12 勇者トラ、晩餐会のマナー違反で牢獄に連れられる
勇者トラの前に、真っ先に料理が置かれた。勇者トラを主賓としたみなした証だとは、本人は自覚していない。
浅い皿に盛られた、冷たいスープだった。
透き通るような上品な黄色いスープで、食材の旨味が凝縮されている。
残念ながら、勇者トラに、宮廷料理のマナーについての知識はなかった。
宮廷料理というものがあるということすら、王宮の晩餐会なのだから、宮廷料理だろうなどという常識さえ、なかった。
勇者トラに真っ先に料理が出されたのは、勇者トラのための晩餐会なので当然かもしれない。
だが、給仕した人間は知らなかった。
勇者トラは、テーブルについた全ての出席者に料理が行き届くまで、待つなどという観念はなかった。
勇者トラの前に、冷製スープが置かれた。その途端、トラは頭を下げ、薄い皿を舌で舐めた。
「ト、トラ殿!」
バラン王が勇者トラの肩に手をかける。
「トラ様、お行儀が悪いわ」
「行儀の問題ではない。カーチェス、トラ殿を止めよ」
「はい。でも……」
勇者トラは頭をあげた。スープが盛られたトラの皿は、まるで舐めたように綺麗になっていた。当然である。舐めたのだから。
美味しかった。トラは、綺麗になった白い皿をじっと見た。
「まるでネコだな」
国王バランがため息をついた。トラは、左右を見回した。
『まるでネコだ』と言われたとき、条件反射のように否定する誰かが、いないことに気づいた。
どこに行ったのだろう。不思議ではあった。だが今は、美味しいものを食べたばかりなので、じっとしていることにした。
バラン王とカーチェス姫にスープが置かれる。
勇者トラは、空になった自分の皿を悲しい気持ちで見つめた。
「あの、トラ様……もしよろしければ……」
カーチェス姫が、自分の皿をそっと勇者トラに押した。
「カーチェス、そういうことは、トラ様の教育によくありませんよ」
カーチェス姫の隣で、ガーネット王妃が止める。
「でも……いいでしょ? お父様」
カーチェス姫が国王バランを見つめる。
「ああ……仕方ないな。それほど気に入ったのなら、トラ殿に召し上がっていただいた方が、料理した人間も嬉しいだろう。だが、条件がある。料理を食べるのにも、マナーというものがある。マナーを教えてあげなさい」
「はい。お父様」
カーチェス姫は、自分のスープの入った皿を勇者トラに押しながら、勇者トラの左右に並んだ大量のフォークとナイフを、勇者トラに示した。
「トラ様、先程のスープはお気に召しました」
「はい」
「まあ、良いお返事ですわ。私の分も差し上げます」
「いいの?」
カーチェス姫が体を寄せてくる。そこに、下心を疑うような勇者トラではない。
「ただし、今度はこのスプーンを使いましょうね」
カーチェス姫は勇者トラの皿と自分の皿を取り替える。その代わりと言いながら、皿の前に置かれていたスプーンを勇者トラの手に握らせた。
「はい」
勇者トラがスプーンをぎゅっと握る。
「では、使って見ましょうか。使い方はわかりますね?」
「はい」
勇者トラは、しっかりと返事をした。だが、実際にはわかっていなかった。
スプーンを右手に握りしめ、両手をテーブルの上に乗せたまま、頭を下げた。
スープを再び、舌で舐めた。
「……それは、スプーンを使ったとは言えまい」
「でも、手に持っているだけ、進歩ではありませんか?」
今度は、ガーネット王妃が宥めた。
もはや、止めるものはない。勇者トラが食べきるまで待つしかないのだ。
勇者トラが頭をあげた。カーチェス姫のスープが乗っていた皿は、とても綺麗になっていた。
勇者トラは、カーチェス姫の手を握った。
「ま、まあ、トラ様……お父様もお母様も見ているというのに……大胆すぎますわ」
「お礼」
「お礼というのなら、お断りはいたしませんわ」
カーチェス姫ははにかんで笑った。勇者トラが『お礼』として何かをくれたと思ったのではないだろう。ただ、感謝の気持ちを握手で現わしたのだと、勘違いしたのだ。
だが、勇者トラは義理堅いのだ。食事の恩を食事で返すぐらいの甲斐性はあるのだ。
勇者トラは、しまっていたものを取り出していた。しまっていたのは、どこかの空間である。女神アルトは、選ぶ時間がなかったため、異世界に転移した人間が好むと言われるスキルをセットとしてまるごと与えた。そのうちの一つである。
この世界に転移した当初、物を収納できる空間は空だった。
だが、トラは集めていた。食べきれない食料を収納していた。
その中から、とっておきの食事を、カーチェス姫に握らせた。
カーチェス姫の手に、勇者トラの手を介して、むにゅっとした感触が乗った。
さすがにおかしいと思っただろう。カーチェス姫が、勇者トラが握った手をゆっくりと開く。
そこには、血まみれのネズミの死骸が乗っていた。
「キャアァァァァァァッッッ!」
カーチェス姫の絶叫とともに、晩餐会は御開きとなった。
※
勇者トラは、地下牢に幽閉されることになった。
地下牢へは、近衛隊士ミランダが案内するよう命じられた。
連行ではなく案内することになったのは、勇者トラを力づくで捉えることはできないだろうと、誰もが判断したからである。
勇者トラの罪状は、王族に対する不敬罪だ。お咎めなしのこともあれば、直ちに死罪となることもあり、その罪の多寡は、被害者と認定された王族の一存であるという恐ろしいものだ。
この場合はカーチェスだった。カーチェス姫はトラの死罪を望んだが、勇者トラに死なれては困ると判断するだけの理性を残していた父王バランのとりなしで、地下牢への監禁が決まった。
晩餐会の最中、まだ美味しいものが出るのではないかと期待してテーブルについていた勇者トラに、近衛隊士ミランダが丁重に移動を促し、勇者トラが応じたのだ。
勇者トラは、動きやすく温かい服をくれたミランダを気に入っていた。
気に入って、ミランダの手にネズミの死骸を握らせた。
その様に、ネズミの死骸を渡すのは勇者トラにとっての愛情表現なのだとは、後にガーネット王妃がカーチェス姫をなだめるために語ったことである。
だが、この時のミランダは、ネズミの死骸を忌々しく投げ捨てた。
せっかくの死骸を投げ捨てられた勇者トラは、床に落ちる前に拾って口に入れた。
ミランダは、口の端からネズミの尻尾を垂らしている勇者トラに、あくまでも態度だけは丁重に、晩餐会の会場から連れ出した。
※
扉の外では、侍女メイが心配そうに待っていた。
「トラちゃん、どうしたの? 出てくるの、早くない?」
「メイ、晩餐会は終わった。勇者トラ……まさか、これほどとは……」
「えっ? トラちゃん、また活躍したの? 魔物でも出たの?」
ミランダの言葉から、侍女メイは晩餐会の会場で、勇者トラが戦いを繰り広げたと判断したようだ。
ミランダは首を振る。
「カーチェス姫に、ネズミの死骸を握らせたんだ」
「えっ? どうして? なんのために、そんなことをしたの?」
「私が聴きたい。どうして、あんな真似をしたんだ」
言いながら、ミランダは勇者トラの背中を押した。
勇者トラは逆らうことなく押されるままに歩きだし、尋ねたミランダを振り返る。
「お礼」
「はっ? では……さっき私にも握らせたのは……」
「温かい」
勇者トラは、ミランダから借りた近衛隊の制服をぽむぽむと叩いた。
「トラちゃん……お礼に物をあげちゃだめだよ」
「そうなの?」
「はっ……はははははっ! お礼、あれが? さすがはトラ殿だ」
「ミランダさん、トラちゃん、これからどうなるの?」
すでに地下牢の入り口に来ていた。周囲は暗く、階段を下りるために、ミランダは壁の松明をもぎ取った。
「どうにもならないさ。せっかく正式な勇者として認められ、公爵と同等の立場を与えられたが、その地位も没収されるかもしれない。しかし、そんなこと、トラ殿が気にするはずもない。命を狙われはしないさ。女神に頼って勇者を召喚したのは、それだけの危機が目前にあるからだしね。トラ殿は心配ない。問題はメイだ」
「……うん」
わかっていたのだろう。侍女メイは大きく息を吐いた。もともと、カーチェス姫を怒らせることを避けるために、急いで勇者トラを晩餐会に送り込んだのだ。
カーチェス姫が怒ることで、勇者トラの世話を焼くことになった侍女メイを追い出そうとする。それは予測できたことだ。
「しかし、むしろよかったかもしれない」
「どうして?」
「侍女メイは、もともと、何も悪いことをしていないんだ。カーチェス姫のトラ殿に対する熱が冷めれば、トラ殿が誰と仲良くしても気にならなくなるだろう。幼い頃から結婚相手にしたいと思って憧れていた勇者に……ネズミの死骸を握らされたのだ。ショックは大きいだろう」
言いながら、ミランダは再び笑い出していた。
勇者トラがお礼のためにネズミの死骸を握らせたのが、よほど愉快だったようだ。
「さて……幸い、我が国はそれほど治安が悪くない。独房はたくさん空いている。この辺りでいいだろう」
「誰だニャ?」
暗がりの中で、独房に入れられた囚人から、問いかける声が上がった。




