17 冒険者となった勇者トラ、レストランで下働きをする
勇者トラは、冒険者組合の受付で登録用紙を見つめていた。
「あの……名前を書いてください」
じっと用紙を見つめていた勇者トラに、受付の女が話しかける。
勇者トラは顔をあげるが、受付の女とは視線を外す。
決して相手の目を見ないのは、前世からの習慣である。
「名前は……トラ」
「はい。ですからそれを、ここな書いてください」
「あっ……トラ、字は読めるニャ?」
横からケットシーのルフが用紙を抑えた。
「はい」
勇者トラは、ルフが抑えた場所の文字を読み上げた。
「ああ……よかったニャ。じゃあ、書くのは大丈夫かの二ゃ?」
「書く?」
勇者トラは首を傾げた。
勇者トラは、女神に与えられた加護の恩恵で、文字を読むことはできる。問題は、文字を書くという行為をこれまで一度もしたことがないことだ。どうすればいいのかわからなかった。
「私が、トラの名前を描くニャ。トラは、私が書いたのと、おなじ模様をここに真似るニャ」
「はい」
あいかわらず返事はいい。ルフが書いた模様を、勇者トラは『トラ』と読んだ。
全く同じように、だが多分に歪に、勇者トラは自分の名前を書いた。
「文字は読めるのですよね?」
受付の女は尋ねた。
「ナスターシャ」
勇者トラは、受付の女の胸に飾られた名札の文字を読み上げて見せた。ただし、その言葉が女の名前だとは理解していない。
「はい。その通りです。なら、書くこともできるでしょう」
「トラは、まだ書くことに慣れていないニャ。私が代わりに書いちゃだめかニャ?」
ルフが受付に背伸びして、顔を出した。
「魔物が?」
「……ひどい言われ方だニャ」
「魔物に申請用紙を書かせる冒険者なんて聞いたこともありません。ですが、禁じられているわけではないので……向こうで書いてきてください。誰が書いたかまで、詮索する理由はありませんから」
ナスターシャはうんざりとした様子で言いながら、申請用紙をトラに差し出した。ケットシーのルフを相手に話をする気はないらしい。
勇者トラが申請用紙を受け取り、テーブルに移動する。
ルフがテーブルを覗こうとしてばたばたと手足を動かしていたので、勇者トラはルフの首の後ろの皮をつまんで持ち上げた。
「そうやって持たれると、動けないニャ。でも、口にくわえなくなっただけ進歩だニャ」
持ち上げられ、ルフが申請用紙を覗き込む。
「年齢に出身地に……種族を書くところもあるニャ。私が書くから、なぞるニャ」
「はい」
勇者トラは、冒険者になるための申請書を書き上げた。
勇者トラは、文字を書くことを覚えた。
※
申請用紙を持って、受付のナスターシャに渡す。
「冒険者になるのに制限はありませんが、新規登録の方は最低の1ランクとなります。最低ランクの仕事しか受けられませんが、実績を積むことでランクアップすることができます。それ以外にも、実技試験を受けることでランクアップすることができますし、上位ランクの冒険者パーティーに加入すれば、冒険者パーティーのランクに見合った仕事を請け負うことができます。ランクアップ試験か冒険者パーティーの募集もこちらでできますが、どうしますか?」
決まり文句なのだろう。ナスターシャは淀みなく話した。
「最低ランクの仕事って?」
「採取であれば、薬草などです。討伐依頼は受けられません。街中では、荷物運びやお使い、お皿洗いの仕事などです。報酬は……普通に働いてお給料をもらう場合の半額になります。半額は、冒険者組合への謝礼になりますので」
「トラ、下手にランクアップとかしないほうがいいニャ。また、面倒な冒険者に絡まれるニャ」
「はい」
勇者トラは、ルフの忠告を受け、地道に最低の1ランクから始めることにした。
※
冒険者として登録した勇者トラは、さっそく仕事を受けることにした。
勇者トラは無一文だったため、ケットシーのルフがなんとか日銭を稼ごうと主張したためである。
最低である1ランクの仕事として、もっとも知られているのが薬草の採取だったが、街の外に出なければならず、また兵士に止められることを心配して、トラは街中でできる仕事を求めた。
もちろん、心配したのは勇者トラではなく、勇者トラの足元に張り付いているルフである。
「一番稼ぎがいいのがこれかしら。成功報酬じゃなくて時給だから、続ければそれなりの稼ぎにはなるわよ」
「はい」
冒険者の受付ナスターシャの紹介に、勇者トラは意図せずいつも通りの返事をし、ルフは足元で頭を抱えていた。決して、快い返事をするような仕事ではなかったのだ。
「じゃ、決まりね。レストラン『妖精の休日亭』従業員が一人辞めてしまって、新しく雇うまで雑用でもなんでもやってくれればいいらしいわ。気に入られれば、そのまま就職できるかもね。冒険者組合にまで依頼するってことは、かなり困っているのでしょうね。賄い付きで時給銅貨5枚だけど、半分は組合でもらうから、時給銅貨2枚半ね」
「『妖精の休日亭』なら、知っている」
「そう。けっこう有名なお店だから、知っていても当然ね。知り合いでもいるの?」
ナスターシャは意外そうに尋ねた。勇者トラのことを貧乏だと思っているのだ。高級料理店を知っているとは思わなかったのだろう。
「残飯が美味しい」
「あっ……そう。なら、これからしばらくは、残飯じゃなくて堂々と賄い料理をご馳走してくれるわよ」
「はい」
「トラ、よく考えるニャ。一時間雑用して、パン一つ買ったら終わりって、効率悪すぎだニャ」
「ご飯が美味しい」
「うっ……それは……」
ルフの口から、よだれが垂れそうになっていた。慌てて口元を拭く。
「もう、依頼を受理しちゃったわよ。撤回することもできるれけど……ペナルティで罰金がかかるわ。払えるの?」
「無理だニャ。罰金を払うような金があれば、冒険者になんかならないニャー。冒険者組合なんて……本当、ろくなもんじゃないニャ」
愚痴をこぼすルフを持ち上げ、勇者トラは足取りも軽く『妖精の休日亭』という名のレストランに向かった。
※
『妖精の休日亭』の料理長は大男で、経営しているのはしかめ面をした老人だった。
勇者トラが冒険者組合から渡された依頼票を渡すと、さっそく厨房に連れていかれた。
ケットシーのルフは裏口からも入れてもらえなかった。
このブリージア聖王国では、人間以外の種族は奴隷であり、魔物は害獣あつかいである。
ケットシーのルフは裏口のゴミ捨て場で待っていることになり、勇者トラは一人で雑用に挑むことになった。
勇者トラは必要なこと以外話をするという習慣がないため、任されるのは皿洗いだった。
当初こそ慣れない仕事に戸惑ったが、すぐに勇者トラは皿を綺麗に洗えるようになった。
バランス感覚、動体視力については、与えられた加護がなくとも、人間よりはるかに高性能であり、人間並みの知恵が加われば、仕事の覚えは素晴らしくよかったのだ。
しかも、勇者として女神から加護が与えられ、疲れることもほとんどなく、店の繁忙時間帯を越えた深夜まで働いた。
労働時間は初日で10時間に及び、稼ぎは銅貨25枚になった。
勇者トラが店から出ると、待っていたルフが走ってきた。
「遅かったニャ。途中でご飯を差し入れてくれて助かったニャ」
ずっとゴミ捨て場にいたルフの為に、ゴミ出しのタイミングで、賄い料理の食べ残しを、勇者トラはルフに与えていた。
「なんか貰った」
勇者トラは、日当として渡された25枚の銅貨をルフに見せた。
「これはお金だニャ。欲しいものが買えるニャ。でも、この額じゃ宿屋にも泊まれないニャ」
ルフが肩を落とした。勇者トラには、その意味がわからなかった。
片付けを終えて出てきた料理人の一人が、勇者トラの広げられた手を覗き込んだ。
「悪い奴に騙されるまえに、しまっておけよ」
「はい」
「冒険者なら、駆け出しの冒険者用の宿泊場所があるはずだ。組合に聞いてみな。今までは、どうしていたんだ?」
「そこで寝てた」
勇者トラは、ルフが一日いたゴミ捨て場を指差した。
「悲惨な生活だな。でも、今日はダメだ。トラは、明日も働くんだろう? ゴミ捨て場に一日寝ていたやつを、厨房の中には入れられない」
「はい」
勇者トラは頷くと、手にしていた銅貨をネズミの死骸をしまっているのと同じ場所に入れた。親切な従業員は、レストランの中に戻っていった。
一日レストランで働く間に、ネズミの死骸のストックがかなり増えたことは秘密である。
『おう。トラはどうした? 素人にしちゃ弱音も履かずに頑張ったから、泊まるところを世話してやろうと思ったんだが』
レストランの扉の向こうで声がした。
『それなら大丈夫ですよ。冒険者組合で紹介してもらうよう言っておきました。何にも知らないみたいですね。今まで、どうやって生きてきたんだか』
『そう言うな。あいつの覚えの良さは普通じゃない。まあ……しばらくは皿洗いだがな』
『料理長、あいつは従業員じゃありませんよ』
『おっと……そうだったな。忘れるところだったぜ』
勇者トラは、建物の中でかわされている会話を聞いていた。会話の内容より、自分の耳の動きが悪いことに違和感を覚えて耳たぶをこすりながら、ルフを抱えて冒険者組合に向かった。




