6 勇者トラ、御前試合に完勝するも、王国最強の戦士と対決する
剣に刃があるといっても、掴んだだけで切れるほど鋭いわけではない。
包丁と同じように引き切るための刃であり、包丁より肉厚の刃がある剣を掴んだところで、手が切れはしない。
だが、鍛えられた兵士が全力で叩きつけた剣を、しっかりと視認して掴み取るなど、やろうとしてできることではない。
掴み取られたガルフレッドも、驚いて目を見開いていた。
剣を離させようと腕に力を込めているが、勇者トラはぴくりとも動かなかった。
兵士ガルフレッドが、剣の柄に両手を添えた。
「トラ殿! 掴んだまま剣を捻られると、怪我をなさるでござる! 手を離されよ!」
「はい」
いい返事をして、勇者トラは手を開いた。
ちょうど力を込める瞬間だったらしい兵士ガルフレッドが、ひっくり返って尻餅を付いた。
「勇者トラ、今よ! やっちゃえぇぇぇっ!」
侍女メイが叫んだ。勇者トラは、メイのいる場所をじっと見た。
メイの周囲の侍女たちが歓声を上げる。
勇者トラには、なにが『今』なのかわからなかったのだ。何を『やっちゃう』のか理解できなかったのだ。
兵士ガルフレッドが立ち上がる。
「俺に情けをかけたのか?」
「はい」
勇者トラは、よくわからずに返事をしていた。
兵士ガルフレッドが転倒している間、勇者トラが何もせず、侍女たちを見ていたことを言っているのだろう。
兵士ガルフレッドが顔を真っ赤にしたが、その意味は勇者トラにはわからなかった。
倒れた相手に攻撃をしない。それは、相手を見下していると思われても仕方のない行為だ。
「後悔させてやる!」
兵士ガルフレッドが叫んで再び床を蹴った。
先程は、勇者トラが剣を掴んだ。
ガルフレッドも学習している。
左腕の丸い盾を体の前に押し出し、剣が勇者トラから見えないように隠して、距離を詰めてきた。
「勇者トラ、武器を抜いて」
勇者トラは侍女メイの声に応えるように腰の剣に手を伸ばし、空振りした。
まだ、手の扱いに慣れていないのだ。
目の前に、丸い盾が迫った。
勇者トラは、痛いのは嫌いだった。
背後に下がった。
盾の後ろから、剣の切っ先が突き出てきた。
勇者トラの茶色い髪が、剣に掠められる。
剣の切っ先が出てくる瞬間から、自分のすぐ近くの空間を貫くまで、勇者トラは目で追っていた。
「反撃するでござる!」
デボネーの声が飛ぶ。
勇者トラが、左手を前に伸ばす。
剣の切っ先を避けて回り込んだので、勇者トラの目の前に、兵士ガルフレッドの肩があった。
ガルフレッドは剣を突き出す動作のまま、避けられたことも気づいていなかった。
勇者トラの動体視力は、ネコそのものである。
目の前の、兵士の肩に手を伸ばした。
勇者トラの手は、軽く握られている。やんわりと拳ができている。
兵士の肩に拳が触れる。
その瞬間、勇者トラは手首を曲げた。
いわゆる、ネコパンチである。
拳があたるインパクトの瞬間、手首の動きで衝撃を追加する。
勇者トラが触れた瞬間、兵士ガルフレッドの体が浮いた。
空中で回転しながら、床に描かれた丸を飛び越え、観衆の頭上を越え、謁見の間の壁面に激突し、床に落ちた。
もはや、人間なのか、得体の知れない虫の残骸なのかもわからないほど、ねじれて見えた。
「そこまで! 勝者、勇者トラ!」
王の宣言が響く。
勇者トラは、立ち上がってこないガルフレッドを心配して見つめ、どうしてこうなったのかわからず、何度も左手の手首を曲げてみた。
勇者トラの勝利を期待していただろう群衆さえ、静まり返った。
あまりにも劇的な、圧倒的な勇者トラの勝利となった。
侍女メイも声をあげず、カーチェス姫は小さな玉座の上で固まっていた。
「お待ちくだされ」
その中でただ一人、群衆の中から、床に描かれた円の中に進み出た者がいた。
大柄で発達した筋肉を誇示するような出で立ちの、浅黒い肌の美丈夫である。一応、性別は女であるらしい。
「デボネー卿、何事か?」
勇者トラの勝利を宣言した王すら、まるで信じられないものを見た直後のような、浮ついた声を出した。
「勝敗は明らかにござるが、この御前試合、勇者トラの力を見るためのものと聞いております」
「うむ。その通りだ。勇者トラ……女神の託宣による者である以上、期待はしていたが、恐ろしいほどの逸材よ」
「はっ。しかしながら、まだ勇者トラは十分に力を示したとは申せぬでござる」
「なに? どうして、そのような事が言えるのだ?」
「勇者トラは、まだ剣すら抜いてはござらん」
「ううむ。だが……」
王の視線は、ムンデル元帥に向かった。王の視線を受けたムンデル元帥が小さく息を吐く。
「ガルフレッドより強い剣士はいくらもおりますが……先ほどのあれを見ては、立ち向かおうとするものはいないのではないでしょうか」
「デボネー卿に、お考えがあるのでは?」
元帥の言葉を遮り、王妃ガーネットが尋ねた。デボネーが大きく頷く。
「さすがは王妃様でござる。陛下、是非、拙者に勇者トラの相手をお命じいただきたいでござる」
「ふむ。デボネー卿、貴殿は自分の立場をわかっているのだな?」
「はっ。近衛隊士に二言はござらぬ」
「貴殿は筆頭近衛隊士であり、武勇において我が国に並ぶ者はない。その貴殿が、勇者とはいえ召喚されたばかりの異世界人に負けることがあれば……どうなるかわかっておるのだな?」
「つねに、その覚悟はできてござる」
デボネーは、自らの首に親指で横線を引いた。
もし負ければ、命はいらないという意味だろう。
「そこまでの覚悟があるのならば、いいだろう。デボネー卿、勇者トラとの試合を許可する」
「しかしあなた……デボネー卿が負けたら、本当に死罪にするの?」
「王妃様、そこま聞かぬが華ですぞ」
声をあげたガーネット王妃に、カバル宰相が耳打ちする。
ガーネット王妃は、納得していない表情をしていたが、ひとまず黙ることにしたらしい。
デボネーは立ち上がり、話を聞いていなかったらしい勇者トラに顔を近づけた。
「トラ殿、拙者との試合でござる。覚悟なされよ」
「はい」
勇者トラは、デボネーの瞳をしっかりと受け止めた。またも、内容を理解していない返事をした。
「今度は剣を抜くでござる。剣の持ち方は、もうわかったでござるな?」
「はい」
勇者トラは、腰の剣に手を伸ばすと、その手を前に伸ばした。拳をゆるく握っている。
空振りである。
デボネーは勇者トラの手をとった。
「手を開くでござる」
「はい」
今度はわかった返事をする。勇者トラが手を開くと、その手をデボネーはひっくり返し、剣の柄に導いた。
「手を握るでござる」
「はい」
勇者トラの手が、剣を握った。
「そのまま、前に伸ばすでござる」
勇者トラが腕を前に動かす。
手に握られた剣が、鞘から剣身を表した。
「さらに腕を伸ばし、横に振れば、剣が抜けるでござるよ」
「はい」
勇者トラ返事をしたが従わず、剣を握ったまま、剣身を出したりひっこめたりして、鞘を何度も鳴らした。
剣の滑らかな刃が、何度も自分の手の動きに従って見え隠れするのが楽しかったのだ。
勇者トラが、生まれてから初めて、道具を使うことになるのは、もう少し先になりそうだ。
「では……手加減は無用でござる。拙者も、全力でお相手つかまつる」
「はい」
勇者トラは、剣をカチカチと鳴らし続けた。
デボネーは立ち上がり、背後に叫ぶ。
「拙者の武器を持て!」
デボネーの声と共に、群衆が割れた。
デボネーと並んでいたケットシーがその中心にいたため、デボネーの言葉とは関係なく、人々が嫌悪の声をあげた。
ケットシーのルフが驚いて逃げる前に、それが持ち込まれた。
巨大な斧だ。
まるで攻城兵器のような大きさで、大人の兵士が10人で運んでくる。
ルフは避けようとして、失敗して床に描かれた丸の中に転がり込んだ。
だが、もはや誰もルフに注目してはいなかった。
デボネーが、刃だけで自分の上半身が隠れるほどの大斧の柄を掴み、片手で担ぎ上げる。
その動作だけで、人々は喝采した。
担いだ大斧を両手で構える。兵士10人でようやく持ち上げられる武器である。
自在に扱えるのであれば、もはや一人で大軍を相手にできるだけの武力の持ち主だということになる。
デボネーの足元で、転がったルフが尋ねた。
「どうして、こんなことをするニャ? 勇者トラと戦う意味なんかないはずだニャ」
大声を出して騒ぎになることを嫌ったためか、ルフは声を抑えていた。デボネー以外には聞こえなかったようだ。
「武人としての矜持、と言えればいいでござるが……勇者の召喚には、様々な目論見があるでござる。拙者は、勇者トラを気に入ったまでのこと。この国で拙者の相手が務まる戦士はいないでござる。勇者トラを無駄死にさせないため、拙者の命一つで済むなら、安いものでござる」
「人間どもめ……女神の託宣をなんだと思っているニャ」
「お主も、ただの迷い込んだ魔物ではござらぬということか」
デボネーがルフを見下ろした。
「ニャ、なんのことニャ」
「なんにせよ、見届けるのであれば、ここは近すぎるでござる。下がるでござるよ」
デボネーは言うと、ルフの首根っこを掴んで持ち上げた。
群衆の中に放る。
先程、デボネーの武器を運んできた時とは全く違う意味で、人々が左右に割れた。
「トラ殿、待たせたでござる……気が済んだでござるか?」
デボネーが構える。勇者トラは、ずっと剣をカチャカチャと鳴らして遊んでいたのだ。