亡霊
「テイクツー! 行っちゃうぞ!」
風呂場から出た僕は、ドアの前で正座待機していた妹を見て脱力した。
「行くな。兄ちゃん回復が追い付かない」
僕は背中を指差して、いつも通りの口調で言った。
妹もまた、いつも通りの陽気なキャラで僕に言う。
「兄は無敵だと聞き及んでいるであります!」
「妹の一撃は無敵を貫通します」
「でも、自動回復するのでしょう?」
「ダメです。リジュネ追い付きません」
チェーッ、とそっぽを向く妹。
僕は膝を下り、目線の高さを合わせて、妹の両肩にポンと両手を乗せた。それだけで妹の身体がビクリと跳ねる。
「な、なんだ兄か。変質者かと思ったぞ」
いひひ、と笑う妹の目は怯えていた。
「レベル不足だな」
「ほう?」
目を見開いたまま、可愛らしく首を傾ける妹。そのアンバランスな表情と仕草は、まるでホラー映画に出てくる人形のようで、痛々しかった。
きっと本人は気が付いていないのだろう。
だから僕は、いつも通りの会話を演じることにした。
「レベ上げが必要だ」
「……れべあげ?」
僕は考える。妹は僕の言葉を盲信するだろうから、下手なことは言えない。実現可能で、かつ妹にとってプラスになる提案をしなければならない。
「兄のレベルを50としよう」
「ほう」
「美羽のレベルは1だ」
「ヒック」
言葉を選びながら、僕は話を続ける。
「コンビニバイトは、レベル8くらいだ」
「ぐぬぬ、全然足りない」
「そうだ。だからまずはレベルを上げよう」
「どうすればいい?」
僕はスマホを手に取り、ロック画面に表示された時計を指で示した。
「良い子は寝る時間です」
「ワイ大人なんだが?」
「黙れ夜行性ニート」
「チクチク言葉嫌いだぞ」
妹は唇を尖らせる。
そのあと、そっぽを向いて小さな声で言った。
「……まだ痛い?」
「えげつないくらい痛い」
妹は「……ごめん」と言ってしょんぼりした。
僕はコホンと喉の調子を整えて、
「夕方ぼっち飯をするうちはレベル1。兄と朝食を楽しめてレベル2。なあ美羽、お前はいつレベル3になれる?」
「……とっつぁん、ボク今日は早寝するよ」
「待て、なぜ元ネタが分かる」
「十八歳以上だからだぞ」
妹はコツンと僕の額を指で叩く。
「おやすみー!」
僕の困った顔を見て満足したのか部屋に駆け込む妹。
「おやすみ」
完全に姿が見えなくなったあとで、僕は脱力した。その直後に夜食が行われていないことに気が付いて、どうせ二人とも喉を通らないだろうと思い直す。
僕は歯を磨いて、仕事用のスマホに届いていたメールを確認しながら自室に戻った。
メールの内容は、新規事業について。
ただのリマインドメールであることだけ確認して、詳細には目を通さずスリープボタンを押す。
本当に、うんざりした。
重大なタスクが同時にふたつ。実に胃が痛い。
さて、
妹については、ご覧頂いた通りだ。
この物語が目指すのは、コンビニで働いている妹の姿を見ることである。
プロセスとしては、面接を受ければそれで終わりだ。どこも人手が不足している時代だから、落ちることは無い。
ただし、現在の妹は靴を履いた状態から一歩でも前に進めば発狂する。これが乗り越えるべき壁である。
兄である僕は、妹のレベル上げ大作戦を企画した。
ゲームっぽい表現をしているのは、その方が妹に伝わり易いと考えたからだ。
妹は、二つ返事で納得してくれた。
僕は絶大な信頼を嬉しく思いつつ、何ひとつとして名案が浮かばない自分自身に失望する。
本人の意思を無視して行動を制限する脳の障害。もはやカウンセリングではなく治療が必要な分野だ。炎の妖精のように騒いでも何ひとつ得られない。
医者を手配して薬を貰う。
これが現実的かつ最も妥当なアイデアだろう。
もちろん薬に即効性は無い。有効かどうかも分からない。それでも、いつか症状が改善することを信じて、誠心誠意、隣で支え続けるしかない。
奇跡なんて起きない。気合と想いで乗り切れるのなら、そもそも薬が生まれていない。僕に出来るのは、専門家の知恵を借りながら、妹を支えることだけだ。
最愛の妹が病気であることを前提としてアイデアに違和感を覚える方もいるだろうが、逆に問いたい。絶叫しながらニ時間に渡って兄の皮膚を引き裂き続ける状態が、他の言葉で説明できるだろうか。
この日、僕は布団の中で同じことを繰り返し考えた。
考えて、考えて、時間の感覚を失うほどに考え続けた。
「ああ、今日も来たのか」
その気配を感じて、僕は身体を起こす。
「今日は、どっちかな」
僕は立ち上がる。
それから、僕をじっと見つめている少女の影を――妹の姿を目に映す。妹は子供っぽいパジャマを着て、両手で鈍く光る刃物を握り締めている。
妹は俯いたまま何の反応も見せない。
ならば、きっと今日も亡霊なのだろう。
僕の中にある強い後悔が生み出した亡霊だ。
僕は、僕にしか見えない妹の手を握る。
そして、僕に向けられた鋭い刃物に心臓を差し出した。
もちろん、何も起こらない。
ただ、いつか妹が当時の感情を思い出したならば、僕の枕もとに現れる亡霊は本物になるのだろう。
以上が、僕と妹のスタートラインだ。
僕は、何の打開策も持っていなかった。
もしも……今この物語を執筆している僕の立場で仮定の話をするならば、もしも昼間の仕事を断っていたら、まるで違う未来があったに違いない。
彼女は、あるいは彼は、
これから、僕と妹の世界に、土足で入り込むのだ。