神農黄帝食禁之書 2
すみません。グロいです。
「覚悟はいいか?」と漆原課長が言う。
「もちろんです」ぼくは力強く答えた。
「うむ」と課長は重々しく頷く。
「なにしろ、今回の料理は特別なのだ。そう滅多に食べられるものじゃない」
ゴクリ、とぼくの喉が鳴った。
あの漆原課長がそこまでいうとは、いったいどのような素晴らしい料理なのだろうか。胸が高鳴る。
「たいへん希少な食材だ。十年に一度しか手に入らない」
そこは一見、ごく普通の一軒家である。
ところが、ここにこそ究極の食材を提供する伝説の厨房があるのだった。
うながされてテーブルについたぼくの前に運ばれてきたものは、口の広い金属の壺であった。上部には持ち手が二つ、そして下部に三本の脚がついていた。いわゆる鼎という容器で、容器の下から火を焚いて料理ができるように、この脚がついているのだ。側面には伝説上の神獣らしきものが隙間なく鋳造されている。
「それでは、お食べください」
と、耳のそばでシェフの囁く声がした。
鼎からは湯気が立ちのぼっている。
だが、中が見えない。
壺の中にあるのは、蟠る暗闇である。
いや暗闇のように真っ黒い液体が、容器を満たしていたのだ。
目を凝らすと、黒い液体の表面に細波が立った。
「まず、匙で掬って、スープをご賞味ください」
壺の横に置かれた竹の匙を手に取り、そしてひと匙、その真っ黒な液を掬う。
口に近づけると、刺激的な香辛料の香りが匂った。
ぼくは火傷をしないように気をつけながら、湯を口に含む。
「おうっ」
スープが唇に触れた瞬間、まるで水面に落とされた油が広がるかのように、その黒い液体が私の口腔内を走った。口腔内粘膜をスープが膜のように覆い、えも言われぬ感覚が走り抜けた。辛い? いや違う、これは辛さではなくて、強烈な痺れ。そして快感。
ぼくは次々にスープを口に運ぶ。
濃厚なスープが、口の中を遡り鼻腔にまでも侵入する。
そして、たらりと鼻から垂れた。
側から見たら、ぼくの姿は大変なことになっているのではないか。
まるで鼻血のように、真っ黒なスープが鼻から滴っているのだ。
「ふむ、そろそろいいかな」
課長がつぶやいた。
「はい、頃合いかと」
シェフが答える。
「おい、箸をとれ。これからが本番だ。さあ、壺の中のメンを啜れ」
ぼくは、箸を手にした。
赤いこの箸の材質は何だろうか。
これもまた奇怪な彫刻がされた箸は手に吸い付くように馴染んだ。
麵――そうか、この何も見えない真っ黒なスープの中には、麺があるのだ。
箸をスープに差し入れると、なにか柔らかいものが箸先に触れた。
絡めとって、箸をゆっくり持ち上げる。
そして、<麺>が、黒い液の中から姿を現した。
麺は、真っ白だった。
白くツヤツヤした麺が箸に挟まれている。
箸を高く掲げて、麺の全体をスープから持ち上げた。
と。
するり。
スープから取り出された麺が、まるで、自らの意思で箸に巻き付いたように見えた。
驚いているぼくに、課長が言う。
「なにしろ生メンだからな、生きが良い」
「そうなんですか」
「うむ、そういうものだ。さあ、神農黄帝食禁之書にある究極のメンを味わえ」
言われるまでもなかった。
ぼくは、口をあけ、麵をすすりこむ。
口の中いっぱいのその白い麺。
滑らかではあるが、凹凸のある触感。
ぼくはその麺を噛んだ。
ぶつり!
歯が、それを噛み切った途端に。
キィエエエエ!
甲高い叫び声が、口の中で爆発した。
そして、猛烈な勢いで麺が暴れ出した。
「ぶふぉっ!」
いくつもの断片になったソイツが、口腔内をじたばたとのたうちまわり、口から鼻腔にに入りこみ、這い上がって鼻腔の天井部分に達した。
そこでも止まらず、その先端を嗅上皮に食いこませ、組織に穴を開けてさらに潜りこんでいく。
嗅上皮、そこは鼻咽腔の中で、脳にいちばん近い部分である。
痛くはない、ただただ痺れるような快感があるだけだ。
「生メンだからな」
漆原課長が解説する。
「食べると脳にまで到達し、そこに棲みつく。そして、脳がこいつに齧られるたびに」
ぼくは、快楽に涙を流しながら課長の声を聞く。
「味覚も極限まで研ぎ澄まされて、真の美食家になれるのさ」
ニヤリと笑った。
「民がみな美食家になったらたいへんだ。だから、いにしえの神農と黄帝はメンを食べるのを禁じた」
「……このメンというのは……」
「うん、もちろん麺じゃあない。麺というものの発想のもとになった食材だからな。食禁之書の原本にある元々の文字から推測するに、たぶん蛟の仲間だろうな」
メンはそれ以来、ぼくの脳に棲みついている。
ぼくの脳は少しずつ、メンに置き換わっているのだろう。
面白いと思われた方で、まだ未読の方は前編「神農黄帝食禁之書」をどうぞ。