一 もう顔も見たくない
「明希はいっつもそう! あたしの事なんて、なんにも分かってない!」
あたしは、ついに我慢の限界を超えた。
「年上じゃん! もっと甘やかせ! 家は職場じゃない!」
手近にあったテッシュの箱やら、空のペットボトルを明希にぶん投げた。
「環、興奮は良くない、落ち着こう」
あたしの剣幕に驚いたのか、明希の声には狼狽の色が滲む。
「そうやって、自分ばかり落ちつてるような顔して! もう! もう! 知らない!」
あたしは、そう怒鳴るとリビングから飛び出すように出ていった。
「環……」
今更のように、追いかけてくる明希の声にあたしはピシャリと、振り返らずに言った。
「朝になったら、出ていきます! しばらく帰りません!」
そして、こう付け加えた。
「もう顔も見たくない!」
※
「いるんだ……」
「仕事ですから!」
朝から不機嫌な顔で仕事をしていると、上司[#「上司」に傍点]が驚いた顔で隣に座った。
「いちゃ、いけませんか? 警部殿」
「いやまあ、そんなことはないが」
あたしの上司、楡松明希警部は決まりが悪そうに頭を掻いた。バリバリと掻きむしられたショートヘアは、あちこち寝癖でボサボサになっていた。
しかも、ワイシャツまでもヨレヨレで、まるで恋人にでも逃げられたかのようだ。
身長一五〇センチ台の小柄で、しかも童顔。しばしば子どもと間違えられるが、れっきとした警官で、しかも警部殿だ。
でも、あたしは知っている。猫を思わせる大きな目と、長い睫毛。そして年齢不詳の容貌は磨けば美少女にも、美女にもなれることを。
「た……、関根君。その……」
「なんでしょう? 警部?」
いつもは、人を小馬鹿にした顔をした楡松警部がいつになく狼狽した態度だった。
「そ、その謝りたいのだが」
「なにを、どう謝りたいのでしょう?」
なるべく、顔を見ないように答えた。
「プライベートな話はご遠慮頂けませんか?」
思いっきり冷たく、そっけなく言い放った。
「いや、その、環……さん」
「職場で名前を呼ばないで、って言いましよね?」
明希——楡松警部は、なにか言いたそうに口を開いたが、なにも言えずに黙り込んだ。
相当ダメージがあったような顔をしていたが、簡単には許してやらない。
怒りを新たに、職務に励んだ。
明希とあたしは警官、と言うか刑事だ。
頭は切れるが、扱いづらい、変わり者として明希がウチの署に飛ばされた一年前だ。
その明希とペアを組むうちに、こういう——恋人関係になった。なってしまった……。
職場恋愛って、喧嘩した時が大変だと聞いたけど、一応は上司だから顔を合わせるし、気まずいと言うより、この時は鬱陶しいが先に来た。
チラッチラこっち見るし、あからさまに落ち込んでる顔するし、傷ついたのはこっちだっつーの!
こんなんだから、自然とキーボード打つ指に力が入る。
バシバシ、ガシガシと悲鳴をあげるキーボードに、刑事課の同僚たちも恐る恐るこちらを見る。
オラオラ、見せ物じゃねーぞ!
怒りのオーラを闘気に変えて、あたしは職務に邁進した。
もちろん、刑事課のみんなには付き合っていることは秘密だ。
諸々あって、広めのマンションをシェアしている。周囲にはそう言うことにして、同棲していることを誤魔化していた。
こういう時は、同性のカップルって楽ね。
この時は仲直りするまで、署に泊まり込むつもりだった。
萎れた彼岸花みたいな顔をした明希を尻目に仕事をしていると、事件発生の知らせがあった。
「港湾地区で、心肺停止の数人が発見された模様、ただちに現地に向かわれたし」
課内のスピーカーから流れる音声に、部屋に緊張が走った。次の瞬間には、何人かが事件現場へと飛び出して行った。
「行きますよ、楡松警部」
あたしも、しかたなく明希に声をかける。
「はい……」
フラフラと明希が立ち上がった。
ほんっと、ヨロヨロしやがって!
しっかりしろよ!