32 ドラゴンの賢者
周囲は霧に包まれていた。
視界が悪く、立派な樹木が密集して生えた森だ。
全力で動くことなどできはしない。
だが、勇者トラの動体視力は人間の比ではなく、耳は遠くの虫の足音さえ捉え、匂いだけでも周囲を探ることができる。
ネコの能力は高い。残念ながら、それを生かす知恵が足りない。
勇者トラは、その知恵を与えられている。
霧の中で木々をかわし、時には木を駆け上り、賢者カミュの痕跡を追った。
賢者カミュの移動速度は凄まじく、全力の勇者トラをもってして、追いつくことができなかった。
「トラ、ちょっと休憩するニャ。もう、丸一日追いかけているニャ」
トラの背中にしがみついていたケットシーのルフが肩を叩く。
勇者トラが足を止める。すでに冷静に戻っている。
ネコは飽きるのが早い。いつまでも怒り続けていられるわけでもない。
「追いつかない」
「不思議だニャ。こんな速度で走りつつげていれば、もう山を超えていてもおかしくないニャ」
「うん」
「ちょっと休んで、腹ごしらえだニャ。あたしも疲れたニャ」
ルフはしがみ付いていただけだが、高速で移動する勇者トラにしがみついていれば、疲れるのも仕方がない。
「はい」
「トラ、ご飯を出してほしいニャ。ネズミじゃなくていいニャ。レストランの食事を、適当に放り込んで置いた分があるはずだニャ。異次元ポケットの中なら、古くならないはずだニャ」
「はい」
勇者トラは異次元ポケットに手を伸ばし、皿に乗った暖かい料理を取り出した。
「それはいかんのう」
近くで声がした。同時に、勇者トラが取り出した料理がぼろぼろと崩れた。
「ニャ?」
ルフの声に、勇者トラが振り向く。
3メートルほど離れた場所に、賢者カミュが佇んでいた。
杖を持ち、杖の先端を勇者トラに向けていた。
「まだ、修行中じゃよ」
「今のは私のご飯だニャ」
「主人が空腹で、従魔がご馳走を食べるというわけにもいくまい。共に鍛えるがよかろう」
「意味がわからないニャ!」
ルフの言葉に、勇者トラが動いた。
地面を蹴り、両手をあげる。
賢者カミュが杖を振り、繰り出された二重のネコパンチをいなす。
勇者トラの額に、賢者カミュの杖が振り下ろされる。
勇者トラは首の位置をずらしてかわした。
勇者トラが賢者カミュをつかまえる。
口を開き、噛み付いた。
歯ごたえがない。
賢者カミュだった姿は、勇者トラが取り出した食料と同様、崩れ去った。
「それは、わしの形代じゃよ。勇者トラ、お前が触れた物が、全て灰となる呪いをかけた。空腹で死ぬ前に、呪いを解除するのじゃな」
「触れた物が灰になる呪い? そんな高度な魔術が、人間に使えるはずがないニャ。お前、なに者だニャ!」
「賢者カミュだと、ずっと名乗っているのだがな」
「賢者カミュ? 聞いたことがあるニャ。トラ……冒険者組合で依頼を受けて逢いに行くのは、誰だったニャ?」
「賢者カミュ」
「ほう。そうかね」
人間のように二足歩行をし、服を着て道具を操るトカゲは、長い顎髭をしごいた。
「……賢者って、人間じゃないニャ?」
「ああ。そうだな。だからこそ、静かに過ごせるというものだ。ブリージア聖王国では、人間以外の種族の存在は認めないからのう」
賢者カミュが静かに笑う。
勇者トラは、灰となって崩れた形代を見つめていた。
※
勇者トラは、この世界に転生させられた時から鑑定スキルを持つ。
物体を見つめると、その名称と性質、道具であれば使い方や効果などが空中に表示されるのだ。
だが、これまでは薬草採取にしか使用してこなかった。どれほど便利なスキルであるかを理解していなかったのだ。
勇者トラは、灰になった賢者カミュの形代と、形代に触れた自分の手をじっと見つめた。
なにかが浮かんで見えた。
魔法陣だと、鑑定スキルが告げていた。
勇者トラは、左手で自分の右手首に触れる。その位置に、魔法陣が一つ浮かび上がっていた。
左手を動かすと、魔法陣の位置が変わった。
『触れる物が灰になる呪い』が、『触れる物が消し炭になる呪い』に変わっていた。
呪いの性質も、鑑定スキルの情報だ。
面白い。
呪いをかけた賢者カミュの目の前だったが、勇者トラは魔法陣を移動させることで性質が変わることを知った。肉眼では見ることもできない魔法陣を移動させた。
どんな状況であろうと、集中してしまえば、周囲のことなど目にも耳にも入らない。ただし、その集中は長くは続かない。
それは前世での習性だったが、転生した今では集中力そのものは人間のものだ。
勇者トラの全身をねっとりと覆うように、無数の魔法陣がまとわりつき、呪いを構成しているのに気がついた。
本来なら、呪いの原因にも気づかずに餓死してしまうだろう。
勇者トラは魔法陣をどんどん動かしていった。
数千通りとなる魔法陣の位置の組み替えを行う姿は、自分の全身をまさぐっているかのようだった。
勇者トラがなにをしているのかを察した賢者カミュはただ静かに見つめ、ケットシーのルフは時々小石を拾って勇者トラに投げた。
勇者トラは、小石が飛んでくることに気づいていても避けようともつかもうともしなかった。
勇者トラにぶつかった小石は、地面に落ちる前に綿に変わり、花に変わり、金に変わった。
「わっ、すごいニャ」
ルフが金に変わった小石を拾い上げた。
次の瞬間、魔法陣が砕け散った。
勇者トラは、いじって遊べる無数の魔法陣が失われたことに、立ち尽くしていた。
「驚いたのう。極限まで追い詰めると、感覚が研ぎ澄まされるものじゃ。中には、呪いの本質に気づく者もおる。もし死ぬまでに呪いの正体に気づけなければ、わしが手ほどきするまでもないと思っておる。その結果、わしに弟子入りした人間は、全て死んだ。まさか、こんな短時間で呪いの正体を見極め、自力で解除するとは思わなんだ。ほれっ」
賢者カミュが、握りこぶし大の丸く黒い塊を投げた。
勇者トラが掴み取る。掴めた。変化しない。
勇者トラは匂いを嗅いだ。食べられる。
迷わず食べた。お腹が空いていたのだ。
「まぁ、もう少し警戒したほうがいいとう思うがのう」
賢者カミュが地面を蹴る。
非常にゆったりと、勇者トラの前に降り立つ。
「まさか、毒かニャ? トラ、吐き出すニャ」
勇者トラは完食していた。ルフを見下ろし、賢者カミュは笑った。
「そんな無駄にことはせんよ。毒など効くまい。それだけの女神の加護を受けて、毒で死ぬのであればお笑いじゃ。どうじゃった? 美味かろう?」
「はい」
「美味かったのかニャ?」
「はい」
「もっと食いたいか?」
「はい」
「良い返事だ。ならば、ついてくるがよい」
「はい」
「ど、毒じゃないかもしれないけど、命令に従う媚薬みたいなものじゃないとは言い切れないニャ」
「そうだとしても、問題はなかろう。勇者トラを鍛えて欲しい。そう言って、わしの元にきたのじゃよ。女神の遣いがな」
「……私以外に女神の遣い? 女神にそんな余裕は……はっ! なんでもないニャ」
「すぐにわかる。トラといったな。遅れるなよ」
「はい」
勇者トラは、賢者カミュに食事を奪われたことはすでに忘れていた。
すでに勇者トラにとっては、美味しい食べ物をくれる親切な人なのだ。
勇者トラがルフの首の後ろをくわえたのを確認し、賢者カミュは地面を蹴った。
勇者トラは、木々が密集した霧深い山の中を、賢者カミュに軽々とついていった。




