11話
その男は、夜間に馬を走らせた。王都に向かうために。ただ、彼が出立した場所から王都まで、馬で一月は掛かる。加えて、猛獣ならまだしも、ときには魔物と呼ばれる謎が多い生物に襲われることだってある。この魔物、人間や他の生物を襲い——魔物同士の争いは観測されていない——しかし食べはしない。繁殖方法も不明で生命活動に必要な要素も分からない、本当に謎だらけの生き物だ。中には、魔物は生物ではない、と言う者も居る。町や村の外は危険だ。そのため、比較的安全に通れる道を、街道として国が整備している。しかし男は街道を外れ、草原を駆けて森を突っ切り、山路を抜けた。食料も持たずに。最短で王都に向かおうとしたのだ。旅とは、いかに危険を回避するかが肝心だ。いくら男が武勲を立てた騎士とは言え、鎧も着ずにただ1本の長剣を携えているだけ。これは無謀が過ぎる。しかし、今の彼はそれ以上のことで頭がいっぱいいっぱいだった。——悲愴感に溺れた男を乗せた馬は、やがて王都に辿り着いた。
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ナディーネとの出会いから1週間が経った。
宿屋、シュヴァルベの一休みは今日もいつも通り賑わっている。酒場となっている1階の喧騒を聞きながら、レオポルトは空き部屋の掃除をしていた。ダブルベッドとタンスが設置された部屋は、一室だけで考えれば手間ではない。ただ、残りは5部屋ある。加えて、正午はとっくに過ぎた。
今現在、掃除を終えたレオポルトは廊下に出ると呟く。
「腹減ったー」
掃除はまだ終わっていない。いつもなら、頭上に乗っかっているシャルファーと何でもない話をしながら仕事をしているが、今回は居ない。あの妖精は、まだ寝ている。
正直に言って、無言で作業することは辛い。前世以来、久しぶりに知ったレオポルトだった。
しばらくして掃除を終えたレオポルトは、1階に降りる。昼時を過ぎたせいか、客は捌けていた。
いつも通り酒飲みの常連客のジョッキを確認したレオポルトは、良し、と言って店の奥にあるカウンター、その左端に腰を降ろした。ここはレオポルトの休憩ポジションだ。机上には予約席とばかりに、多少の本が積まれている。
母のエミーも厨房ではなくカウンター越しに構えている。料理の注文は入っていないのだろう。
レオポルトは、一番上に積まれていた本を取ってパラパラとページをめくり、前回の続きを探す。しおりを挟むのを忘れていた。
続きを見つけたレポルトは、
「母さん、何か作って」
本に目を移しながら言った。
エミーはカウンター越しに、レオポルトの目の前まで来る。
「それがね、食材を切らしちゃってて……」
え、とレオポルトは顔を上げた。もしかしてと思い、店内の客を見渡す。正確に言えば、彼等が使っている席だ。一通り見たレオポルトは、再びエミーに視線を戻す。
「客が酒しか飲んでないのも、そのせいか」
「うん。今日の昼時、いつもより混んで。それでも、余裕を持って仕入れはしてるから大丈夫だと思ったけど」
エミーが急に、笑顔を向けてくる。
「家族用の食材も使う羽目になっちゃった」
レオポルトは愕然とした。母は笑顔の裏側で、暗に家族の昼飯が無いと語っている。当然、レオポルトの物もだ。
口を開けたままの息子に、エミーは「大丈夫」と付け足した。
「今、ジーファスが買い足しに行ってるから。夜ご飯はあるよ」
「俺、朝ご飯も食べてないけど……」
「いつものことじゃない」
レオポルトは、食より睡眠を取る。だから朝はぎりぎりまで寝ていたいので、いつの日からか、レオポルトの朝食は作られなくなっていた。レオポルトの胃袋も、昼までは保つ。しかし、朝から晩まで働き詰めの飯抜きで保つほど、彼の身体は融通が利かない。
レオポルトは気落ちしながら、本に視線を落とした。仕方ない、今日は耐えるしかない。
「でも、ジーファスも帰りが遅いのよねえ。——何だったら、向かいに行けば? 露店で何か買って貰えるかもよ」
言われて、レオポルトの顔が明るくなる。
「でも、店は……」
「料理が提供できないんじゃ、私一人でも大丈夫よ」
聞いたレオポルトは、本を閉じて再び積み上げた。
椅子から立ち上がり、入店口兼玄関に向かう。そして扉を開けようとした瞬間、
「レオ~、おはよ~」
と、陽気な声が後ろから聞こえた。レオポルトは振り返る。声の主はシャルファーだ。小さな妖精は羽をはためかせ、足を使わずに階段を下りて来る。そして、レオポルトの右肩に座った。
「どっか行くの? 先に、アタシのご飯ちょーだい」
妖精も、食事はする。身体が小さい分、食事量は少ない。大体、人間の一口分を口にすれば、少なくともシャルファーは、1日の食事が終わる。
レオポルトは、肩に座る妖精に言葉を返すことなく、扉を開けて大通りに出た。
「え? ちょ、ご飯は? お腹空いたんだけど!」
宿屋は西にある街門から延びた通り、メインストリートに面している。だからこそ、この通りは一番、王都でも人の往来が盛んだ。露店も目白押しで、日中は喧騒が止まない。
ジーファスは仕入れに行った。レオポルトの宿屋……のみならず、この王都で店を構える大半は、南東に広くある市場を利用する。南東のこの区画は、豊富な品揃えから商いをする者だけではなく、一般客が訪れることも珍しくはない。民の間では、ここの区画を『商業区』と呼ぶ者もいる。
まずレオポルトは、店を出たら右に折れ、都の中央に聳える王城を目指す。王城の周囲は、城を囲むように道が整備されており、そこに街の大通りが全て繋がっている。そのため、迷路じみた裏路地を近道するより分かりやすく、レオポルトはいつもこの道を使っている。
王城に向かって歩く最中、シャルファーがレオポルトの首元をぽんぽんと叩く。しかし、全く痛くない。レオポルトは無視して、目的地に向かって歩を進める。
「ちょ、無視しないでよ! ご飯はどうすんの? 外食、今日はひょっとして外食の日?」
レオポルトに外食をする気はない。そもそも外食の日などと、宿屋にそんな暇はあまりない。せいぜい露店で買った物を、食べ歩くか持ち帰るくらいだ。それに、レオポルトは無駄に散財するつもりもない。
元気よく喚いていたシャルファーも、空腹のせいか次第に活気がなくなる。王城近辺に着いた頃には「お腹空いたあぁ」と、機械的に呟き続けていた。それも、レオポルトが南東の商業区に着いた頃には止んでいた。
市場は流石と言うべきだろう。伊達に商業区と呼ばれているわけではない。肉、魚、野菜、食材類だけでなく、職人が作ったであろう装飾品や指輪などに使われるであろう原石、日用雑貨に加えて被服を作る際の材料、中には絵画や彫像などの芸術品を扱っている場所もある。王都と言うだけあって物流は激しい。ここに来れば、王都で店を構えている者は困らないだろう。
ジーファスは食材を仕入れている。それは2日に1回ほどの割合で、レオポルトと朝一で仕入れに来る。今日みたいなのは稀だ。
四方に様々な商品が並んでいる中、レオポルトは界隈では食材エリアと呼ばれる場所まで足を運ぶ。そして着いた瞬間、正確に言えば壁のように並べられているリンゴをシャルファーが視界に捉えた瞬間、
「ご飯!」
彼女が肩から飛び立ちそうになる。レオポルトはすんでのところで、それを止めた。左手に持った妖精の顔を、自分に向かせる。
(お前‼ 売り物を勝手に食べるな! 犯罪だぞ、犯罪!)
シャルファーは、レオポオルト以外の人に見えていない。この場で騒ぎ立てる不審者になりたくないと思った彼は、口パクで怒号を飛ばす。
「良いじゃない! どうせアタシがちょこっと食べるくらい、虫食いがあると思うだけでしょ、人間は?」
(それが問題なんだ! 傷アリの商品が、同じ値段でどうして売れようか)
「じゃあ、ご飯を食べさせて! せめて食べちゃイケない理由を教えてええ!」
こいつ、腹が減るとこんなにまで不機嫌になるのか、と内心で呟いたレオポルトは、仕方なく説明する。
今日は客の入りが多く、家族の分の食材まで使って料理を提供したこと、それでジーファスが食材を仕入れに行ったことを、レオポルトはなるべく簡潔に伝えた。全部を聞き終えたシャルファーは、「納得いかない!」と怒ってくるが、無い物はどうしようもない。レオポルトは左手にシャルファーを持ったまま、食材エリアでジーファスを探す。
「ちょ、分かった分かったから! 離して!」
レオポルトはいつもより少しだけ手を大降りにして歩いている。
「ちょ、目が回るっ。——魔法を使ってアタシを見なさい! 絶対に生命力が減ってるからああ!」
そうこうしながら市場でジーファスを探していると、彼は店の前に居た。そこでようやくレオポルトは、手で捕縛していた妖精を、先程と同じ肩に乗せた。
「ヤバ……っ、気持ち悪い」
静まり返ったシャルファーを余所に、ジーファスの許へと歩み寄り、「父さん」と呼び掛けた。
ジーファスは食材がいっぱいに詰まった荷車を脇に控えている。
「レオ……か」
振り向いた父親の顔は、どこか疲労感に満ちたようだった。思わずレオポルトは「どうしたの?」と返す。
「いや、見てみろ」
言ってジーファスは、陳列棚を指差す。指し示された方を向いたレオポルトは、少しだけ驚いた。商品が無かったのだ。それも、完全に売れきれた状態だった。
「香草だけが手に入らない」
店主の話じゃ、とジーファスは続ける。
「何でも今日は、市場全体で大量購入があったらしい。中でも香草と香辛料は、特に買い占め状態だったと」
「それって、同じ客?」
「ああ。兵士だった。しかし、王軍じゃない。持ってた盾の紋章が、時たまここで見る兵士が持ってるのと違ったらしい」
そうなると、わざわざ別の誰かが指揮している部隊が、この王都で大量購入をしたことになる。不思議はない。遠征先で物資を調達するのは、当然とも言えるだろう。しかしこの国の軍隊は、軍の貯蔵庫に入った物資を初めに持ち運ぶ。計画通りに行かず町々で補給はするかもしれないが、それでも品切れになるほどではないだろう。
「ま、そう言うこともあるさ」
レオポルトは少なからずこの市場が品切れ状態になったことは記憶にない。自分より長く生きている父のことだから、珍しくも起こり得る事態なのかもしれないが、あまり得心はいかなかった。
ここは王都だ。常に流行の最先端を行き、数多の行商人がここを訪れ、世界各地の品々を運んで来てくれる。店の規模だって、本店を王都に構えるのが多いから、品数も満足がいく。そんな場所で、しかも流通の主流となる市場で、品切れが起こるのだろうか。
「そう言えば、お前はどうしてここに?」
考え込んでいたレオポルトも、今の言葉でふと我に返った。
「俺は、お腹が空いたから、父さんに露店で何か買って貰おうと思って」
それを聞いたジーファスは、唐突にレオポルトの頭を撫で回す。
「給料はやってるんだから、自分で買えそれくらい」
「な、急に何だよ」
声高らかに笑ったジーファスは、近くに置いてあった荷車を引き始める。
「ついて来い。今日は奢ってやる」
そう言って、ジーファスは荷車を引いて先を歩く。レオポルトも後に続いた。
南東の通りに向かって歩く最中、レオポルトはふと疑問に思って荷車を見る。
「ねえ、客に料理は提供するの?」
ジーファスは荷車を押したまま、背中越しに答える。
「いや、確かに香草が無くても何とかならないことはないが、質が落ちる。それなら今日は、いっそのこと品切れにした方がマシだ」
香草は肉の臭み取りや、最後の香り付けに添えることがある。これがないからと言って、一般家庭だったら然程、支障はない。しかし、商売として客に出すのなら、ジーファスは妥協しない。
南東の通りに出、王城に向かって歩を進める。そこで、レオポルトが提案する。
「俺が取りに行って来るよ、香草」
聞いたジーファスは、歩調を変えることなく言う。
「止めとけ。外じゃ魔物が出る。学舎で習っただろ?」
「でも、王都の周囲なら、定期的に国王軍が見回りをしてくれるから安全な筈」
香草は、この近辺の草原でも取れる。店で買うより種類も少なければ、自身の手で採取する分、効率も落ちれば十分な量も確保できない。それでも、少しでも客のためになるならと、レオポルトは考えた。
荷車を引いていた足を止めたジーファスは、息子へと振り返る。レオポルトも止まって、父親を見た。
「分かった。だが護身用のナイフは持って行け。家にある」
それと、とジーファスは続ける。
「あまり遠くへは行くな。無かったら無かったで良い」
分かった、とレオポルトは頷いた。
再度、荷車を引き始めたジーファスを横切ったレオポルトは、「先に帰るね」と言い、家に向かって走り去って行った。




