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25. 理想という病と、平和という嘘

(……平和とは、時に、最も静かに人を殺す武器である)


僕は顔を上げ、まっすぐに――彼の目を見返した。

その眼差しは……今もなお、刀の刃先のように鋭かった。

「……答えは、単純です。」

取り繕う気など、最初からなかった。

「それは、ただの偽りの安定に過ぎません。

そしてその“平和”は……やがて密かな恐怖へと変貌するでしょう。」

一瞬――部屋に静寂が満ちる。

家康は、僕をじっと見つめていた。

まるで……老いた獣が、獲物の呼吸の微細な変化すら嗅ぎ取ろうとするように。

わずかな矛盾も、動揺も……決して見逃さぬという眼差し。

やがて、彼は低く――空気を裂くような声で口を開いた。

「……何を根拠に、そう言い切れる?」

その声音は静かだったが……確かな重みを帯びて響いた。

僕は、表情を変えず――むしろ意図的に感情を排した口調で返す。

「私自身の思考に基づいております、大御所様。」

言葉と言葉のあいだに……意図して間を置いた。

そして、静かに――淡々と続ける。

「短期的な安定だけを望むのであれば……

確かに、それは“成功”と見なされるかもしれません。」

僕は、ほんの少しだけ――目を細めた。

「ですがそれは、傷を癒すのではなく……

ただ、包帯で隠すだけの行為です。」

僕の言葉が、彼の中で――波紋を広げていくのを感じた。

そしてどうやら、彼は……それすらも愉しんでいるようだった。

家康は、薄く笑った。

それは……意味深く、罠の匂いすら孕んだ微笑だった。

「……つまりお前の目には、

この“法”が“欠陥品”に見える、というわけか?」

その問いに、僕もまた――静かに微笑みながら応じた。

「……欠陥どころか、

新たな病を生む“起点”にすらなるかと。」

その瞬間――部屋の温度がわずかに変化した気がした。

言葉ではなく……沈黙で交わされた一刹那の攻防。

まるで、まだ刀を抜かぬ二人の剣士が――

間合いだけを図り続けているような、そんな感覚だった。

やがて、家康は――ふうっと深く息を吐き、ぽつりと漏らす。

「……そうか。そう言うか、三河。」

その口調は――静かだった。

だが、その奥底には……火種のような感情が微かに燃えていた。

「ならばお前は、“理想”を語っているということになるな?」

僕は、何も言わなかった。

肯定も、否定もせず……

ただ、彼の瞳を、まっすぐに見つめ返していた。

その胸の奥に……何かが小さく火を灯すのを感じながら。

「この現実の中で生きているのだと……

お前は、本当に自覚しているのか?」

家康の声が、ほんのわずかに――熱を帯びる。

理想か。

それが、何よりも脆く……

そして、何よりも恐ろしい言葉であることを、僕は知っていた。

それでも――

あの男の語る“現実”に抗うには、

僕には……それしかなかった。

そんな問いが返ってくることなど……最初から分かっていた。

「……ええ。もちろん、自覚しています。」

僕は静かに……けれど迷いなく答えた。

「だからこそ、正直に話すしかなかったんです。」

「その愚かな制度が……生まれてしまわぬように。

罪のない人々が、たった一人の為政者の“狂気”で殺される未来を――防ぐために。」

家康の目が……わずかに細まる。

その視線の奥に、微かな火花が灯る。

「――ならば、訊こう。」

声は低く、抑えられていた。

まるで刀を鞘の中で鳴らすような……冷静な威圧感。

「お前に、“完璧な制度”が作れるのか?」

僕は、ふっと笑った。

どこか寂しげで……すべてを受け入れた者のような笑みだった。

「そんなもの……あるわけがないでしょう。」

父の顔に、一瞬だけ……影が走る。

「詭弁に聞こえるな。」

その言葉には、苛立ちが――わずかににじんでいた。

僕は静かに、首を横に振る。

「制度が悪いのではありません。

それを運用する、“人間”が問題なんです。」

一呼吸置き……湯飲みに視線を落とす。

そこに映る自分の目が、驚くほど……静かだった。

「変化は、必ず訪れます。

季節の巡りと同じように……誰にも止められない。」

再び――彼を見つめる。

その瞳に宿るのは、静かな意志と……確かな覚悟だった。

「大切なのは、“完璧な制度”を作ることではなく……

時代と共に“修正し、壊し、作り直す”覚悟を持つ人間を――育てることです。」

家康は……じっと僕を見つめていた。

……考えているのか。あるいは、記憶の底を探っているのか。

彼のまばたき一つすら……計算されたように慎重だった。

やがて、ぽつりと――問いが落ちる。

「……つまり、三河。

お前が、本当に言いたいことは何だ?」

僕は、深く息を吸い込んだ。

そして――拳を握った。

爪が掌に食い込み……わずかな痛みが、曖昧になりかけた思考を現実へと引き戻してくれる。

背後では、月華様が――変わらぬ姿勢で座していた。

何も言わず……ただ静かに。まるで、すべてを僕に委ねているかのように。

そして僕は――

刃のように鋭く、しかし静かな声で口を開いた。

「……大御所様の築かれるものは、

ただの“始まり”に過ぎません。」

目を逸らさず……まっすぐに告げる。

「最大の問題は……

あなたが望むその“平和”が、決して真実にはなり得ないということです。」

父・徳川家康は――まったく動かなかった。

その眼差しは……深海のように底知れず、

僕の一言一言を、じっくりと噛み砕くように飲み込んでいく。

そして僕は――

最後の言葉を、静かに……しかし確かに吐き出した。

「彼らにとっての“平和”は、

きっと誰かの犠牲の上に立つ、“正義”へとすり替わってしまうからです。」

その言葉は……音のない空間に静かに落ち、

誰もいない深い井戸の底へと、ゆっくりと――沈んでいった。

家康は……ただ僕を見つめていた。

その老いた瞳。

幾多の戦と謀略を見てきたその目が――

今は静かに、何かを探るように沈黙している。

張り詰めた空気のなか……重く低い声が落ちた。

「……まさか、お前、秀忠を指名したことに反対しているのか?」

僕は、小さく首を横に振った。

礼を崩さずに……けれども、確固たる意志を込めて。

「いえ、決してそのようなことは。」

静かに息を吸い込み……言葉を続ける。

「ただ――

御存じでしょう。

何事も、あまりに強く握りしめれば……

いつか、その手から零れ落ちるものです。」

視界の端で、月華様が――小さく肩を震わせた。

……笑いを、堪えている。

彼女には、わかっているのだ。

この会話に潜む……滑稽で皮肉めいた真実が。

家康の眉が、わずかに動いた。

「……話せば話すほど、

お前の言いたいことがわからなくなるな。」

僕は一瞬、目を閉じ……そして静かに開いた。

ここから先は――

まるで泥の上に石を並べるように……

慎重に、言葉を選ばねばならなかった。

「もし、大御所様の望みが“表面的な安定”のみであるならば……

今の体制に、何の問題もございません。」

俺は、手のひらを――そっと上げた。

誰かを指すわけでもなく……ただ、“示す”ために。

「……けれど、もし

真に“持続する発展”をお望みならば。」

――そこで一拍、言葉を区切る。

そして、静かに告げた。

「……この体制は、やがて――

様々な利害の衝突を、生むことになるでしょう。」

その言葉が持つ重みを、俺は……よく分かっていた。

幾年もの血と犠牲で築かれた秩序を――

正面から否定することになるのだから。

けれど――

俺は、嘘をつけなかった。

家康は、深く息を吐いた。

その音は……狭い部屋を通り抜ける冬の風のように冷たくて、長かった。

「……お前、随分と大人びたな。」

その口調は――どこか懐かしげだった。

「まるで、信長と話しているようだ。」

その名に、俺は自然と……頭を下げた。

そして、ほんのわずかに笑みを添えながら――顔を上げる。

「……私は私です。

祖父とは、違います。」

家康は、しばし俺を見つめ……

そして、どこか寂しげに――微笑んだ。

「……だがな。不思議なことに、

今のお前と向き合っていると、まるで――

自分自身と対話しているような気分になるんだ。」

その一言に、俺は……言葉を失った。

その声の奥に潜んでいたものは――

後悔か。

苛立ちか。

それとも……告白だったのか。

「……ようやく、分かった気がする。」

家康は、静かに呟く。

「かつて、俺の野心に正面から向き合い……

言葉をぶつけてきた者たちが――

どんな思いで、それを口にしていたのか。」

俺は、ただ……静かに耳を傾けていた。

この瞬間だけは――

“日本を手にした老狐”が、

その胸の奥を……少しだけ見せてくれていた。

正直に言えば……

俺なんて、彼の足元にも及ばない。

たまたま、“未来”を知っていただけの……

少しだけ先を見ている子供に過ぎないのだ。

夢の中で見た、“ユキヨ”という世界。

それが幻なのか、未来の記憶なのか……今も分からない。

けれど、そこで俺は――学んだ。

歴史というものが……

時に“過ちの繰り返し”で成り立っていることを。

だからこそ――

俺は、知っている。

この国が、どんなふうに“終わっていく”のかを。

……僕は、知っていた。

けれど、それで偉くなったつもりはなかった。

むしろ、それは――恐怖だった。

歴史の重みは……知識だけでは背負えない。

それを、本当の意味で――理解していたから。

部屋の隅では、月華様が静かに座っていた。

その瞳は、まるで……冬空のように澄みきっていた。

――一柱の、美しき神。

そして、二人の人間が。

時の狭間で、真正面から向き合っていた。

そして……

その間に。

静かに、だが確かに――

“未来の日本”が、形を成し始めていた。

「……彼らにとっての“平和”は、

きっと誰かの犠牲の上に立つ“正義”へと、すり替わってしまうからです。」

その言葉が落ちた瞬間――

部屋の空気が、わずかに……揺れた。

家康の視線が――初めて、ほんのわずかに、逸れる。

沈黙の中で……

何かが、静かに軋み始めた気がした。

それは……ひび割れ。

それとも、始まり。

あるいは――終わりの鐘。

どちらとも言えない、その感覚だけが……

この小さな部屋の中で、静かに――鳴り続けていた。


ついに、最初の全チャプターの修正が完了しました。

これで一区切りとなり、今後はいつも通りの更新ペースに戻ることができます。

変わらず読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。

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