18話
思い瞼を開いた。いつもなら意識せずに使っている筋肉なのに、今はやけに意識する。そもそも、いつもなら身体も同時に起こす筈だ。しかし、今回は動かない。いや、動けないと言った方が正しい。視界だって、いつもならすぐに定まるのに、今はどうもぼやけている。
——てゆーか俺、何してたっけ? 寝起きの脳みそって、こんなに曖昧だったか……?
徐々に定まる視界が、最初に認識したのは天井だった。それも、凄く高い。自分の家でないことはすぐに分かった。けれど、驚いて飛び起きることもできなければ、この場所のことを考える気力もない。
起きようとしても、身体が拒む。仕方なく、瞳だけを動かした。左には窓がある。窓から陽が差し込んでいるが、レースカーテンが閉まっているから眩しくない。そこからゆっくりと、瞳を右に動かした。
そこには人が座っていた。女性だ。
「……ナディーネ?」
自然と、彼女の名前を口に出した。後から脳の方が、彼女を認識する。
彼女……ナディーネは、椅子に座ったまま俯いていた。違う、寝ている。
——確かナディーネは、うちの宿屋に来て、それで……。
段々と思考が回るようになってきた。
——そうだ。ナディーネと友達になって、そこから普通の日々を過ごして。ある日、香草が無いからって森に行って。それで、魔物に……。
レオポルトの脳内が、一気に明瞭になる。魔物に襲われて、そのときは何とかなったものの、王都に向かった魔物の群れを追ったら、途中で気を失った。がばっと、レオポルトは身を起こした。左肩に痛みが奔る。
痛みの箇所に視線をやると、傷口に包帯が巻かれていた。そして、視線を正面に動かす。ベッドの両端に、それぞれ一本の柱があり、それが上の天井と……天井じゃない。レオポルトがそう思っていたのは、天蓋だった。カーテンも窓に付いたものではなく、この天蓋から垂れ下がるものだ。
レオポルトは、ゆっくりと視線を下に落とす。上半身が裸になっていることより、毛布が掛かった膝の上に寝ている妖精の姿が、目に留まる。
「……シャル」
妖精の名を、レオポルトは口にした。これで彼女が起きていたら、略すな! などとお決まりの言葉が返ってくる筈だ。今はどうにも、それが恋しい。
「そんなとこで寝てると、寝返りで潰しちまうぞ」
言った瞬間、
「レオポルト?」
透き通るような声が、右から聞こえてきた。レオポルトは声がした方を、ゆっくりと振り向く。
ベッドの脇に置かれた丸椅子、上品に腰を掛けているのは、この国の第二王女だ。そんな彼女が、優しく微笑んだ。目元が腫れているのは、気のせいではない。
ナディーネ様、とレオポルトが声を掛けようとしたら、彼女の方が先に口を開いた。
「良かった……無事で、本当に」
無事? そう言えば、とレオポルトは傷口に視線を移す。処置が施された腕を見ながら、疑問を口にする。
「俺、途中で意識が飛んじゃって。……それで、何でここに。てか、ここって、ナディーネ様の部屋ですか?」
ナディーネは頷いた。
レオポルトは現在、半裸の状態でナディーネの部屋に居る。考えれば考えるほど、頬が熱を帯びてきた。恥ずかしい。レオポルトは俯いて、この部屋の主と視線を合わせないようにする。代わりに、妖精の姿が目に入った。
「やはり、一朝一夕では直りませんね」
え、とレオポルトはナディーネを見た。
「ほら、お友達になったと言うのに、依然と語調が変わっていません」
「あー。でも、ナディーネ様だって、何一つ変わっていませんよ」
そうですね、とナディーネの言葉を皮切りに、二人が揃って笑いだす。部屋の中に、彼等の朗らかな笑い声が響いた。
「ところで、レオポルト様のことですが」
ナディーネが真剣な面持ちで切り出す。レオポルトも、居住まいを正した。
「命に別状はありません。腕も切断するには至らない、牙が骨の奥まで届いていないのが幸いで、肉が抉れているだけなので、補助系魔法による治癒で傷は塞がり、2週間もすれば完治する、と侍医が言っていました」
「じい? 執事さんが診てくれたんですか?」
ナディーネは微笑して、首を横に振る。
「侍医です。王室に仕えて、王家の治療をしてくれる医師のことです」
レオポルトは、目を丸くした。口が自然と半開きになる。王家に仕えているような医者が、どうして、一介の民に過ぎない自分のことを診たのだろう、とレオポルトは疑問に思った。が、それも一瞬のことだった。ナディーネのことだ。彼女が口を利いてくれたのだろう。
そうは思ったものの、はっきりとさせておきたい。レオポルトは思い切って、疑問を口にした。するとナディーネは、
「私が、陛下に上奏しました」
きっぱりと言った。レオポルトの心が痛む。今回のことでナディーネが、陛下から何か言われたかと思うと、素直に喜べない。
レオポルトの気持ちを汲み取ってか、ナディーネが両手を振って否定する。
「大丈夫ですよ、レオポルト様。今回、陛下も協力的でした。確かに侍医を民のために動かすのを他の者がどう考えるかは知りませんが、少なくとも陛下は民のことを第一に考えています。ですから、今回は私が咎を受けることはありませんでした」
胸中の靄がすっと消えた。これでレオポルトも、憂いなく彼女に感謝できる。
「ありがとうございます。ナディーネ様」
力強く、一言一句を噛み締めるようにレオポルトは言った。座ったままだが頭を下げる。
「そんな、頭をお上げください」とナディーネに言われ、レオポルトは言われた通りにする。
「でもさっき、侍医が魔法で治癒してくれた、と言ってましたが、完全には治らないんですね。ああ、不満ってわけじゃなくて。何て言うか、魔法ってもっと便利なものだと思っていました」
「傷を即時、完治させたり、1回の魔法を掛けただけで根治するのは、神話の領域ですよ。現実の魔法は精々、傷を塞ぐので精一杯です。でないと、『医者』と言う職業は存在しないでしょう」
確かに、とレオポルトは言った。
この世界に転生して子供だった頃、少なからず医者に世話になったことはある。外傷で治療を受けたことはない。酷い風邪のときも、診察の後に調合した薬を処方してくれただけで、魔法による治療を受けなかった。
魔法による治療は基本、応急処置だ。病、或いは怪我を根本から治すには、結局は薬と時間に頼るしかない。
「それと、お礼ならエゴン卿に」
「エゴン卿?」
「ここまで貴方を運んで来てくれた、騎士です」
あ、とレオポルトは声を上げた。森の池で死のうとしていた騎士だ。
「彼が?」
「ええ。事の顛末も、彼から聞きました。——レオポルト様、出血が酷くて、ほんと、本当に……」
心配しました、とナディーネは運ばれて来たレオポルトを思い出しながら言った。目から流れ出たものを指先で拭う。
「レオポルト様が森から王都に向かう姿を眺めていたエゴン卿が、しばらくして後を追ってみると、貴方が街道で倒れているのを発見したそうです。レオポルト様は意識が無かったそうなので、街門まで連れて行きましたが、魔物の襲来と重なって閉まっており、ひとまずは衛兵に貴方を預け、エゴン卿は魔物と戦いました。それから……」
それから彼女は、経緯を話し始めた。
エゴンはレオポルトを街門まで送ったものの、魔物が近くまで迫っていたので、先にこれを退治する。それからレオポルトは兵舎に搬送された。他ならぬエゴンの頼みで、軍の応急処置班と言うところで治療をしてもらい、レオポルトが運ばれていることを知ったナディーネが、先程、彼女が言った通り侍医を動かしたそうだ。応急処置班によって一命をとりとめていたため、侍医による処置は特に何もなかった。診断され、そしてレオポルトは1日ほど寝込んでいた。
「てことは、魔物とか諸々が昨日のことだってことですか……」
レオポルトは、ため息を吐いた。助かったことによる、安堵からだろう。そうなってくると、思考は自然と別のことを考える。
店を、家をずっと留守にしていたことだ。レオポルトは一度も——学舎や友達とのお泊り会は除いて——家を一日以上、空けたことがない。父や母のことを考えたら、胸が痛む。彼等はどんな顔をしているのだろう。
レオポルトは自然と、不安を言葉にしていた。
「帰ったら、怒られるだろうなあ」
「どなたにですか?」と、ナディーネが独り言に反応する。
「親にですよ。本当は俺、昨日の昼過ぎには家に戻る筈だったんです。何も知らせずにいるのだから、まあ何かしらの小言はあるでしょう」
言ってレオポルトは、ナディーネに向かって微笑した。最大限、平静を装う。怒られるくらい、大したことではない。ただ、面倒なだけだ。それよりも、何のために香草を採りに行ったんだ、と言う心咎めの方がある。客には、申し訳ないことをした。
「レオポルト様のご両親には、今回の件とレオポルト様が王城で治療を受ける、と言う風に伝達してあります」
え、とレオポルトは口を開ける。
「御父君を初め、色々な方が王都中を探し回ってお出ででした。余程、レオポルト様のことが心配だったようです。クリューガー夫人も大変、御心配の様子でした、と伝達に行った者より報告を受けています」
レオポルトは、安心した。王都中を、おそらくは自分がすでに王都に帰っているていで探してくれたのだろう。心配してくれているのは分かっていたけれど、人伝でも聞くと安心する。
「良い、ご両親ですね」
そう言うナディーネの顔は、どこか儚げで、レオポルトは不意に手放しで喜べなくなった。
ナディーネとその父親……国王陛下の関係は、一介の民からしたら異質な、とても親子と言えるようには見えなかった。対してレオポルトと両親は、特段と仲が悪いわけではない。むしろ、一般的な良好な家系を築けている。
気が付けば、
「すみません」
そんな言葉がレオポルトから漏れていた。ナディーネは慌てて返す。
「そんな、謝られることではありません。こちらこそ、嫌味に聞こえてしまっていたら、申し訳ないです」
いえ、とレオポルトは首を振った。
そこから、会話は続かなかった。無かったのかもしれない。ナディーネは経緯を一通り話し終え、レオポルトも感謝を述べた後は話題を出せなかった。
窓は締め切っているのに、どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。室内は静まっていた。二人の人間は話すことがなく、顔を見合わせているだけでは何だか気まずくて互いに視線を逸らす。妖精は、レオポルトの膝の上で寝息を立てていた。すやすやと、気持ちよさそうにしているシャルファーを見たら、生きている実感が湧いてくる。そのとき、ナディーネが思い出したように口を開く。
「そうだ。レオポルト様、食事は喉を通りそうですか?」
レオポルトは、ナディーネの方を向く。目が合った。
「え、ええ。通ると思います」
「良かった。昨日の昼過ぎから意識を失っていたので、夕食も摂れずにお腹が空いたでしょう?」
気にも留めていなかったが、確かに空いている。彼女は知らないだろうが、レオポルトが固形物を口にしていないのは昨日の朝からだ。急に空腹を感じると、逆に気持ちが悪くなってきた。
部屋の入り口の方を向いたナディーネが、
「アマーリア」
と、名前を呼んだ。
——確か、専属メイドの人だったか。
間もなく、扉が開いて「失礼します」と言ってから入って来たのは、赤錆色の女性だった。彼女の顔を見て、あの日に会ったメイドだと確信する。
アマーリアは、恭しく一礼をして主の言葉を待つ。
「レオポルト様に食事を」
かしこまりました、と入って来たとき同様に一礼をしたナディーネは、退室する。部屋を出た後に、扉を閉めることも忘れなかった。
メイドみたいだ。実際にそうなのだが、あの日はアマーリアもだいぶ感情的になっていたし、レオポルトのことを難なく拘束した。こうして彼女の仕事ぶりを目の当たりにすると、やはりメイドなのだと実感させられる。
レオポルトがそう考えていると、ナディーネが立ち上がった。
「では、後は何かあればアマーリアに申し付けてください。部屋の前で待機していますので」
「ナディーネ様は、どこかに行かれるのですか?」
「はい。お食事をご一緒したいのはやまやまですが、生憎とこれから授業がありますので。とは言っても、家庭教師なので私も城には居ますけど」
「家庭教師? だったら、この部屋を空けたほうが……」
動こうとしたレオポルトを、ナディーネは手を軽く上げて制止させた。
「大丈夫です。いつも別の部屋を使っておりますので。レオポルト様は、ごゆっくりしていてください」
そう言い残したナディーネは、身を翻して部屋を後にした。
一気に部屋が静寂に包まれる。外を吹く風の音も、耳を澄まさずに聞こえる。特にやることは思い浮かばない。そもそも、ここはナディーネの部屋だ。勝手に部屋の物で何かをするのも失礼だろう。
左肩を見やる。誰が見ても、レオポルトの今の状態は重傷者に見える筈だ。でも、処置が施されているおかげか、急に動かなければ痛みはしない
続いてレオポルトは、膝元で眠るシャルファーに視線を合わせた。彼女の魔法があったからかは分からないが、感謝はしたい。
レオポルトは微笑んで、ありがとう、と胸中で述べた。すると、膝元の小さな妖精がむくっと起き上がった。寝ぼけ眼を擦りながら、こちらを振り仰ぐ。
「レオ?」と、起き抜けに出した声は間が抜けていた。そして、シャルファーは大きく目を見開く。今度は「レオ!」と、室内に響く声を出した。
シャルファーが背中の羽を動かすと、羽ばたいてレオポルトの眼前に来る。
「アンタ、無事なのよね?」
小さな顔の表情が険しくなるのが、レオポルトはしっかりと確認できた。だからこそ、安心させるように軽い語調で言葉を返す。
「ああ。見ての通り、生きてるよ。今は食欲もある。アマーリアさんが持って来てくれる食事を待っているところだ」
シャルファーの表情は変わらない。シャル? とレオポルトが怪訝そうに呼ぶ。だが、今回は、略すな! などと言う返しは無かった。代わりに大きく息を吐いた妖精は、眼前で停空しながら視線を下に向けた。
「ごめん……」
シャルファーが、消え入る声音で呟いた。
「何がだ? 俺が寝ている間にいたずらでもしたのか」
「そうじゃなくて」
と言ったシャルファーは言い淀み、何度か、あの、その、と繰り返しながらようやく話し始める。
「アタシ……アタシの魔法があれば、魔物に襲われても大丈夫とか言いながら、結局、レオを死にかけさせちゃって、それで、だから、大見得を切っといて、結局は何もできなくて……」
ごめんなさい、とシャルファーは飛んだまま腰を曲げて頭を下げた。
何と返答したら良いのだろう。別に悪いのはシャルファーではないし、そもそも、そのようなことを言っていたかどうかも、レオポルトは覚えていない。
「取り敢えず、頭、上げてくれるか」
そう、レオポルトが言うと、シャルファーはゆっくりと頭を上げた。彼女の表情は曇っていて、どこか猛省している風にも捉えられる。
「シャルは悪くない」
シャル、と略しても、やはり今回は言及されない。
「シャルが言うように、魔物と出会ったとき、確かにお前の魔法があれば襲われても大丈夫だろう」
でもそれは、とレオポルトは続ける。
「俺が軍人並みに戦えたらの話だ。勿論、俺にそんな技能はないし、何よりも、王都の近くに魔物が出ないと思い込んでたのは俺だ。シャルが気に病む必要はない」
「そう言われても。だって、レオが魔物に襲われているとき、アタシ何もできなかったし」
「でも、シャルが居たからこそ、俺は生きてると思う」
え、とシャルファーはぽかんとした。
「だって俺、噛まれたとき意識が飛びそうになったんだ。その後も、何度だって気を失いかけた。まあ、最後には倒れちゃったけど、シャルが居てくれたからこそ、俺の身体はあそこまで保って、ここに居るんじゃないかな。——だから、そんなに自分を責めないでくれ。こうしてまた、話せて良かったじゃないか、シャル」
きっぱりと言ったレオポルトのことを、シャルファーは見つめ、その表情に笑顔が咲いた。
フッと笑った妖精は、嬉しそうに華奢な男の右の肩に行き、そこに座って羽を休める。シャルファーが左を向いた。レオポルトは、すでに肩に座った妖精のことを見ていた。
「名前、略すな」
「はは。それでこそシャルだ」




