28. 天を拒む者、地を笑う者
「敬意とは、黙って従うことではない。
……この国を想うとは時に、敬う者を傷つけることでもある。」
「もし、これらすべてを最初からお考えになっていたのなら――」
私は、静かに口を開いた。
「徳川幕府は、強さを保ちつつも……
人としての在り方を失わずに済んだのかもしれません。」
「経済的な繁栄? ――もちろん、それは重要です。
でも、その前に“土台”を整えなければ……いずれすべては崩れ落ちる。
積み重ねるほどに、脆くなってしまうのです。」
彼は立ち上がった。……何も言わずに。
だが、その眼差しには――
これまで一度も見たことのない“何か”が宿っていた。
それは「本気」。
あるいは……
**正直な“恐れ”**だったのかもしれない。
彼は無言のまま筆を取り、机に向かい――
ひとつ、またひとつと、静かに書き記していく。
私はただ、その背を見つめていた。
誇りという鎧を脱ぎ捨てた、“人間”の背中。
そして、初めて“真に聞く者”となった――
徳川家康の姿を。
そして彼が筆を置いたそのとき……
私は、ひざまずいた。
「先ほどまでの数々の無礼、どうかお許しください。」
だが、私は知っている。
敬意とは、黙って従うことではない。
この国を想うということは、時に――
敬う人を傷つけることでもあるのだ。
返ってきたのは、答えではなかった。
それは……
笑い声だった。
狂ったような、鋭く響く笑い声。
――冗談ではない。まるで、自宅の庭から金鉱を掘り当てたかのような笑い。
「ははっ……やはり、間違いないな。」
彼は膝を叩きながら、笑いを堪えきれずに言った。
「お前はやはり、私の最も天才的な息子だ。
こうなっては……秀忠の代わりに即座に据えるべきかもしれんな?」
私は、黙った。
……感動したからではない。
脳内で、
“国家非常警報”が――全力で鳴り響いていたからだ。
……いやいや、無理に決まってるだろう。
「お、大御所様、冗談はおやめください」
私は、少しうわずった声でそう言った。
平静を装っていたつもりだが……語尾は震えていた。
その隣で、月華様――月華様は、
そっと扇子で口元を隠しながら、わずかに頭を下げていた。
……それは、笑いを堪えている動きにしか見えなかった。
天を拒む者、地を笑う者――続。
「冗談に見えるか? 否。それは“天”の重みだった。」
明らかに……月華様の肩が震えていた。
まさか、神まで笑っているとは。
――この話、きっと一生ネタにされるに違いない。
五十年後、何気ない夕餉の会話の中で、
「昔ね、玉座を蹴った人間がいたのよ? 面白いでしょう?」
なんて、しれっと言われそうだ……。
「三河。お前、私が冗談を言っているように見えるか?」
家康の声は、低く――冷たかった。
先ほどまでの笑いは……跡形もなく消えていた。
私は、言葉を失った。
なぜなら、その目に宿っていたのは――本気だったから。
あの視線は……魂の奥底までを覗き込むように、深く、鋭く――
冗談の余地など、どこにもなかった。
もしこれを他の誰かが聞いていたら、
私は“裏切り者”の烙印を押されていたかもしれない。
「……もし、それが現実になってしまったら。」
私は慎重に、言葉を選びながら口を開いた。
「大御所様が築き上げた“安定”は、根底から崩れるでしょう。
それに……私は最初からその座に触れるつもりなど、一切ありません。」
一拍置いて、息を吐く。
「そんな面倒なもの、引き受けたくもない。
寝つきも悪くなりますし。」
家康の目が、細くなる。
その表情は……驚きか、困惑か――
いや、わずかながら“畏敬の念”さえ宿していたように見えた。
もしかすると……
それは、“不安”だったのかもしれない。
「“天”を差し出されて、それを拒んだ男を見るのは――初めてだ。」
父の呟きに、私は静かに息を吸い込んだ。
「天というより……金色の看板が立てられた、地獄への石畳ですよ。」
彼は――何も返さなかった。
けれど、その視線が――語っていた。
……拒絶されたことに怒っているのではない。
その理由に宿る“真実”を、認めざるを得なかったのだ。
権力とは、代償を知る者にしか扱えない。
そして私は、たとえその血を受け継いでいようとも――
崩れる前に座る王になるより、
すべてを知りながら……傍観者でいたかった。
それでも、家康は話をやめなかった。
「それでも私は、あの“可能性”を――捨てるつもりはない。」
天井を仰ぎ、腕を組みながら……
運命の天秤を量るように。
その背中は、もう“支配者”ではなく――
ただのひとりの、父だった。
「何より、私は……
お前の母、美雪を心から、愛していた。」
その言葉がこぼれた瞬間、私は悟った。
……この勝負は、もう決着していたのだ。
どれほど論理を積み重ねても、
どれだけ未来を見通しても――
叶わぬ愛を語る男の前では、すべてが無力になる。
私は息を吐き、正直に言った。
「……もし他の道があるなら、私はそれを選びたかった。」
そして、ほんの少し――声を落とす。
「けれど、それが“母の望み”であるなら……
私は、もう何も申しません。」
家康は椅子にもたれかかり、
まるで戦場ではなく、心の中で敗れた将軍のように――
肩を落とし、深く、重たく息をついた。
かつて数多の戦を制したその男の呼吸は……
これまで見たどんな勝敗よりも、静かで、切実だった。
「……もし、彼女を落とせるのなら、三河」
「――とっくに、やっている。」
その返答は、独り言のように小さく、震えていた。
……疑いからではない。
あまりに“本気”すぎて、声が追いつかなかっただけだ。
「あの心はな、石の城壁のようだった。
いくら兵を送ろうと、どんな策を講じようと――びくともしなかった。」
私は、かつて時代を創った男を見つめた。
武士たちを従わせ、戦国を終わらせたその人が……
今はただ、恋に敗れた男として、目の前にいた。
「……たぶん、母は“もっといい男”を探してるんじゃないですかね。」
私は――冗談半分、本音半分で、そうつぶやいた。
家康の顔が、ぐしゃりと――崩れる。
「なにっ!? この私が!?
元・征夷大将軍だぞ!?
この国を築き上げたというのに、それでも足りぬというのか!」
「はいはい、分かりましたってば。」
私は手を挙げ、笑いをこらえた。
「お願いですから、自分の息子の前で“恋に破れた将軍”の顔は――やめてください。」
彼は、なんとも言えない表情をした。
照れ、困惑、そして……少しの諦め。
「まったくお前というやつは、冷たいな。」
ぶつぶつと呟きながらも、ふと――微笑む。
「だが、思い出すな……若き日のことを。
信長様と語り合った夜。
肩書きも仮面も捨てて、ただ人として――
腹を割って話し合えた、あの時間を。」
その言葉に、一瞬だけ――
温かくも、どこか切ない、過去の影が差し込む。
私は思わず、少しだけ目をそらした。
……あの徳川家康が、そんなふうに語るのが
どうしようもなく、こそばゆかった。
「残念ながら、私はただの庶民ですよ、大御所様。」
そう言って、軽く肩をすくめる。
「せめて、年貢を増やさないでくだされば、感謝しますけど。」
家康は深く息をつき、ふと――空を仰いだ。
「時々な……本当に分からなくなるのだ。」
ぽつりと漏れたその呟きには、
疲労とも、諦めともつかない――微かな、影が滲んでいた。
「お前は賢いのか……それとも、ただの馬鹿なのか。」
問いかけのようでいて、実は誰にも向けられていない言葉。
それはきっと、自分自身に投げかけた――独白だったのだろう。
その答えは、私にも分からない。
もし、それを評価するのが「歴史」だとしたら――?
時代が下り、千の視線がこの瞬間を振り返るとき、
私は愚か者として語られるのだろうか。
それとも、評価するのが「父」なら――?
あの背中に届かなかった言葉たちが、
いつか微かな光として、記憶のどこかに残るのなら……
それで、充分だと思いたい。
あるいは――
まだ、その心を手に入れられていない、あの女性。
あの冷たい瞳に、少しでも届く日が来るのなら。
その時こそ……
私の“愚かさ”が――意味を持つのかもしれない。
皆さん、楽しんでいただけましたか?
実は、書きたいことがまだたくさんありましたが、あまりにも長くなってしまうと思い、一旦控えることにしました。
だからこそ、これからも読みやすさを意識して、少しずつでも改稿を重ねていきたいと思っています。
少なくとも、今のところはこれが自分の精一杯の文章力だと感じています。
これから先、もっと成長できればいいなと願っています。




