31 勇者トラ、賢者カミュと出会う
従魔であるケットシーのルフを口にくわえてぶら下げ、勇者トラは森の中を急いだ。
動物たちが騒いでいる。
まるで、森そのものが騒いでいるかのようだった。
途中で、獅子たちだけではない、熊や猪が地面を駆け、類人猿や木登りが得意な四足獣が枝から枝に飛び移っていくのを横目で見ながら、勇者トラは進んだ。
木々が切れる。岩場があった。
岩石の塊が地上に落ちているような場所で、木は生えず、草も苔すらも生息できない岩場があった。
その頂上に、獅子にしては巨大すぎる体躯を持ち、複数の獣の特徴を併せ持つ、キマイメラが王者の風格を持って君臨していた。
岩場の周りに、次々に森の猛獣たちが集まってくる。
ほとんどがの猛獣が、勇者トラがいた世界と同じ特徴と形態を持つ動物たちだったが、勇者トラはそのほとんどを見たことがない。
以前の世界で出会っていれば、勇者トラの死因となったはずの猛獣たちである。
その中に、八本の足を持つ獣や、鳥類でもなく翼を持った獣がいることが、不自然だと感じる知識も存在しない。
勇者トラは、キマイメラの吠え声に引き寄せられるように岩場にたどり着いた。
だが、おそらく以前の世界であれば死を意識しなければならないだろう獣たちを前に、足がすくんだ。
勇者トラは、木々の切れた一画に踏み込むのを躊躇した。
気後れは一瞬だった。
森の獣たちに集合をかけた、もっとも巨大な一体の匂いを、勇者トラは覚えていた。
「トラ、離すニャ。私がこの世界の存在に、直接手を下すことはできないニャ」
「はい」
いつものように返事をして、勇者トラは口を開いた。
くわえられていたルフが、ぽとりと落ちる。
「勇者トラ、ほどほどにするニャ」
「はい」
勇者トラは、キマイメラに向かって歩を踏み出した。
岩の上に君臨する巨大な獣が、勇者トラを視界に入れた。
蛇のように丸い目で、勇者トラを見る。
同時に、虎のような音を喉から発した。
周囲の獣たちが怯える。
明確な威嚇だった。
勇者トラの歩みは止まらない。
キマイメラが咆哮した。
『殺せ! 飯だ!』
そう言ったのだと、勇者トラにはわかった。
集まっていた猛獣たちにもわかったのだろう。勇者トラに向かい、一斉に襲いかかってきた。
「トラ!」
ルフは近くにいない。勇者トラに地面に降ろされると、珍しくネコの体を利用して、木を登って繁る葉の中に隠れていた。
「フーッ!」
勇者トラの体が盛り上がる。人間の髪は逆立たない。人間の体毛は逆立たない。人間の作る服は膨らまない。
「えっ? ……大きくなったニャ?」
ルフからそう見えたのだ。勇者トラにとって、大きいことは極めて重要なことだ。
※
襲いかかってくる猛獣たちの動きが止まったかどうか、勇者トラは確認しなかった。ただ前だけを見つめ、獣たちの隙間を見つけた。
地面を蹴り、キマイメラの前にいた。
キマイメラが吼える。
「シャー!」
勇者トラが威嚇の声を出す。
両腕をあげた。どちらの手にも、武器は持っていない。
ネコ科の動物が両前脚をあげるのは、それが全力の攻撃である何よりの証である。
勇者トラは、両手を振り下ろした。
キマイメラが吹き飛ぶ。
猛獣たちが逃げ出した。
勇者トラは地面に降り、再び地面を蹴った。
もんどりうって痙攣していたキマイメラに襲いかかる。
再び、勇者トラの両腕が持ちあがる。
振り下ろした。
その腕が、途中で止まる。
「森の主を殺してはいかん」
勇者トラの全力の一撃を止めたのは、輝く鱗を持った人間と同等の大きさを持った存在だった。
「誰?」
「賢者カミュと呼ばれておる」
「……賢者って、人間じゃなかったニャ?」
獣たちがいなくなったため、勇者トラの背後に近づいて来たルフが尋ねた。
「わしが人間に見えないかね? それほど変わらないはずなんだがね」
賢者カミュは、鋭い鉤爪で自らの美しい緑色の鱗を掻いた。
「『飯だ。殺せ』って言っていた」
「なんのことだニャ?」
ルフが振り返る。勇者トラは、無闇にキマイメラを殺そうとしていたのではない。キマイメラが殺せと言っていたのだと解釈したのだ。
実際には、キマイメラは勇者トラを殺せと言っていたのかもしれない。単に勇者トラが、キマイメラを殺して飯にしろと言われたのだと解釈しただけなのだ。
「……ほう。かの獣の言葉を介するか。さては、人間ではないな?」
「トラは人間だニャ」
勇者トラと賢者カミュの間に、ルフが飛び込んだ。空中で賢者カミュが掴み取る。頭をつかまれ、ルフはだらりと垂れ下がった。
「ああ。人間だろうとも。ただし、この世界の女神の加護が……非常に強力な加護が与えられた人間だろう。わしが言ったのは、人間とは別の種族だという意味ではない。もはや人智を超えた力を身につけておる。さて……これほどの力の主に、わしは何をするばいいのか」
「僕のご飯……」
賢者カミュが話題を替えようと、勇者トラは忘れていなかった。
キマイメラが殺せと言ったので、殺して食料にしようとしたのだ。賢者カミュが邪魔をした。
食事の恨みは根深いのだ。
「おお、そうじゃったな。わしかて、あの程度の言語はわかる。キマイメラは、自分を殺して食料にしろと吠えたわけではない。キマイメラに逆らう者たちを、殺して食べてしまえと言ったのだ」
「……僕のこと?」
ぶらりと垂れ下がったケットシーのルフを抱きかえしながら、勇者トラが尋ねる。
「他に、キマイメラに逆らう者がいなければ、そうなのだろうな」
「……弱いのに……」
「キマイメラは弱くないぞ。そうさな。勇者トラ、お前さんが強くない程度には、キマイメラは弱くない」
キマイメラは、このあたりの森の支配者だと、ルフが付け加えた。
勇者トラにはその意味はわからない。弱くないことと、支配者であることがどう繋がるのかがわからなかった。
「僕のご飯」
「ふむ。腹が減ったならちょうどいい。わしがご馳走しよう」
「いい。自分のを食べる」
キマイメラを食べようと考えていたので、我慢していたのだ。勇者トラは、異次元ポケットから、保存されたネズミの死骸を取り出した。
「ならん」
賢者カミュが指先を向けると、勇者トラが食べようとしていたネズミの死骸がぼろぼろと崩れてしまう。
「ニャ? どうなっているニャ?」
「いつでも、好きな時に好きな物を食べられるというのは、健全な精神を育まん。腹が減っても、わしが供するもの以外は食べてはならん」
「カミュ、どういうつもりだニャ」
「お前たち、わしを探しに来ていたのではないのか?」
「なんのことだニャ?」
ルフがとぼけたが、勇者トラは聞いていなかった。崩れたネズミの死骸に落胆していたのだ。
「昨日の夜わしのところに来た女神の使いは、なんだったのじゃ」
「女神の使い? なんのことだニャ? あれっ? 雨だニャ」
「昨日、わしのところに、女神の力の残滓を纏った小さな精霊があらわれて、『勇者を鍛えよと』告げたのじゃが……おい、ケットシー、雨じゃないぞ。お前の主人のよだれだ」
「ニャ? 賢者カミュがトラの食事を邪魔したりするから、トラが空腹に耐えかねて、おかしくなったニャ」
事実、勇者トラはケットシーのルフを優しく抱いたまま、なにも考えられなくなっていた。
空腹になり、獲物を取り出し、消し去られる。
まだ野生を残す勇者トラには、考え難い屈辱であり、理性を吹き飛ばすのには十分なきっかけだった。
勇者トラは、自分がなにをしているのかもわからず、賢者カミュに手を伸ばしていた。
その動きは、必殺の威力を誇るネコパンチを超えていた。
通常の人間なら、肉を抉り取られるところである。
だが、やせ細った賢者カミュは、勇者トラのネコパンチを片腕でガードした。
その腕を振り下ろす。勇者トラは、ルフを庇って肩を突き出し、賢者カミュが振り下ろす拳を受けた。
勇者トラは体勢を崩さず、立ったまま、数メートル後退した。賢者カミュの振り下ろした拳は、それほどの威力だった。
「トラ、私は大丈夫ニャ」
ルフが勇者トラの腕から逃れる。
「おいおい。わしは、ちっと稽古をつけてやろうと……」
「トラのご飯を燃やしたりしたからニャ。トラ、目にもの見せてやるニャ」
「はい」
いつものように返事をした。意識ははっきりとしている。だが、勇者トラは怒っていた。
食事を燃やされた。それは、勇者トラが奪った命を無駄にする行為だ。
小さな命の大切さを、勇者トラが考えているはずがなかった。勇者トラは、ただ食事の邪魔をされたことに腹を立て、地面を蹴りたてた。
一気に距離がつまる。
勇者トラと、賢者カミュの拳がぶつかり合う。
「ほっほっ。そのつもりなら話は早い。わしを追ってみることじゃな」
互いの拳が弾けあい、勇者トラは前向きのまま後退し、賢者カミュは踵を返した。
去りゆく賢者カミュの背にむかい、ルフが叫んだ。
「トラ、追うニャ!」
叫んだ時には、ルフは勇者トラの背中にしがみついていた。




