鱗粉
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その蛾は美しく大きく鮮やかな色彩を振り舞いていた。一頭だけでなく何頭も鮮やかに優雅に舞っている。
人通りの多い線路沿いの道は夜の街並みの街灯が灯り、帰宅する通勤通学の人たちのうなじの辺りをひらひらと静かに舞っては人の背後に停まり、ある者は街灯の元に戻って舞い続けている。何か意思を持っているようだ。
一人歩いている会社員風の男性の首の辺りをふわりと舞うとうなじ付近の襟元に停まった。ある者は若い女性の襟元に停まり、又、ある者は別の通行人の背後に回り首の辺りをふわふわと舞っては襟元に停まった。
通行人は一向にその事には気付かずにいてそのままそれぞれ帰路に就いた。
男が自宅に着くと部屋に明かりが灯った。うなじ付近に停まってじっとして動かないままでいた蛾は、玄関が開くと襟元から離れて暗いところに飛んで行き、停まって羽をゆっくりと2,3回閉じたり開いたりしてから動きをやめた。
会社員がネクタイを解きスーツを脱いでシャワーを浴びてサッパリした。パソコンの電源を入れてから、朝、出掛けにベランダに干した洗濯物が、乾いているのを確かめてから取り込み、部屋着に着替えた。冷蔵庫を開けて中を覗き、香の物とチーズを出した。それから冷凍庫を開けて、冷凍チャーハンを掴んでオーブンレンジで温めた。温めている間にヘネシーの水割りを作り一口二口呑んでは、香の物を口に放り込む。オーブンレンジが音を立てたのでチャーハンを取り出し、ソファーに座り食事を始めた。
テレビをつけると明日の天気の説明をしている。明日も晴れそうなので気分的には良かった。天気を見たらもうテレビには用がないのでテレビを消した。
パソコンの電源を入れると直ぐにログイン画面が表示されたので、パスワード入力してブラウザを開き、動画サイトにアクセスし音楽の再生リストをクリックすると曲が流れだした。
空間が揺らぎ部屋にさざ波が起こり、幾つもの時間軸が発生して動き活気づいて、色彩も生まれて十方に放たれた。
デスクトップパソコンのマウスを操作している間もパソコンはお気に入りの再生リストの音楽を休みなく流している。それはそのままにして、右手でマウス操作して左手でグラスに入った水割りをちびちび呑む。
それから、ブラウザのニュースのページの見出しざっと読み、自分の仕事に関係のある記事があるかどうかを探す。関係のある記事があると、見出しをクリックして記事を読む。次々に見出しを眺めてはマウスを操作するが、彼の仕事に関係のある記事はたいして無かったので、感興が湧いた記事を熱心に読む。記事も様々で文字だけの記事もあれば、動画付きの記事は景色が見れるのでとても判りやすい。不祥事をおこした会社の本社前に大勢の報道陣が居たりすると緊張感がある。上級社会に身を置いている人たちの住まいはだいたい閑静な住宅街にあることが多いので、報道陣もトイレなどの生理現象は大変だなぁ、と思う感想が湧く。そして、とても自分には出来ないとつくづくと思ってしまう。
気になる記事を一通り読むとお酒が回ってきたのか疲れも相まってなんだか眠くなってきた。彼は洗面所に行き歯を磨いてから、口を漱ぐと、次はマウスウォッシュを更に口に含んではくちゅくちゅさせて吐き出した。
とりあえずはこれでいつ寝落ちしても安心である。歯医者には基本的にだいたいの人が行きたくないところだれろうと自分では思っている。それに歯医者に行く前に何度も念入りに歯磨きするのも疲れたが、電動歯ブラシが出来てからは歯磨きに疲れることもなくなったのは有り難かった。仰向けになり口の中を見られるのも恥ずかしいものだ。歯医者という響きに、歯医者独特の匂いに、歯を削るギーンっという音に散々な経験をした。最近は透明な液体の局所に塗る麻酔でキシロカインが登場しているので、以前と比べたら雲泥の違いである。抜歯する際に打たれる注射の前段階で塗る麻酔として使われる。塗ってから、1分ほど時間が経ってから歯茎に麻酔注射を打つ。なので、ほとんど痛みは感じなくなった。それでも、歯茎にずぶずぶと遠慮なく入って来るものはもう痛いのも、怖いのもお腹いっぱいだ。
彼は過去の痛い経験を思い出している内にもう眠れると、思ったのでパソコンの電源を切り部屋の灯かりを常夜灯にしてベッドに潜り込んだ。彼はすぐに眠りの世界へと落ちた。
玄関の暗がりの上の方に停まって居た蛾が、羽を動かしてふわっと動いた。
明らかに何らかの意思を持っているであろう蛾が、寝ている彼の上を旋回し始めた。ふわふわとずーっと舞っている。すると蛾の身体から細かい光り輝く鱗粉が彼の顔と言わずに、布団と言わずに全体に鱗粉を撒き散らせている。休むことなくただひたすらに鱗粉を撒いている。満遍なく撒いた鱗粉は薄い層を成していた。その蛾の行動は彼が起きる寸前までの朝方まで行われた。大きな蛾は玄関の元の停まっていたところに行くと、長時間に及ぶ任務遂行の行動の疲労を癒すように、羽をゆっくり動かしてから完全に動きをやめた。
彼は眼を覚ましたが、鱗粉には一向に気付く気配はなく朝にする行動をしている。寝ている間の寝相は悪くはなかったが、特に肌掛け布団から出ていた体の個所は頭部付近や、足ぐらいであった。顔にも髪にも鱗粉は満遍なく確かに撒かれていた。それには気付かないとはどういうことだろう。
香りも肌感触も感じないものなのであるのだろうか、不可思議であった。彼はシャワーを浴びてから洗濯機を回して食事を摂っている。洗濯機が洗濯を終えたよと言うようにピーピー鳴った。食事も洗濯も終えたので、朝することはほとんど終えたように思うがどうだろうか。彼は部屋を見回し一息つくと、よしっ行こう。
夕方になった。今日は仕事に関するミスやトラブルは何もない穏やかな日であった。初めて行った食堂の生姜焼き定食はとても旨かったのでまた行くことにしよう。明日もまた行こうかなと、考えながら電車に揺られて駅に着いた時にはもうすっかり夜だった。改札を出るときにややふらついて、軽いめまいも起こった。なんだろう気分がよくないし、食欲も失せた。少し立ち止まり休んだが変わらないので、帰路を急ごうとしていた時に街灯の下でまた休んだ。意識が薄らいでいく吐き気もしてきた。彼のうなじの辺りから何かが出た、蛾だ。その瞬間に彼の身体は道路に崩れ落ちた。一気に沢山の蛾が夜空に飛び立った。綺麗な色彩を放って舞う蛾はあちこちに散って行くものもあるが、そのまま街灯付近を歩いていく女性の首の辺り窺い襟元に停まる者もあった。その頃にはもう彼の身体は消え失せて、スーツだけが横になっていて、靴もそのままだった。彼のカバンもスーツの袖の付近に放置されていた。
後から来た人がそのスーツを見て何事だろうと思って思案顔になる。行き倒れを表現した路上アートだろうか?それにしては邪魔だし、一時的な路上アートなのかなと、辺りをよく見まわしたが、それらしい気配もなかった。それとも悪戯かな、どこかにカメラが隠れていて歩行人の反応を見て楽しむといったとても地味なイベントだろうか。そう思ってスマホを出して写真を角度を変えて何枚か撮った。スーツに触って捲っている。
その最中にその人の首筋に飛んで来た、意思を持つ美しい色彩を放つ蛾が首の後ろの襟元に停まった。
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