8 遊び相手を見舞う勇者トラが不思議な力を見せる
御前試合が終わったその場で、王が勇者トラを、女神が遣わした正式な勇者であると宣言した。
人々は喝采し、まるで王にするような敬虔な礼をした後、勇者トラに自己紹介と挨拶をしだした。
勇者トラは女神に知恵を与えられている。
だが、ネコである。突然大勢の人間に順番に挨拶されて、戸惑う以前に、何が起きているのか理解できなかった。
少し人が途切れた時を見計らい、勇者トラはふらりと謁見の場を離れた。
人目につかないような静かな移動は、前世からの能力である。
御前試合用にレイアウトされた謁見の間を抜け出し、勇者トラは広い王城内をさまよい出した。
足元にケットシーのルフが、相変わらずまとわりついている。
「抜け出して、大丈夫かニャ?」
ルフは尋ねた。御前試合を切り抜けたことで、ルフの認識も変わっていたのだろう。
人々に囲まれている状況から勝手に抜け出して大丈夫かどうかを、現在の勇者トラが判断できるはずがなかった。
勇者トラの自室として与えられた部屋へ行く以外、初めて歩く王城内だったが、勇者トラは佐間ヨぅうに歩きながらも、明確に目的を定めていた。
匂いを辿ってきたのだ。
賑やかな王宮の雰囲気から、実用的で、積み上げた岩がむき出しとなっている無骨な場所まで移動し、通路を曲がり、一室を訪れた。
その部屋では、デボネーが治療を受けていた。
「鼻の骨が折れ、頭蓋骨が陥没しております。元に戻すのは難しいでしょう」
「なるほど……痛むわけでござる。拙者、これでも女でござる。回復魔法を使用しても、無理でござるか?」
デボネーは椅子に座り、粗末な麻の、灰色の服を着た男に、顔を覗き込まれていた。勇者トラが見たのは、デボネーの大きな背中であり、その大きな体に隠れて麻を着た男の目にも入っていなかった。
「骨が砕けて、めり込んでいます。欠損部位を復元するような高位の術であれば可能かもしれませんが……通常の回復魔法では難しいでしょう。できるとすれば……トリアド枢機卿ぐらいでしょうか」
「いや……悪かったでござる。試しに聞いてみただけでござる。そんなに簡単にに、折れた骨が元に戻るのなら、兵士たちは誰も鎧など身に着けないでござるな。枢機卿に、私情で治療を頼めるものでもござらん。今回のことは拙者の油断でござる。まさか……トラ殿があれほどとは思わなかったでござるよ」
「トラ、入らない方がいいニャ」
足元でルフが忠告したが、勇者トラは構わず治療室に入った。
デボネーのいる椅子以外にも寝台が置かれており、横になっている兵士がいる。
兵士という仕事には、常に怪我がつきものなのだろう。
室内を見回している勇者トラに、デボネーが気づいた。
「トラ殿……こんなところに来ていて、いいのでござるか? 王城内は、勇者トラ殿の噂で持ちきりでござるよ」
「はい」
勇者トラは、その返事の意味を理解していなかった。デボネーに問われたことも意味を知らなかった。
ただ、本能に促されるまま、デボネーの膝の上に座り、丸くなった。
「……トラ殿? どうしたでござるか?」
デボネーは女性だが、体躯は巨大である。勇者トラはまだ若者の姿で、小柄であることもあり、デボネーの膝の上で丸くなるのに支障はなかった。
「きっと……落ち着くところを探して、ここにきたニャ」
「トラ殿が落ち着く場所が、拙者の膝の上でござるか?」
「そうとしか考えられないニャ」
ルフが、ネコ型の体で器用に肩をすくめる。
「気に入られましたね」
治療を行なっていた男が笑った。
デボネーの鼻からは、まだ血が滴っていた。王の前では腫れ上がっただけだったが、治療を試みる途中で血が吹き出したようだ。
男は滴り落ちる血が勇者トラにあたらないよう、布を被せた。
「全く、この御仁はネコのよう……」
「ネコじゃないニャ」
ルフが慌てて否定した。
だが、デボネーの大きな手が勇者トラの髪を撫でた時、それは起きた。
丸くなった勇者トラから、ゴロゴロと心地よい音と振動が鳴り出したのだ。
「……しまったニャ」
ルフは言いかけた言葉を飲み込んだ。勇者トラは眠っているようだ。喉を鳴らすのは、ネコの特徴でもある。
制止する手段がない。
デボネーも不思議に思ったのだろう。寝ている勇者トラから布を外し、両手で抱き上げた。
「トラ殿……貴殿は人間でござるな?」
勇者トラは薄目を開けた。眠そうである。まだ、ゴロゴロという音は続いている。
「と、当然だニャ。それ以外の、何に見えるニャ」
「はい」
「本人も、こう言って……トラ、まだ寝ぼけているのニャ」
ルフが言ったように、勇者トラは完全に目覚めてはいない。
デボネーに脇を持たれて宙づりにされたまま、デボネーに向けて首を伸ばした。
デボネーが勇者トラを抱きしめる。勇者トラは、デボネーの陥没した鼻と頬骨に舌を伸ばした。
「……つっ」
「勇者トラ、ダメだニャ」
勇者トラの舌は、ざらついている。ルフは思い出した。猫の舌は、さまざまな用途に用いられるため、細かな突起が無数に出ているのだ。
だが、この時はデボネーが重症を負っていたために、傷の痛みだ勘違いされた。
勇者トラの出す音はゴロゴロと続き、抱きかかえ、患部を舐められたデボネーの血は、いつのまにか止まっていた。
デボネーが、勇者トラを膝の上に戻す。
勇者トラが、デボネーに体をすり寄せるように眠る。
デボネーが、自分の鼻に触れた。
「痛みがない……どころではないでござるな。か、鏡を……」
「信じられない」
治療をしていた男が、声を震わせて磨いた銅板を渡した。
「……肉も、骨も、元どおりでござる」
「ゆ、勇者のスキルだニャ……たぶん……」
デボネーは膝の上の勇者トラを見た。
「このような力、見たことも聞いたこともないでござる」
「ネコの鳴らす音には、回復の効果がある……ニャ」
「つまり、勇者トラはネコ?」
「ネコじゃないニャ」
治療をしていた男までが言い出したので、ルフは即座に否定した。
だが、それ以外に説明のしようもないのだ。
「で、デボネー卿、勇者トラに気に入られたニャ。勇者トラも、意識して使えるスキルじゃニャいはずニャ」
「そうでござるか……顔が潰されれば、社交界などという煩わしいものからは無縁になれると思っていたでござるがな」
「残念だったニャ。勇者トラ、もう起きるニャ」
ルフが手を引くと、勇者トラはデボネーに自分の額をぐりぐりと押し付けた。
ネコにとっては自分の匂いを押し付ける行為であり、マーキングである。
「勇者トラ、それはダメニャ」
ルフが止めたのは、勇者トラがお尻を押し付けようとしたためである。
ルフも姿はケットシーでも、中身は最高位天使である。
勇者トラの手を掴んで、強引に連れ出した。
「トラ殿、拙者は如何なる時でも味方でござるぞ」
慌てたように治療室から出て行くルフと勇者トラに、デボネーが言った。
「わかったニャ」
まだ寝ぼけて返事ができない勇者トラに代わり、ルフが答えた。