34 女神の使いと出会うこと
ケットシーのルフは、天界における最高位天使である。
人間としての経歴がない勇者トラのサポートをするために、女神本人に姿を変えられ、地上に落とされた。
強大な力を持つが、最高位天使という立場上、地上の存在に直接影響を及ぼすことは許されていない。
できるのは、天使としての力に頼らない、ケットシーの肉体を使用しての行為だけだ。
ケットシーはいわば、直立した猫である。
ルフは、猫が人間のように思考し、体を使用できたらどうなるかという程度の力しかもたない。
だが、女神から直接命じられたのだ。勇者トラのサポート役として、唯一の存在であるはずだ。
勇者トラとルフを地上に送り出し、女神は休眠に入った。
勇者トラがどれだけの膨大な加護を与えられたかという証明でもある。
そのルフが知らない女神の使者など、いるはずがない。
ルフは賢者カミュと共に洞窟の奥に進み、水晶で作られた美しい城にたどり着いた。
洞窟の中なので薄暗い。わずかに太陽の光も差し込んでいるが、大部分が発光する植物の明かりである。
それなのに、暗がりにぼんやりと浮かび上がるように見える。
透き通り、内部が見える。
城の奥に、金銀財宝があるのが見える。
盗賊がたどり着いたら垂涎しそうな城だった。
決して大きくはない。城としては小柄な作りだろう。
だが、賢者カミュの小さな体で唯一の住人であれば、快適なサイズだといえる。
「綺麗な城だニャー」
「ほっほっほ。気に入ったようだのう」
関心して足を止めるルフに、賢者カミュが笑いかけた。
笑っているのだろう。ルフを見下ろす顔付きは穏やかだったが、造形はドラゴンそのものである。
「透き通って中まで見えるニャ。でも……女神の遣いを名乗るやつはどこにもいなそうだニャ」
「ああ、あれは、光の加減で見えにくくなるときもある。何しろ、虹の妖精だからのう。水晶越しでは見えんじゃろう」
「妖精? 女神は、精霊族なんか遣いにしないはずだニャ」
女神の直属の配下たちは天使族だと決まっている。精霊族は、地上にいる不安定な種族だ。
自然と相性がよく崇拝する人間もいるが、女神とは別種の存在であるはずだ。
「ふむ。わしにはわからんよ。わしらドラゴン族は、女神の系譜とは別次元の存在じゃからのう」
賢者カミュは水晶の城の敷居を跨いだ。ルフは追いかける。
「賢者カミュって、ドラゴン族なのかニャ?」
ルフは賢者カミュの前に回り込んだ。
下から見上げると、いかついドラゴンの表情に見える。
「ほかの何に見える?」
「というか、ドラゴンにしては小さすぎるニャ。未熟児かニャ?」
「……ふむ。ドラゴンは大きいほど長命で、強いという間違った伝説があるというが、どうやら本当らしい。天使のお嬢さんにまで、そう信じられているとはのう」
賢者カミュがぽりぽりと頬を搔く。ドラゴンの鱗で守られているからこそ無傷だが、鋼鉄の板でもミミズ腫れを作るほどの力と爪だ。
「ドラゴンは、女神の系譜とは別種の存在だから……私は知らないニャ」
「ふむ。それだけ、お嬢さんは女神に近い存在ということかのう。女神の使者が偽物かもしれないか。しかし、このわしが騙されるかのう」
「自分だけが騙されないと思うのが、一番危ないニャ」
「ほっほ。肝に命じるとしよう。さあさあ、聞いておるじゃろう。出てきんしゃい」
賢者カミュが手を打ち鳴らす。
空間にさざ波が走った。
ただ手を打ち合わせただけで、次元が揺れた。
ルフはその衝撃に、思わず全身の毛を逆立てて両手を床についた。
歪んだ空間の狭間から、七色の光が躍り出た。
ルフの前に現れたのは、七色の光を纏った羽のある小さな人型の魔物だった。
人間たちが妖精種だと思い込みそうな外見をした、小さく可愛らしい少女に見える。
「……お前、誰だニャ?」
ルフはむすっとして縦長の瞳孔で睨みつけた。
「おいらは妖精、女神の夢から生まれた女神の使者だよ」
ルフの周りを、楽しげに飛び回った。ルフが手を振り回すが捕まらない。
見かねた賢者カミュが、杖を向ける。
まるで杖に吸い寄せられるように、妖精と名乗った小さな人型が杖の先端に腰掛けた。
「私は、女神から直接、勇者トラを導くように命じられたニャ。それから、女神は力を使い果たして休眠に入ったはずだニャ。女神の使いなんて……あっ……」
「だから言ったでしょ。おいらは、女神の夢から生まれたんだって。女神は寝ているけど、ずっとこの世界を心配しているよ。魔王と魔族は強力だもの。勇者トラは、勝てる可能性があるってだけで、間違いなく勝てるという保証はないんだ。誰かがきちんと導かなくちゃならない。でも、女神は悪夢にうなされた。最高位の天使が、勇者トラを守って、鍛えようとしないって」
「そ、そんなことは……ないニャ」
「ふむ……それで、あのバランスの悪さか」
賢者カミュが何かを納得したらしい。ルフが聞きとがめた。
「勇者トラのバランス感覚は完璧だニャ」
「ああ。まるで獣のようにな。勇者トラは、女神からありとあらゆる加護と能力を与えられているのだろう。だが、使い方がまるでわかっていない。女神から与えられた能力を使いこなせるようにするのが、お前さんの仕事なんじゃろう?」
賢者カミュの視線に、ルフは顔を伏せた。
「トラは強いニャ。別に鍛えなくとも……誰にも負けないニャ」
「でも魔王には勝てない」
「そんなことないニャ」
「女神が夢で見たことがただの夢だったら、おいらは生まれてこなかったよ。女神とは……夢で繋がっているんだ。女神が見た夢の内容はわかるんだ。だから、女神が見た夢の通りにならないよう、おいらは冒険者組合に依頼を紛れこませたのさ。本当は、勇者トラはブリージアの王都で、剣術や魔術の訓練を受けていたはずだったよね。でも、それでは勇者トラにとっては、遊びにしかならない。女神の作った世界の理にとって、最上位の能力保持者が勇者トラなら、使い方を無理矢理に教え込むのに必要なのは……世界の理から外れた存在なんだ」
「という夢か?」
賢者カミュの問に、妖精は頷いた。
「勇者トラは、負けないニャ……」
「本当にそうなるためには、わしなんぞは容易く負かせられないといけないのじゃろう。女神とて、わしらドラゴン族が魔王に勝てるのなら、わしらに頼んでいたはずじゃ。魔王を撃てとな。わしらも、魔王のしていることはこの世界の破滅を早めることは承知しておるのでな」
「賢者カミュは、トラを鍛えてくれるニャ?」
ルフは視線をあげた。賢者カミュが目の前にいた。持つ杖の先に、妖精が座っている。
賢者カミュは腰を曲げ、ルフの頭を撫でた。
「ああ。お前さんも不安じゃったんじゃろう? だが、トラを強くする方法がわからなかったし、誰にも相談できなかったわけだ」
賢者カミュの言葉が優しく響いた。
ルフは震えた。ケットシーの体では、涙が流れなかった。
ただ、震えた。
「現在の世界が壊れるのは、わしらにとっても好ましくない。なに……報酬は女神からいただくとしよう。次に女神が目覚めるまでなど、わしにとってはごく短い間じゃ。次に女神が目覚め、まだ人間が滅びていなければ、わしの手柄ということじゃ」
「お願いします」
ケットシーのルフは深々と頭を下げた。
「……むっ?」
「どうしたんだい?」
賢者カミュに、杖の先に座っていた妖精が尋ねる。
「……ほう。はやくも、あの括り罠を攻略したか。女神が本気で力を与えた勇者というのは、伊達ではないようじゃな」
賢者カミュは楽しげに笑い、見るものによっては凶悪でしかない笑みを見せた。




