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路上の情け

作者: 冴木凜子

 貞夫は絶望と孤独の中、寒い冬空の街をさまよい歩いていた。

 金が底を付き、3週間、寝泊まりしていたカプセルホテルから今朝、追い出されたのだ。

 もう3日、何も口にしていない。

 今晩は、どこで眠ろうか……

 道行く人は杖をつき、片足を引き摺るこの男に、目もくれない。

 風が吹き荒び、貞夫の足下を枯葉が滑っていく。

 今夜はとくに、冷え込みそうだ。

 貞夫は、薄いジャンパーの胸元を握り締めた。


 若い頃、貞夫は血の気の多い仲間とつるんで、喧嘩に明け暮れていた。シンナーに溺れて、少年院でなく精神病院に世話になった。ろくに学校を出ていない。吃りが残り、歯を失った。

 このまま、死んぢまってもいい。

 あんな家に帰るくらいなら、野垂れ死んだ方がましだ。

 貞夫は拗けてそう思う。しかし、それにも蹲る場所が必要だ。

 余力を振り絞って、貞夫は浮浪者が集う地に向かうことにした。

 ジャンパーのポケットからなけなしの小銭を掴み出し、駅で切符を買った。よたよたと、貞夫は改札を抜ける。その鈍臭さに、後ろに付く乗客に舌打ちされた。ホームまで手摺りに縋り付くようにして階段を上る。

 電車は幸い空いていた。

 貞夫は先頭で乗り込み、座席に尻を落として、ぐったりと体の力を抜いた。離れて行く乗客はいない。まだそう臭わないのだろう。

 やっぱり、あったっけぇな。

 このまま天国まで乗っててぇや。

 貞夫は自嘲して笑って、目を閉じる。

 上野~ 上野~

 アナウンスにはっとして、貞夫は目を開けた。どうやら、意識がなかったようだ。無意識に、削げた頬に伸びた無精髭を擦っていた。

 見回すと、混んでいる。終電が近いのか。そうだとしたら環状線だ、2、3周したんだろうか。

 このまま乗っていたいが、動けるうちにねぐらを探さねばならない。

 貞夫が握り棒に掴まって立つと、さっと乗客が退いた。善意でない。このみすぼらしい男に袖も触れたくないのだろう。

 貞夫は手刀を切りながら、ドアに向かい、転ばぬように慎重にホームに降りた。乗客達に、訝しげな、不快を帯びた視線を浴びせられる。それにも、慣れていかねばならないだろう。

 駅舎から出ようとして、凍て付く外気に貞夫の足は竦んだ。細い立木の震えや肩を縮ます通行人を目にして、貞夫は一歩、踏み出るのを躊躇う。

 構内に戻り、駅が閉まるまでしのごうか。

 枯れ木を揺らす辻風を見上げて、貞夫は思案する。

 駅員にあれこれ、問われ、住所など聞かれたら。

 向こうのネオン街に目を遣ると、すいと外される呼び込みの男達の蔑みの視線。タクシーの尾灯が客待ち顔で点滅するが、貞夫には用なしらしい。

 外で寝床を探そう。

 しかし、どの世界も甘くなかった。貞夫が風のない屋根の下に設置された室外機の横にしゃがもうとすると、しゃがれ声でどやされた。


「邪魔だ、どけ!」


 人影が顔の皺を深めて、手の杖を振り上げんばかりに睨み下ろしている。貞夫と同じで歯がない。先輩しか許されない特等席だったようだ。

 貞夫は仕方なく杖を支えになんとか立った。暗がりの坂を上って行った。途中、幸運なことに新聞紙を拾った。貞夫は待ち合わせの目印に使われる像の前で蹲った。身を切る寒さだ。拾った新聞紙に包まる。

 こうなってみて知ったのだが、人は断然、飢えよりも寒さなのだ。


「あんた、何してんの」


 ここもだめか。

 落胆を抱え、貞夫は顰めた目を闇に向けた。

 貞夫は息が止まる程、驚いた。目を擦る。

 幻か、幻覚か。死んだはずのお袋が心配そうに覗き込んでいる。

 いや、3週間前、葬式を済ませて家を飛び出したのだから、間違いない。

 丸まった背中に、馴染みの立ち姿。何枚も重ね着して膨らんだ毛玉だらけのセーターは見慣れた装いだ。


「早く帰らんか。腹が減って、あんたがいないと食べる気がしないんよ」

「おふくろ」

「あんまり遅いから迎えに来たんよ。はやく帰ろ。風呂に入れておくれよ」

「それで来たのかよ。風邪引いたらどうすんだ、そんな格好で」

「それは、こっちの台詞よ」

「俺はいいんだ。あいつらがいると思うと帰りたくないんだ」

「なんよ、あんたは昔から強情で。あの子らは悪気ないんよ、あんたが働かんから、あの家を売って分けようと言うんじゃないの」

「そしたら俺達の住む家がなくなっちまうだろ」

「いいんよ、母さんは年金暮らしのお荷物なんだから。そうそう、その年金が今月まだ下りてないんよ。あんたに明日、役所で聞いて来てもらおうと思ってたんよ」

「わかった。わかったから電車あるうち、はやく帰れ」

 貞夫は邪険に追い払った。

 いつになく従順に老いた母親は背中を向けた。

「待ってっからね」

 そう言い残し、頷きながら歩く、あの歩き方で去って行く。

 その背を見送りながら、貞夫は悪態を吐く。

 帰るもんか。

 あいつらは呆けたお袋の面倒を嫌がって押し付けたくせして、死んだと同時に群がりやがった、はいえなだ。親の年金を食い潰した職なしの金なしなんて俺を嘲りやがって。ペンキを塗っていて足場から落ち片足をいかれてから十年近く、俺が看たんだ。呼ぶ声に、その都度、便所に連れて行き、3食飯を買い与え、寝床で苦労して毎晩服を着替えさせ、嫌がる風呂にも3日に1度入れてやり……。

 そう思った所で、貞夫は胸がちくりと痛んだ。

 一人身の男の介護は、雑で乱暴だった。怒鳴って泣かせた事もたくさん。虐めでないだろうかと悩んだ。買った弁当しか与えられず、便所に付き添ってやらねばならないのに苛立って、オムツを履かせた事もある。掃除も着る服も、満足に世話してやれたとは言い難い。

 しかし、他の4人の兄弟では不安がり、自分がいなければ名を呼び続け、飲み食いどころか、眠りもしなかったのは事実。

 やれる限り精一杯、やったのだ。

 貞夫は、自負と自慰の思いで、目を瞑る。

 

 どうやら生きているようだ。視界が薄らと明るい。朦朧とする頭で貞夫は昨夜の出来事を反芻する。

 役所に行ってみるか。

 貞夫は感覚のない青ずんだ悴む足を同じく感覚を失くした手でさすった。鉛のように重たい体を鞭打って、貞夫は水飲み場まで足を引き擦って行った。蛇口に口を付けて水を飲む。激しく咽た。腹が大きく鳴った。

 濡らした手拭いで坊主頭を撫で回す。服の裾に手拭いを突っ込み、体を弄ると、微かに気力が湧くのを感じる。貞夫は飢えからふら付き、派手に転んだ。憐れんでいるかのように、数羽のカラスが地面を跳ねる。

 近くを人の足が行き過ぎる。助けてくれる者はいない。貞夫は手足を使って這い起きた。通りの地図看板を頼りに、遅い足取りで役所に向かった。

 しかし、その考えも甘かった。

 貞夫が訪ねるなり相手は喧嘩腰であったのだ。詐欺師のような扱いで、お袋さんは死んだよ、それにあんたは家があるから保護は下りないよと、門前払い。その上、無遠慮に精神病の通院歴を聞かれたのだから、堪らず貞夫は杖をつき、興奮からよろけたが助けの手を払って、立ち去った。

 貞夫は人のいない歩道橋に上がった。車の行き交いを見下ろして、貞夫は金網に拳を打った。

 昔は悪であったが、盗みはやった事がない。疑いであってもプライドが酷く傷付いた。「金が欲しいのか」に、吃りでうまく弁明が出来なかったのも悔しかった。

 だが、無職で金を稼げなく、物乞いになるしかないお荷物なのは事実。金網をよじ登る足もない。

 貞夫は階段を下りた所で蹲る。涙は飢えているのか、一滴も出なかった。


「何か、飲むか」


 貞夫が見ると、つなぎを来た男が自販機の前で見本の缶を指差して選んでいる。

 自分に言ったんじゃないだろう。

 貞夫が顔を伏せようとすると、

「何日、食べていないんだ?」

 男は確実に貞夫の方を見て言っている。つなぎの汚れ具合から懐かしい、元同業者だろう。だからか、素直に答えている貞夫がいた。

「4日、食べてない」

「そうか、じゃあ、これ」

 貞夫は差し出された手元を見た。皺くちゃな五千円札が握られている。

「すまないな、俺も嫁とがきを田舎に残しているから、これだけで」

 焼けて黒い肌の男は目尻の皺を深めて笑顔を見せた。30手前だろうか。

 呆気に取られて、貞夫が黙っていると、「本当だよ、ほらっ」と言って、男はナイロン製の使い古された財布のマジックテープを開き、札入れを逆さにしてみせた。

「これっきゃないんだ」

 男は情けなさそうに、恥ずかしそうに振ってみせる。

 貞夫はあわや泣きそうになった。咄嗟に俯く。震える手を差し伸ばすと、貞夫の手に、男は札を掴ませる。

 涙が出た。葬式の時でも泣けなかった、涙が。

 男の顔を見られずに、貞夫は涙に、吃りに、詰まりながら礼を言った。

「ど…… ど、どうも、あ、あ、ありがとう」

「いいよ。おっちゃん、しっかり食べなな」

 去って行く男の、擦り切れて色褪せたシューズを貞夫は見送った。

 この金で家に帰ろう。

 貞夫はそう心に決めた。

読んでくださり、ありがとうございました。

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