19 勇者トラ、酔っぱらいを介抱する
~勇者トラ~
勇者トラは、前世はネコである。
女神によって人間の体を与えられた段階で、脳の機能も更新されている。
ただ、圧倒的に人間であった経験が乏しく、知識も少ない。
だが、脳の機能はむしろ高い。一度言われたことは忘れないし、見たものは記憶できる。
駆け出しの冒険者として引き受けたレストランの雑用だったが、皿洗い業務から既にウエイターにまで昇格していた。
勇者トラは、常連の女性客に呼び止められ、突然名前を呼ばれて飛び上がった。
驚いた時、本当に飛び上がるのは前世の習慣である。
「トラ……でござるな? 拙者を覚えていないでござるか?」
「デボネー……」
服の上からでもはっきりとわかる筋肉と、筋肉とは無関係に恵まれた大きな肉体を、勇者トラはしっかりと覚えていた。
「私のことは覚えているか?」
「……ミランダ」
「そうだ」
直接御前試合で戦闘したデボネーほど印象には残っていないが、侍女メイと共に親切にしてくれた近衛兵士だ。勇者トラは忘れていなかった。
「こんなところで、何をしているでござる?」
デボネーが声を落とした。
「……仕事。ご注文はお決まりですか?」
勇者トラは居住まいを正した。
「デボネー卿、確かに今はトラの仕事中なのだろう。邪魔をしては悪い」
「……そうでござるな。トラ、仕事が終わるまで待っているでござる」
「はい」
「相変わらずだな。その返事」
「ご注文をお願いします」
「そうか……驚いて忘れていた。私はマカロニポテト定食とぶどう酒を、デボネーには、肉とエールだ」
「おい、ミランダ。拙者の注文を勝手に決めるものではござらん」
「いいだろう。夜は長いぞ」
「……夜は長いでごさるか? どういう意味でござる?」
「自分で言っただろう。トラの仕事が終わるまで待っていると。トラ……いつ終わる?」
「閉店までです」
「飲み続けるつもりでござるか?」
デボネーが、むしろ笑みを浮かべた。
「店内以外にどこで待つ? トラの気が変わらないように、というより、逃げられないようにするには、ここで待つしかないだろう」
「……明日は仕事なんでござるが……」
「奇遇だな。私もだ」
楽しそうに話すデボネーとミランダを残し、勇者トラは注文を厨房に伝えた。
※
店内は大いに盛り上がっていた。
腹を据えたデボネーとミランダが飲み比べをはじめ、高級レストランには珍しく、周囲の客がはやし立てたのだ。
勇者トラは、厨房のスタッフが足りなくなり、皿洗いに戻った。
だから、デボネーとミランダがその後どうなったのかは知らない。
店が閉店となった時、勇者トラは店長に呼び止められた。
「はい」
「ご苦労だったな。冒険者としての依頼は今日までだ。これは報酬だ。冒険者を雇うなんて、反対した奴は多かったが、お前が来てくれて助かった。レストランの仕事に興味があるなら、いや……冒険者なんていつ死ぬかわからない仕事をしているぐらいなら、いつでも正式に雇ってやる。その時は、また来い」
口調は乱暴だが、料理長の大男は勇者トラに銀貨の入った袋を渡した。
「はい」
肩を叩かれ、一緒に働いた同僚たちからも歓迎される。
「うう……トラ、よかったニャ」
「うわっ。魔物がいる。外に出ていろよ」
「少しは慣れるニャー」
外で待っていたルフが、終業時間になるのを見計らって覗きに来たのだ。
勇者トラの同僚に、箒で追い払われた。
「……トラ、外で待っているニャ」
「はい」
「ああ……それからトラ、酒の飲み過ぎで潰れた二人、お前の知り合いなんだろう。連れて帰ってやれよ」
「はい」
閉店時間まで待てず、デボネーとミランダは酔いつぶれていた。
※
勇者トラは、知識と経験が足りないだけで、記憶力も思考力も決して劣ってはいない。
デボネーとミランダに『待っている』と告げられ、美味しい賄い料理を毎日振舞ってくれた料理長に、『連れ帰ってやれ』と言われ、しっかりと送り届けた。
深夜である。ネコのように軽やかに歩き、デボネーとミランダの二人を担いでいるとは思えない身のこなしに、誰にも気づかれず、王城に侵入した。
ケットシーのルフは、嫌がったが付いてきた。
勇者トラは、デボネーと会った部屋に連れて行った。
勇者トラが二人と会ったのは、勇者トラの自室として与えられた部屋以外には、治療のためにデボネーが寝かされていた部屋だけである。
勇者トラは王城の診療所に侵入し、空いているベッド二つにデボネーとミランダを寝かせた。
「もういいニャ。見つかる前に逃げるニャ」
「この二人、ぼくを待っていた……」
勇者トラは、デボネーとミランダを指差した。
「そうなのニャ? でも……待っている間に寝ちゃ駄目ニャ。この二人、信用できるのかニャ?」
「はい」
ルフは、勇者トラの瞳をじっと見た。勇者トラは視線を避けた。勇者トラは、前世ではネコだった。視線を避けるのは、争いたくないからだ。
「……トラは誰でもすぐに信用するニャ。でも……仕方ないニャ。この場所はまずいニャ。勇者トラが見つかったら、今度こそ、自由に昼寝もさせもらえないニャ」
「それは嫌だ」
満足に昼寝のできない生活を想像し、勇者トラがぶるぶると震えた。
「この二人には、手紙を書くニャ。会う場所と時間を指定するニャ」
「はい」
ルフが診療所のテーブルにあったペンを渡す。勇者トラは受け取り、デボネーとミランダの顔に文字を書いた。
勇者トラは、すでに文字を書くという行為を習得していた。
「……トラ、『明日、外で』では、どこに行けばいいのかわからないニャ」
「はい」
勇者トラは、デボネーとミランダの顔に書いた文字にバツ印をつけた。
「……お店の前、朝……」
「多分、朝には行けないニャ」
酔いつぶれた二人が、どこかも指定されていない店に朝から行くのは無理だと、ルフは主張した。
「どこがいいの?」
「ふむ……わかりやすくて、トラが捕まらない場所なら 冒険者組合か、トラの働いていたレストランがいいニャ。レストランだと私が入れないから、組合がいいニャ。すぐには来られないだろうから……3日後の昼とかにするニャ」
「はい」
勇者トラは、ルフが言ったことをそのままデボネーとミランダの顔に書いた。かなりの長文を顔に書いたことになり、二人の顔が文字で埋まった。
「……ところで、どうして顔に書くニャ?」
「忘れない」
「ま、まあ、本人が読めなくても、互いに顔を見れば気づくニャ」
「これでいい」
文字で埋め尽くされた二人を見下ろし、勇者トラは満足げに頷いた。
「よし、逃げるニャ……トラ、恥ずかしいニャー」
勇者トラは、口にルフの首裏の皮をくわえて、王城の診療所を脱出した。




