痛みを抱え……

どれだけ多くの“最後の希望”に賭けてきたのかを。

頑固だった祖父――

あの男は、もう少しで家族全員を救えるはずだった。

……ただ一つ、遅すぎた決断。

その瞬間――すべてが崩れ去った。

そして、その絶望の中で……

母は、まだ――ただの少女だった。

居場所もなく、呼吸すら許されない世界の中で――

たった一人、凍えるように立ち尽くしていた。

彼女が選んだ一つの答え。

……それは、一夜限りの愛だった。

世間がどう思おうと、構わない。

けれど、私は知っている。

その選択の果てに生まれた、たった一つの“ささやかな幸せ”。

それが――私だ。

この物語を、自分の中でようやく組み立て終えたとき……

私は――はっきりと理解した。

私は、“間違い”の結果ではない。

私は、“選ばれなかった選択肢”の、その先に残された答えだ。

本当は……

父は最初から、「責任を果たしたい」と思っていた。

今では不器用に距離を詰めようとしてくるあの男も、

かつては――確かに“父であろう”としていた。

……望んでいた。

……挑んでいた。

けれど、この世界は――あまりにも複雑で、予測不可能だった。

それは、地位のせいかもしれない。

権力のせいかもしれない。

あるいは、どれほど強い者であっても――

“人の心”だけは思い通りにできないという、

抗えぬ真理のせいかもしれない。

私は、自分の立場を理解している。

だからこそ――私はずっと“影”に立つことを選んだ。

英雄になる必要なんて、ない。

誇らしげに担がれる後継者になりたいとも……思わない。

私は――ただ。

崩れかけた均衡を、静かに支えるだけの存在でいい。

私、母、そして祖母。

ようやく地上に出てこられたこの世界は、

ほんの些細な綻び一つで――

また、時代そのものが崩れ去るほどの脆さを抱えている。

あと一つの時代。

あと一つの破滅。

……それだけで、日本は再び、分裂へと逆戻りしてしまう。


***


そう思えばこそ――

争いは、誰も望んでいないのに……なぜか起きてしまうことがある。

この国の運命を左右するのは、たった一つの「血筋」や「名前」。

そう考えるたび、やはりこの世界は――どこまでも喜劇的だと思う。

人間は、平等ではない。

そう……最初から。

けれど、その不平等の中で――

人は少しでも“共通点”を見出そうとする。

それこそが、ささやかな“平和”の形だから。

今回、父と私は――なんとか歩み寄れた。

お互いの“真ん中”を、探す努力だけは……できた気がする。

だが、それでも。

この胸の奥には――言葉にできない圧迫感が残っていた。

再び椅子に腰を下ろした家康は、

静かに、しかし――鋭く、私の方を見つめる。

「で、いつになったら名前を“徳川三河”にするつもりだ?」

この問いは――会うたびに繰り返される。

彼の齢が六十三になった今、なおさらだ。

「父上。祖父が遺した言葉、覚えておられますか。

“祖母と母、そして私の三人は、常に“表舞台の外”にいろ”と。」

家康は、わずかに頷いた。

「……理解している。だからこそ、私は決断した。

あとどれほど生きられるかは分からぬが――

せめて、“責任”だけは果たさせてくれ。」

“責任”という言葉を選んでいるが……

この狡猾な老将が本当に考えていることくらい、私には分かる。

私が、ほんの少しでも“傾いた”瞬間――

この国のバランスは、音もなく崩れ去るだろう。

優しさと怒りが交差するとき、

……人はいちばん危うくて、美しい。

その心の揺らぎに気づいたのか――

月華様が、そっと私の肩に手を置いた。

まるで、「落ち着いて」と囁くような、柔らかな仕草。

生まれたときから傍にいてくれた、母や祖母とは……また違う。

彼女は、もう一人の“支え”。

彼女だけは、私を――理解してくれている。

……ありがとう、月華様。

もし、あなたが私と同い年だったなら――

私はきっと、何度でも……

何度でも、あなたに恋をしてしまうのだろう。

まるで私の思考を読んだかのように――

月華様の手が、ぐっと私の肩を強く掴んだ。

その微笑みは、こう語っているようだった。

「もう一度そのセリフを口にしたら命はないわよ?」

……怖ろしい。

心を読める女というのは、この世の頂点に君臨する存在に他ならない。

肩に走る痛みに耐えつつ――

私はできる限り、いつも通りに、冷静かつ中立を装いながら言葉を選んだ。

「大御所様のご加護には、心より感謝しております。

ですが、現時点では、いかなる派閥にも与するつもりはございません。」

家康は表情を崩さなかった。

だが、その目の奥では――何かを深く思案している気配があった。

「……今回は、その理由を聞こう。」

「徳川将軍家内部の権力闘争に巻き込まれることを、避けたいのです。

それに――大御所様も、お分かりのはずです。

私の存在そのものが、これまで築かれてきた体制にとって、ある種の“危うさ”を孕んでいることを。」

冷静に、油断せず、隙を与えない。

この男と対峙する時――わずかな甘さすら命取りとなる。

「本来であれば、私が手を下せば済む話だ。

だが――私はお前の母を深く愛していた。

それに、お前のような才を持つ者が、しかるべき場所にいないという現状が、

ずっと私の胸に引っかかっていてな。」

……違う。

それは、あなたの中にある“理想”の話だ。

その期待は、いずれ破滅を招くだけだと、なぜ分からないのか。

「仮に私が旗本として登用されたとしても――

すぐに、“大御所様が何を隠していたか”が、世に知れ渡るでしょう。」

「……確かにな。

この歳の者が見れば、お前の容姿や言動から、かつての“彼”を連想せずにはいられまい。

顔も、態度も、あの不遜さも――まるで鏡写しのようだ。

だが、今の時代においては、それが障害になるとは限らぬ。

民の目は、すでに変わりつつある。」

……そんなふうに言い切れるのは、あなたが常に“守られる立場”にあるからこそだ。

この地に足をつけて生きる者たちの視線までは、まだ見えていない。

民の声、地を這う者たちの嘆きまで――その耳には届いていない。

月華様は、そんな私を見つめながら……静かに笑っていた。

どうやら、私の胸のうちに去来した想いは――すべて彼女に筒抜けだったらしい。


この一文――「私は、“選ばれなかった選択肢”の、その先に残された答えだ。」――を書いたとき、ふと思いました。

もしかすると、自分が書いているこのWeb小説も、同じように“選ばれなかった運命”を辿っていくのかもしれないと。

でも、これは自分自身の意志で選んだ道です。だからこそ、今は一つの点に集中し、できる限りの成果を目指すべきだと思っています。

未来の自分が考えを変える可能性は、もちろんあるでしょう。でも――それこそが人間の“成長”なのかもしれません。

少なくとも今の私は、書くことを楽しんでいます。

この広大な物語の海にあふれる中、少しでも飽きずに読んでくださる読者の皆さんに、心から感謝しています。

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