26 勇者トラ、勇者タケルと対決する
勇者トラは、扉が開いた瞬間に壁の一点を見つめた。
前世の世界での習性である。
ネコは、生来戦いが好きではない。
目を合わせば戦いになる。ネコ同士は、できるだけ目を合わせないように生きている。
勇者トラは、これまで人間たちと目を合わせることを恐れていなかった。
戦いを好みはしないが、戦いになる相手だと感じなかったのが大きい。それは、デボネーが武器を持った時でも同じだった。
その勇者トラが、視線を合わせるのを避けた。
「おいおい。俺はこっちだぞ。女神に愛された勇者様は、どこを見ているんだ?」
王宮で勇者と認められ、タケルと呼ばれている男が部屋に入ろうとした。
デボネーとミランダも立ち上がり、武器に手をかけた。
「タケル殿はお一人でござるか? 共に行動している冒険者たちはどうしたでござる?」
デボネーが尋ねる。声は硬いが、緊張はしていない。敵ではないのだ。
「あいつらは、元々俺が10年前に召喚された勇者であることを隠すための隠れ蓑だった。10年一緒に過ごすうちに、冒険者の中でも最高ランクにまで登りつめたが、俺にとってはいなくては困るということはない。感謝はしているよ……1人では、ここまで強くはなれなかっただろう」
「トラ、どうしたニャ?」
勇者と呼ばれるタケルが、部屋に入った。装備の上からは卓越した筋肉は認められないが、隙のない動きだった。
トラは、ただ、じっと一点を見つめていた。
「何か、僕に用?」
勇者トラは、視線を壁に釘付けにしたまま尋ねた。
「言っただろう。俺は、召喚されて10年、与えられた力を磨き続けた。この国に拾われた。この国の勇者は俺だ」
「はい」
勇者トラは肯定した。タケルは驚いた顔を見せる。
「いいのか? お前は、この異世界でただの人となるんだぞ?」
「トラはトラだニャ。勇者になりたかったわけじゃないニャ」
「そうか……勇者の立場に興味がないなら、俺から言うことはない。デボネー卿、俺では魔族たちには勝てないと言っていたな?」
「うむ」
「王宮では、スキルを使用しなかった。あんたとは、単純に力と技術だけで戦ったんだ。本気で戦えば、あんたでは俺には勝てないよ」
「それはわかっているでござる。だが……それと魔族の強さは別でござる。魔族に見つかれば殺されるから、冒険者に紛れていたのでござろう?」
「ああ。だが、今なら魔族にも負けはしない。それに……こっちの小僧なら、魔族に勝てるという根拠があるのかい?」
勇者トラは視線を反らしていたが、部屋の状況は理解していた。
生来の人間より耳はよく、動くものに敏感だ。デボネーがタケルを睨みつけているのもわかっていた。
「強さの次元が違うでござる」
「そこまでか?」
「いかにも」
「勇者トラ……こっちを向け」
タケルが、壁の一点を見つけ続けた勇者トラの頬に手を伸ばした。
頬に触れる。
なおも、勇者トラは壁から目を離さない。
タケルの手が勇者トラの頬に食い込む。
力を込めて、振り向かせようとしている。
勇者トラの顔が変形した。
勇者トラが腹を括った。
振り向く。
「シャー!」
勇者トラが吠えた。
勇者トラの覚悟を決めた戦いの叫びに、タケルが武器に手を伸ばす。
腰に佩た剣にタケルの手が伸びたが、剣に触れる前に、繰り出された勇者トラのネコパンチに回転しながら宙を飛んだ。
床に這いつくばったタケルに、勇者トラが襲いかかる。両手に、何かをつかもうとするかのように指先に力を込め、牙をむき出しにした。
「トラ殿、待つでござる!」
デボネーも飛んだ。全力で飛びついたはずだ。かろうじて、勇者トラの足首にしがみつくことができた。
勇者トラの体が床に落ちる前に、勇者トラはしがみつくデボネーを蹴り飛ばした。
「トラ、落ち着くニャ! せめて、武器を持つニャ!」
勇者トラにとって、武器というのは戦うための道具ではない。なぜか持たされる謎の道具だ。
だが、女神から勇者トラの監視を命ぜられたルフにとっては、勇者トラを素手で戦わせないことが非常に重要なのだ。
人間たちから、ネコの転生体だと思われてはならない。それは、女神に対する信仰に関わるからだ。
吹き飛んだタケルは、床に這いつくばった姿勢から飛びすさって後退していた。
剣を抜いている。
「スキル、身体能力向上。斬撃!」
タケルは呟くと、剣を振り下ろした。
勇者トラは、ルフに短剣を握らされた。ルフが警戒用に常に持ち歩いている短剣だ。
警戒しているのは、勇者トラが戦うことになることである。
勇者トラは、空中で手首を横に薙ぐ。
それだけで、タケルの顔色が変わった。
「まさか……信じられるか。8連撃!」
タケルの剣が残像を残して消える。
「トラ殿、避けるでござる!」
タケルのスキルについて知識があるのだろう。デボネーが叫んだ。だが、勇者トラは従わず、両手で、片手には短剣を握ったまま、猫パンチを空中で何度か行った。
すでに足首のデボネーはいない。
勇者トラは床を蹴った。
「スキル、金剛体!」
タケルは勇者トラの短剣を剣で受け止めた。だが、間違っていた。勇者トラは短剣を握った手の手首を返し、タケルの脇腹に食い込ませた。
タケルの顔が苦痛に歪む。
膝をついた。
勇者トラはタケルの頭を鷲掴みし、口を開けた。
その前に、ケットシールフの毛皮に覆われた体が現れた。
ミランダがルフを投げたのだとは、勇者トラは気づかなかった。
ただ、突然現れたルフに顔に張り付かれ、すぐには動けなかった。
ルフを剥がす。
「もういいニャ」
首の皮をつままれ、動けなくなったルフが勇者トラに訴える。
勇者トラは、苦しそうにうずくまるタケルを見下ろした。
「これで、わかったでござろう。トラ殿の強さは本物でござる。ただ……王家の方々は、扱いを間違えたのでござる。これ以上、勇者トラを怒らせてはいけないでござる」
デボネーが自分の鼻血を吹きながら、タケルに手を差し伸べた。デボネーの鼻血も、勇者トラに蹴飛ばされたために出たものだ。
勇者トラは、突然興味がなくなったかのように背を向ける。
「トラ、あんな奴、対等に考える必要はないニャ」
「はい」
勇者トラが目を合わさず、強引に視線を合わされた瞬間に戦闘態勢に入ったのは、タケルを対等の存在だとみなしたからでもある。
ルフはそれを理解し、勇者トラを落ち着かせた。




