1 飼い主から逸れて不慮の死を遂げた茶トラのネコ、異世界に勇者として送られる
昔、とても可愛がっていた猫と、後悔が残る別れ方をしました。
それからずっと、彼を主人公にした物語を書きたいと思ってきましたが、構想がまとまりませんでした。
ある時、突然書きたくなったのがこの物語です。
追悼を兼ねて、勇者トラを活躍させます。
女神アルトは、託宣の間に入る手前の空間で、天使ルフェルの出迎えうを受けた。
託宣の間とは、女神アルトが管理する場所の一つで、人間たちにお告げを授け、神の力を示すための部屋である。
「お急ぎください。人間たちがすでに召喚の儀式を始めております。人間たちの儀式に合わせて勇者を送り込まなくては、女神様の沽券に関わります」
ルフェルは天使を代表する高位の存在で、美しく長い髪をした女性の姿をしている。
見た目の姿は便宜的なもので、本来は決まった姿は持っていない。
「時間を提示する権限があればよかったのにね」
「女神アルトの権限では無理ですね」
天使ルフェルは優秀だが、女神に対する遠慮や容赦はない。
「わかっているわよ。今度の勇者候補はまともな奴なのでしょうね? もう嫌よ。私を見るなり口説きだすとか、ハーレムを作らせろとか、不相応なスキルを望む奴とか」
「生前の経歴があります。事前にご覧になりますか?」
「いいの?」
託宣の間の前で、女神アルトは異世界から呼び寄せた魂の経歴書を受け取った。最高位の天使ルフェルには、これまでもできたことだ。だが、今までに一度もそのような配慮はなかった。
折角女神の加護を与えて送り込んだ勇者が、これまではことごとくクズだったとアルト自身も認識しており、もう勇者を送るのは辞めようと思ったこともあった。そのための配慮だろうか。
「どの道、別の魂を探す時間はありません。女神アルトが管理する世界の魔王は極めて強力で、女神ご自身に匹敵するほどの力を持っています。魔王を倒せる可能性を持つ魂は、500億に一つの可能性しかありません」
「それはわかっているわ。勇者がこれまで魔王討伐に失敗してきたことも、勇者がポンコツなだけじゃないわよね。魔王が強すぎるのよ。私のせいじゃないわ。でも、これ以上魔王を好きにさせておくと、人間が本当に滅びるわ。そうなったら……魔王が神の権限を持つわね」
それは、現在の魔王が女神と同等の存在となるということだ。魔王のことが嫌いだった女神にとって、我慢がならないことだ。
女神は悪寒を感じてたのか肌をさすりながら、渡された履歴書に目を通した。これから、次の勇者として送り込む魂の履歴書だ。
「……く、苦労しているのね。主人を追いかけて、事故にあって死んだ。死ぬまでに悪事を働いたことはないし、悪事に手を出そうと考えたことすらない。本当……申し分ないわ」
女神アルトは、経歴書に感動して涙した。
人生をやり直す機会を与えてやりたい。切実にそう思った。
だが、勇者として召喚される以上、女神アルトの世界に出現した最強の魔王と対峙してもらわなければならない。
自分の権能が及ぶ限りの力添えをしようと思いながら、経歴書を天使ルフェルに返した。
「では、女神アルト、涙をお拭きください。威厳を……ある振りぐらいはしてください」
「一言多いのよ。天使ルフェル」
女神アルトは手鏡で目元を整え、託宣の間に踏み込んだ。
※
女神アルトの前にいた姿は、女神が想像していたよりも小さかった。
期待していたよりも貧弱で、恐れたよりも愛らしかった。
「ニャーン」
茶色いトラ柄が美しいそのネコは、青い瞳をしていた。
「あら……可愛いネコちゃん。今度の勇者は、ペット持ち?」
「そんなはずないでしょう」
遅れて入ってきた天使ルフェルが女神の尻を蹴飛ばした。
女神アルトは、茶色いトラネコをひとなでして、姿勢を正した。
振り返る。天使ルフェルと視線が交差する。
「どういうこと? あの世界、人間がいっぱいいるのでしょう?」
「100億しかいません。それに、あの世界から大量に召喚され続けたため、最近では監視が厳しいんです」
「だからって……ネコ? 魔王を倒すのよ」
「わかっています。でも女神アルトでしたら、なんとかなるでしょう」
「でも、でも……」
「非の打ちどころのない経歴だったですよね?」
「それは……まあ……」
「悪事なんてしたことのない」
「だって……ネコだもの」
「悪事に手を出そうなんて考えたこともない」
「ネコよ」
「女神アルトを崇拝する人間たちの召喚の儀式が終わりますよ」
女神アルトは、ほかに選択肢がないことを認めざるを得なかった。
再びトラネコに向き合う。
ネコは顔を洗っていた。長い髭が雄々しく伸びている。
いけるかもしれない。女神アルトはそう思った。もちろん、根拠はない。
「勇者よ。多くの民が、あなたの力を必要としています」
ネコはゴロゴロと喉を慣らした。
「世界を覆う魔王の力は日々増しています。もはや、同じ世界の者では、魔王を妥当することは敵わない運命となりました」
ネコは脚で耳の後ろを掻き出した。
「魔王を打倒し、世界を救えるのは、異世界の者でもごく限られた者だけなのです」
ネコは、長い尾をくるりと足元に巻きつけた。
「あなたの名は……」
「トラです」
背後で、天使ルフェルが囁く。
「勇者トラよ。力を貸してくれますね?」
ネコはニャーと鳴いた。女神アルトはそれを承諾だと受け取った。
「あなたに、私の力の及ぶ限りの恩恵を与えましょう。まず、異世界の言語を扱える力を」
「女神アルト、順番が違います」
「えっ? だって、時間ないんでしょ。役に立つのからあげないと」
「ネコなんですよ。そもそも、言葉なんてありません。異世界の言語がどうとか、関係ないじゃないですか」
「そ、それもそうね。えっと……剣と魔法……」
「ネコのままでどうするんですか。まず、体をなんとかしないと」
「ああ……では、人化を」
女神アルトが言うと、トラネコの姿がむくむくと大きくなり、体の形が変わり、体毛がなくなり、10代の少年のような姿に変化した。
ただ、座り方は変わっていない。
「人化を解いてはいけませんよ。ネコだとバレると、人間たちに、私の信用が……」
「女神アルト、自分の心配をしている場合ですか。そもそも、知恵がネコ並みのままでどうするんですか」
「あっ……そうね。では、人化を解けなくするのは……私の権能では難しいわね。では、人化が解けない呪いを……」
「呪ってどうするんです」
天使ルフェルは頭を抱えたが、女神アルトの呪いは発動した。
ネコのトラに、人間の姿と知恵が与えられた。
「さあ……ママと言ってみて」
知恵が与えられても、言葉が話せなくては、知恵があるとは認められないこともある。
異世界言語のスキルをなぜか最初に与えられていたトラは、ちゃんと女神の言うことを理解したのだろう。発言しようと口を開いた。
「どうして、女神アルトを母親認定させようとしているんですか」
「天使ルフェルは知らないの? 人間の言語器官では、最も発音しやすい音なのよ」
「そ、そうなんですか……へぇ」
「マ、ママ……」
トラの喉から、鳴き声ではない言語が漏れ出た。女神アルトが両手を打ち合わせた。
「素晴らしいわ。これなら、魔法もスキルも使いこなせるわね」
「もう……威厳のある話し方をするの、諦めたんですね」
「ネコに威厳を見せて、どうするの?」
天使のつっこみに、女神が開き直った。
「そのネコを、勇者として送り込もうとしているのは誰ですか」
「誰がそうさせたのよ」
女神と天使の視線が火花を散らした。
「あっ……人間の召喚の儀式が終わりましたよ。早く転移させないと、召喚された勇者だと信じさせることができなくなりますよ」
天使が話題を現実に戻した。
「あらっ……でも、まだ恩恵を与え終わっていないわ。今の状況で魔王討伐に送り出すのは、死にに行かせるようなものよ」
「今までにも、たくさん送り出しているじゃないですか」
「もう失敗はしないわ。こんなこともあろうかと、異世界転生する勇者が持っていると便利なスキルを、パッケージにしておいたのよ。女神の恩恵セットをまるごと付与します」
「ニャー」
トラがお礼を言った瞬間、女神が硬直した。
「勇者トラ、鳴いては駄目よ。冗談でも、ネコの鳴き声は一切しないこと。わかったわね? 返事は『はい』よ。言ってごらんなさい」
「……はい」
トラは神妙な顔で答えた。
「いい返事よ。さすがね。私が恩恵を与えただけあるわ。それと、間違っても、語尾にニャとかつけちゃ駄目。いいわね?」
「はい」
「女神アルト、時間がありません。召喚の儀式が失敗したのではないかと、人間たちが騒ぎ始めました」
「ええ。もういいわ。では勇者トラ、女神アルトの命令です。魔王を倒し、世界を救うのです」
「ニャ……はい」
トラの姿が光に包まれ、空間に吸い込まれるように消えた。
「……ふう」
「お疲れ様です」
「あっ……彼に服を着せるのを忘れたわ」
女神が額を抑えた。トラはネコだったのだ。そのまま人間になったのだ。つまり、全裸のままなのだ。
「ま、まあ、まだ若い人間の姿ですし……問題はないでしょう」
「人間で裸でいるのは、生まれたてだけよ。若くて可愛らしいから、余計に問題なのだと思うけど……まあ、行ってしまったものは仕方ないわ。でも……やっぱり心配ね。人間を救う勇者って……ネコなのに……」
「今更ですか? 仕方ないですよ」
「もう一つ、おまけをしますか」
女神アルトは伸びをしながら言った。
「いいですね。でも、恩恵セットを一式付与したのでしょう。あれ以上の力なんて、あり得るのですか?」
「どんな便利で強力な力を持っていても、使い方がわからなければ意味がないわ」
「でしょうね」
女神の意見に、天使が頷く。
「能力を適切に使えるよう、導く存在が必要だと思わない?」
「それが、おまけですか。でも、どうするんです? 女神の声が聞こえるのは、神官の一部だけですよ」
「直接行けばいいのよ」
「女神が?」
「そんなわけないでしょ。私はここから動けないもの」
「じゃあ……」
天使ルフェルは硬直した。女神アルトの指先が、自分に向かっていると知って。
「下界に降りるのは初めてじゃないでしょ」
「まあ、それはそうですけど……」
「あの子が信頼するよう、姿も変えて上げるわ。簡単には戻らないと思って。これも、呪いの一種だから」
「はいはい……って、ケットシーですか?」
天使ルフェルは、人間のように直立するネコの姿になっていた。まっすぐ立っていることを除けば、ネコそのものである。先に送り出した勇者とは違い、服を着て、足には長靴を履いていた。
「天使のままじゃまずいでしょう。魔王の手先がいるかもしれないのに」
女神アルトが管理する世界には、ネコの獣人もいる。だが、獣人はネコの特徴を持った人であるのに対し、ケットシーは直立歩行し文明を理解するネコだ。場所によっては、魔物として扱われる存在だ。
「だからって、この姿はまずいです」
「もう変えちゃったし、戻せないわ。あの子のこと、宜しくね」
女神は、天使が堕天する手続きに入っていた。天使が叫ぶ。
「女神アルト、あなたは、自分のことを最も信仰している国のこと、知らないのですか?」
「やあね。なんのことを言っているの?」
「トラを召喚した国は、人間以外の亜人を奴隷としてしか認めない国なのですよ!」
「そうだったかしら。でも、そんなことぐらいで……あっ……」
「ケットシーの姿で行ったら、魔物として討伐されるに決まっています。勇者に近づけるわけないじゃないですか!」
「それは、天使の権能でなんとかしなさいよ。姿は戻らないけどね」
「この、天然女神!」
「当然じゃない。私は、生まれた時から女神だもの」
天使の罵倒を軽くいなし、女神は手続きを終える。
天使ルフェルの姿が消える。
「さて……これでしばらくは下界を覗くこともできないし……寝ましょ」
女神は、大きなあくびをした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
異世界で人外に転生は、もう珍しくありません。でも、人外だったものが異世界に、はあまり見かけません。
異世界へ転生した猫の活躍を見たい。
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