7話
兄の衰弱が始まったのは突然のことだった。
もう、数年前になるだろう。ナディーネは兄であるセオティスを慕っていた。
剣術も勉学も何でもできて、15歳の頃から政務にも関わってきた。そんな兄を、自慢な兄を、ナディーネは誇らしげに思う。
父である国王陛下も、次期国王セオティス・ノッド・ブルファーナに不満は無かったであろう。そんな兄を、ナディーネは尊敬していた。
決して父である国王が、ナディーネを疎かにしていたわけではない。第二王女にもしっかりと教育を施し、優しく接してきた。将来の国を二人で担うように、と。
ある日のこと、訃報とは突然やって来るものである。
——セオティス様が立ち上がれなくなった。
その報せを持って来たのは、アマーリアだ。幼い頃から世話を続けてくれただけあって、信頼のおける相手だ。だからこそ、彼女の言を疑わなかった。実際、兄に会いに行ってもその通りだった。
そこからだろう。国王陛下が、ナディーネに厳しく接するようになったのは。
まだセオティスは斃れていない。王位を継承するのも、いまだにセオティスのままだ。
余分な心配を掛けないため、民にもこの実情は公表されていない。しかし、城内では次の一手を打っていた。
「ナディーネ。王女として、次期女王として国を担う覚悟を持て」
国王の言葉を以ってして、ナディーネの生活は一変する。元々、宮廷の教師によって様々な教養を持っていた。だが、
「それでは女王として即位された際、国を良くできない」「もっと勉学に励みなさい」「もっと嗜みを身に付けなさい」「セオティス様は、これを8歳の頃には理解された」「セオティス様は、すぐにマスターされた」「セオティス様の方が、魔法技術に関しては優れておられる」
「セオティス様は……」
「セオティス様は……」
「セオティス様は……」
教師はいつも、兄を比較に出す。それは、ナディーネにとっては嬉しいことであった。兄に追いつける。自身が努力をすれば良い。将来、セオティスの負担を減らせるようなれれば、それが一番だ。なのに、
——皆は私が王になるように接する。
王宮内を歩けば、
「セオティス様の方が王に向いているんじゃない?」「こらっ! ナディーネ様に聞こえるでしょう!」「でも確かに、どの学問においてもセオティス様の方が優秀でいらっしゃる」「戦技に関しては言うまでもないしね」
使用人達にも陰口を叩かれる始末。
すでに聞こえている。セオティスと比べても、ナディーネの方が劣っていることは、彼女自身がよく理解していた。ただ、そんなことよりも。
——どうして、皆は私が次王だと思っているの? 私は王にならない。だって、お兄様の方が王に向いている。それに、王位継承権一位はお兄様だ。私は王にならないし、なる気もない。なのにどうして、陛下も他のみんなも……どうして、私を王にしたがる。
厳しい学問と剣術の訓練を初めとした戦闘知識に加え、相談できる相手はアマーリアとセオティスだけ。ナディーネは逐日、精神を苛まれていった。
皆に王族の責務を問われ、王女の在り方を強要される。そんな毎日が続いて行き、一国の王女は家出を決意した。
「もう、帰って来るつもりはなかったんだけどな」
ベッドに寝転がるナディーネは、天蓋を仰ぎながら独りごちた。
月明かりが彼女の部屋を照らす。普段なら寝ている時間なのに寝付けない。
ナディーネは今日の出来事を、何度も何度も振り返っていた。一介の宿屋で働く、顔すら知らなかった従業員に、初めて会った異性に裸を見られたのは羞恥だった。しかし彼は何も訊かず、ナディーネが不利になるようには働かなかった。
(レオポルト様)
身分が上の、且つ年上の者に『様』を付けるのは貴族の間では常識だ。しかし、王族には関係ない。国の中で最も地位が高いのだから、せいぜい敬称は両親や祖父母の親族くらいだろう。だが、ナディーネがレオポルトに付けた『様』は尊重もあれば好意もある、義務ではないもの。
(初めてだな。お兄様以外の殿方に、こんな気持ちになったのは)
彼は宿屋の従業員として当然ことと言っていたが、そんな所業を簡単にはできない。王女だと知っていたのに、ナディーネを客として接し、客としてどこまでも助けようとしてくれた。
(陛下ですら遠い存在に感じるのに、初対面のレオポルト様の方が近くに感じる)
ナディーネはまた、民の一人にすぎない男を思い出す。
⁂
「ここが、ナディーネ様の部屋か?」
「さっきの奴が言うんだから、そうなんじゃない」
レオポルトは扉の前で、その門を開けるか否か悩んでいた。
元々、宿屋として料金を支払ってもらいに来ただけなのだが、内心ではナディーネを助けたいと思っている。ただ、彼女は何も話したがらなかった。そんな状態で訪れて、無力の男が何をしようと言うのだ。
セオティスには、ナディーネに訊くと良いと言われたが……。
「いいや、ここまで来て考えている場合じゃないよな」
よし、と言って気合を入れ、目の前の扉をノック——しようとした時だった。いきなり身体が動かなくなったのは。いや、正確に言えば誰かに押さえつけられているような感覚。
シャルファーはレオポルトが押さえつけられるなり、驚きのあまり羽を羽ばたかせて飛び上がった。
「いてててっ!」
左腕を後ろで拘束され、がんじがらめにされて動けない。
一体、誰であろうと後ろを振り向こうとしたら、
「動くな」
冷徹な声が突き刺さる。同時にどう聞いても女性の声であって、昼間の騎士ではないと分かった。
レオポルトを拘束する女性は、先程の声色のまま言う。
「ここに何用だ」
「……ナディーネ様に会いに——って、強くするな強く! 痛いっ! 痛いって!」
「何故、ナディーネ様に? まさか、刺客か」
「違う! 違うから! ——いててててててtおい、話を聴け‼」
シャルファー・ブリックはまだ継続させたままだ。だからこそ振り向ければ、後ろに居る誰かが何者か分かる。そう思っているとき、レオポルトの眼前にシャルファーが来た。
「レオ。こいつ、ナディーネの専属メイドらしいわよ」
シャルファーは、自身の眼で視た情報を話す。これにレオポルトは返すが、声を発してしまえば、より不審がられてしまう。シャルファーはレオポルト以外に見えないのだから。よってレオポルトは、音を発さずに喋る。
(専属メイド? 刑事ドラマで見るような拘束やってるような奴がメイドって……ここは武装メイドでも雇ってるのか?)
伊達に5年間も相棒をやっているわけではない。シャルファーは口の動きだけで、一言一句違わずにレオポルトの言葉を理解した。
「ケージどらま? それは知らないけど。彼女、只者じゃない気がするわ」
彼女と言うことは、やはり女性なのだろう。
(そんなこと、現状ですでに理解してる。音も無く俺を捕らえたんだからな。それも、ナディーネ様の部屋を訪れた絶妙なタイミングで)
「先程からどこを見つめているのですか!」
左腕の拘束が強まる。
「痛いって言ってるだろ‼」
「なら、早く白状しなさい!」
「何をだ⁉」
「あなたがどこの誰かですよ」
更に左腕の……これ以上はレオポルトの関節が外れてしまう。
(シャル! 助けてくれ!)
「無理。私の力で大の人間をどうしろと言うの?」
シャルファーが使える魔法は、全てを看破する炯眼のみ。物体に触れることはできるが、掌サイズのシャルファーが、人間を力技で圧倒するのは毛頭できない。
レオポルトは眼前の妖精に、涙目ながらに懇願する。しかし、シャルファーは苦笑しながら告げる。
「無・理!」
「早く名を言いなさい! まさか、王城に忍び込むバカな盗っ人ですか?」
「ああちくしょう! ——宿屋、シュヴァルベの一休み。そこの一人息子、レオポルト・クリューガーだ‼」
追い詰められ為す術も無く、レオポルトは叫んだ。自分を主張する遠吠えのような叫び、しかし廊下に響き渡らない程度の声量だ。それが届いたのか、目の前の扉が、ナディーネの部屋に繋がる扉が開いた。
開いた扉からは、部屋の主が顔を覗かせる。
「ねえ、外が騒がし——レオポルト様⁉」
ナディーネは最初に、今日会って頭から離れない男と目を合わせる。彼女から見れば互いに見つめ合っているのだが、レオポルトの目線の先にはシャルファーが滞空していた。
「ナディーネ様(シャル、邪魔だ)」
シャルファーに牽制を入れつつ言う。それを聞いたシャルファーは、「略すな!」と言いつつレオポルトの頭に座る。
二人の再会の中、一番の驚きを見せていたのは専属メイド……アマーリアだ。
「……ナディーネ様、お知り合いですか?」
恐る恐ると言わんばかりに、アマーリアは言った。
「ええ。今日、宿屋で会った恩人です」
「⁉」
あまりの驚愕に、アマーリアは言葉が出てこなかった。『恩人』と言う単語が、彼女を硬直させる。知らなかったとは言え、主の恩人に不敬を働いてしまった。
「恩人と言われるほどのことは……」
「取り敢えず、中に入られて。応接間ではないので、大層な対応はできませんけど」
すっかりアマーリアの拘束も解かれたレオポルトは、妖精を頭に乗せ、招かれるままに入室する。ちゃんと「失礼します」と言うのも忘れない。
レオポルトは専属メイドも同席するのかと思ったが、アマーリアはそそくさとどこかに行ってしまった。
「どうぞ、何も用意はないですけど」
「あ、ありがとうございます」
レオポルトは指し示された中央のテーブル席に座る。この部屋も、セオティスの部屋と遜色ないほど広い。
「だらしない格好で申し訳ありません」
そう、ナディーネは言いながら、レオポルトの対面に座った。
何がだらしないのだろう、レオポルトはそう思いながら、対面に座る王女を観察する。すると、すぐに理由は分かった。
ナディーネが今着ている服は、肩から足下にかけてのゆったりとした布、胸元とスカート上に広まった裾にレースの服飾——レオポルトは、これをネグリジェと言ったと前世で知っていた。いわゆる寝間着だ。
しかし寝間着姿と言えども、ネグリジェを身に纏った王女の姿は美しい。レオポルトはつい、見惚れてしまい、鼓動が速まってしまう。
「ねえ、アンタ緊張してない?」
内心を、シャルファーに見透かされたようだった。
レオポルトは緊張している。緊張しないわけがない。前世も含めて、彼は異性の部屋にお邪魔したことがないのだから。
——まさか初めてお邪魔する女の子の部屋が、王室になるとは……。
鼓動の加速が止まらない。更にナディーネが薄着のせいか、宿屋で見た彼女の裸を……今は思い出さないでおこう。
「それで、こちらには何用でいらっしゃったのですか?」
ナディーネは対面に腰掛けながら言う。当然レオポルトは彼女に視線が向かうのだが、ナディーネに意識を集中することはなかった。
「へぇー、なかなかじゃない」
頭の上から声が聞こえた。シャルファーはもう、ナディーネの情報を見たのだろう。
シャルファー・ブリックを継続して発動させたままのレオポルトも、情報に着目する。
名前:ナディーネ・キーラ・ブルファーナ
性別:女
種族:人間
年齢:15歳
生命力:867
魔力:4582
魔法:全戦闘系魔法(威力低) 全補助系魔法(出力低)
ザっと見ただけでも目に付くのは、『全戦闘系魔法』と『全補助系魔法』だ。火起こしや洗濯ものの乾燥など、生活に必要な『生活魔法』は学舎で義務教育としてならう。それ以外の炎や氷で敵を穿つ戦闘系魔法、武器に魔法を宿したり傷を癒したりする補助系魔法は、学舎から兵士に志願して訓練生として学ぶ他ない。国王軍にか、どこか貴族の軍に入る気のない者は、特に覚えることはないだろう。
そんな魔法を、威力や出力が低くても全て使いこなせるようになるのは、並大抵の努力じゃ成し得ない筈だ。
何故、威力や出力低いのか気になりつつも、レオポルトは更に情報を読んでいく。
職業:王族(第二王女)
特殊:民を導く者(覚醒前) 王国の希望(覚醒前) 名君の器(覚醒前)
特殊の欄を見たレオポルトは、あまりの素晴らしいワードに唖然とした。勝手に凄い、と思っているだけかもしれない。しかし、その全てが英雄と呼ばれるに相応しい素質だと思う。ただ気になるのは、『覚醒前』と言う単語の意味だ。
「ねえ、レオ。もう見てると思うけど、『覚醒前』ってさ、分かってないと思うから説明したげるわ」
レオポルトの胸中を察したシャリファーは、話を続ける。
「ようするに、素質があるってだけよ。そこに書いてある素質がね。ただし、まだ開花していない、言わば羽化する前の卵みたいなものなのよ。覚醒前のものを咲きほこらせることができるかは、本人次第だけどね。もし覚醒したら、魔法の威力なんかも解消するかも。——全く。もっと堂々としたら、解決するんじゃない。て言っても、当の本人には聞こえないか」
なるほど、と納得しつつ、今度はナディーネに視線を向ける。
ナディーネは頬を赤らめ、視線も下げて落ち着かない様子だ。ただレオポルトに見つめられるのが恥ずかしいだけだが、押しかけて来た宿屋の息子が知る由もない。
「ナディーネ様」
「は、ひゃいっ!」
急に名前を呼ばれ、噛みながらもナディーネは返事をした。
お互いに目が合ったところで、レオポルトが率直に訊く。
「俺がここに来たのは……こう言うと、恩着せがましいかもしれないですけど——」
レオポルトの真剣な眼差しに、居住まいを正したナディーネも、同じ眼光を以って見据え返す。
「——あなたを助けかった。兵士に捕まったのを助けていただいたとき、その後に見せたあなたの笑みは、寂しそうでした。それを見たら、何だか放っておけなくて……」
それを聴いたナディーネは破顔した。たったそれだけの理由で、王城に不法侵入を犯してまで来る理由じゃない。ましてやレオポルトにとって彼女は今日、初めて会ったに過ぎない。いや、一方的に王女のことを、民は知っているだろう。だが、一介の宿屋がここまでする謂れはない。
「……だから教えてください。あなたが城を出た理由を。俺にできることがあったら、何でもします!」
レオポルトが喋り終えるまで、彼の強い眼差しはナディーネに降り注いだ。それはナディーネにとって、身近に感じる筈だった優しさだった。本来なら父母からこんな感情を肌に感じるのだろうが、父は王族の責を問うことしかせず、母は……ナディーネが生まれて間もなく病気で死んだ。
セオティスが病に罹って以来、城内の誰もがナディーネを次期女王として接する。彼女とって心の支えは、セオティスとアマーリアだけだった。しかし『兄』と『専属メイド』の関係からは、『両親』からの情愛を受け取れない。
宿屋の男に至っては、『他人』だ。それでもナディーネは、彼の優しさと気遣いが身に染みた。
——レオポルト様。
その名を、ナディーネは心の中で唱えた。何度も、何度も。彼を身近に感じた理由は、至極単純だった。
レオポルトからの優しさは、両親からの愛と似ている。そんな気がしたのだ。思えばセオティスが病に罹る前は、陛下も優しかった。
「レオポルト様……」
ナディーネは自然に言葉を発していた。その後も、自然と言葉を紡ぐ。
「……私は、もう、何も学びたくない! 剣術も魔法も、政治についても、王女としての所作も‼」
気付けば、ナディーネの目尻に涙が浮かんで。
「……ご存知でしょうが、私には兄がいます。民には公表されてはいませんが、兄は病に侵されていて……兄が病に罹って以来、王城の皆は私が女王になるように接するんです。そのせいか、剣術の稽古も魔法の修行も、学問から礼儀作法に至るまで、今までよりも厳しくなりました」
もうナディーネは、王族としての威厳も、王女としての風格も、レオポルトには隠そうとしなかった。素のままの自分を、顔がしわくちゃになりながら、思いを告げ続ける。
「最初は、嬉しかったんです。私だけは兄が王になると思っていたので、将来、兄が王になったときの、少しの助けにでもなればと思っていて……」
しゃくりあげながら、一つ一つを思い出しながら。
「……でも、私が一つ学ぶたびに、兄が」
もう一度、兄が、と言ったナディーネは、泣きじゃくりながら俯く。次の言葉は力強く放った。
「——兄が、遠くにいってしまう気がするんです‼」
そうして全てをぶつけた彼女は、俯いたままで顔を上げる気配がない。俯いたその先には、涙がぽつぽつと垂れ続けていた。ネグリジェの裾に、雫が落ちる。
ずっと王女の、王族としての責務を背負わされ続けてきたナディーネは、いつでも優雅に気品あふれる振る舞いをしてきた。しかし、今の彼女にそれを感じさせるものはない。ただの、少女だ。
そんな王女を、レオポルトはしばらく黙って見つめていた。どう言葉を掛けて良いか、正解はないのだろうけど、レオポルトの中で答えは決まっていた。
もともと、ナディーネを助けに来たのだから。
レオポルトは無言で立ち上がる。
「そうですか」
そう言われ、ナディーネは顔を上げることができなくなった。
(やはりレオポルト様も、王女が王族の責務を嫌うことを良しとしないのかな)
民とは豪勢な暮らしに憧れたことのある者が、少なからず居る。ナディーネは、レオポルトもその一人だと思った。
——やっぱり、贅沢な悩みなのだろうか。
一向にレオポルトを見ようとしない王女に、彼は優しく声を掛ける。
「分かりました……と言えるほど、俺は王族の事情に詳しくない」
だから、とレオポルトは言って、
「俺が直々に、陛下に物申してみます」
思いもよらぬ言葉に、ついにナディーネは顔を上げた。しかし、そこにレオポルトの姿はない。彼はすでに、部屋の扉に向かって歩いて行っていた。
ナディーネは、慌てて視線を動かす。そしてレオポルトが扉に手を掛け、出ようとした瞬間、彼女は疑問を訊かずにはいられなかった。
「待ってください! 国王陛下に進言するって、何をです?」
「もちろん、ナディーネ様のことです。直接、身内に言い辛いことは他人に託すに限る」
「だからって……どうして、どうしてそこまでしてくれるのですか? 私には、レオポルト様の行動が理解できません」
ただ助けたいだけだ、と理由はもう話したつもりだったが、それだけでは納得しなさそうな剣幕をナディーネはしていた。だから、レオポルトが答えるべきは決定している。
「貴女は当宿屋に客としてきた。なら、従業員としてお客様の困りごとを放っておくことはできない」
「でも私は! 宿泊せずに帰ったではありませんか。もう私は客じゃない」
「いいえ。ナディーネ様はうちの大切なお客様ですよ」
レオポルトは笑顔を、接客時の笑顔を装ったつもりだが、それが純粋な笑みだったことをナディーネは気付いていた。そして宿屋から訪れた従業員は、扉を開けて部屋を出て行った。2階からも満足に飛び降りることができなかった彼は、武術も剣術も魔法もナディーネより劣っている。加えて、地位も権力もなければ、覇気を感じることもない。ただの市民だ。
そんなどこにでも居る平凡な市民の背中が、どこか頼りになる。ナディーネはそう思いながら、レオポルトを見送った。
ナディーネの部屋を後にしたレオポルトは、正面に立ち尽くす女性を見ていた。
名前:アマーリア・カント
性別:女
種族:人間
年齢:28歳
職業:第二王女専属メイド
生命力:984
魔力:1020
魔法:全生活魔法(高性能) レッシェン(足音を無くす)
他でもないアマーリアだ。彼女の横に、ティーセットが乗った台車が控えていた。
アマーリアは、申し訳なさそうに……いや、面目なさそうにしている。
「あなたは、ナディーネ様の……」「専属メイドね」
シャルファーは断言する。そのことはレオポルトも知っているのだが、向こうは自己紹介もしていないこっちのことは知らない。ただ、シャルファー・ブリックを発動中のレオポルトからすれば、自己紹介など必要なかった。
「はい。ナディーネ様の侍女を務めております、アマーリア・カントと申します。……すみません。立ち聞きになってしまい」
「いえ、大丈夫です」
国王陛下に進言する。民が国王に謁見するのは不思議じゃない。むしろ謁見のできない国王の方が、民を顧みない国王だと、逆に不信を抱くだろう。
ただ、それはあくまでも正式な手順を踏んでの話だ。不法侵入者のレオポルトが行ったところで、逆に犯罪者に成り下がってしまうだけだろう。
「……ナディーネ様。泣いておられました」
アマーリアは、レオポルトが王に進言すると発言する前、ナディーネが思いを打ち明けたところから聞いていた。
あの王女が、全てを自分で背負い込んでしまっていたナディーネが、自分の知らない男。ましてや平民にすぎない男に、自分の感情を隠さず話していた。アマーリアは勿論、慕っている兄の前ですら、泣き言を言ったことはないのに。
「あんなに泣いて。貴方が泣かせたと言っても、過言ではありません」
アマーリアもずっと、付き従えてきた主の助けを、少しでも何かできたら良いと行動してきた。が、ついにナディーネから助力を乞われることも、彼女の本心を聞くことも叶わなかった。
それが、レオポルトの前ではどうだろう。ナディーネ自身が恩人と言った男なら、或いは彼女の助けになれるかもしれない。
だからこそ、アマーリアは彼に託すのかもしれない。
「だから責任を取ってください。セオティス様の病を治せだなどとは言いません」
代わりに、とアマーリアは言って続ける。
「ナディーネ様の味方でいてください」
「当たり前です」
レオポルトの返答は即答だった。ナディーネのために来たのは元からのことだ。
それに、アマーリアの言葉を聞いて安心もしている。ナディーネにも味方がいた。いつからナディーネのメイドを務めているのかは知らないが、否定されない存在は心の拠り所になる筈だ。
レオポルトは、自分を認めてくれたメイドに向かって訊く。
「それじゃあ、王はどこに?」
「おそらく、まだ執務室に居られるかと。中央階段を下って、左にずっと行った奥の部屋です。階段はあっちです」
力強く頷いたレオポルトは、アマーリアが指し示す方向に向かって歩き出した。