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代償

「ボク、就活する」


 僕は脱力した。

 大事件だった。


 もしも何か荷物を持っていたら、思わず握力を失って床に落としていただろう。いくらか心構えをしたうえで、僕は放心するほどの衝撃に襲われた。


「あれか、企業案件か」


 妹は首を横に振る。


「まずは、コンビニバイト」

「待て待て落ち着け。薄給激務で良いこと無いぞ」

「リハビリには丁度いいかなって」


 淡々と言う妹を前に、僕は焦りを隠せない。

 それでも強引に心を落ち着かせて、いくらか早口になりながらも、努めて冷静な声音で妹に話しかける。


「最近はネットで完結する仕事もある。給料だってコンビニバイトより上だ。せっかくスキルがあるのだから、そっちを活かすべきだ」

「兄よ。これはボクの戦いなのです」


 僕は一瞬だけ言葉に詰まる。

 何と、何の為に戦うのか、僕は知っているからだ。


 ありふれた話だ。

 妹は、高校を中退している。高校を中退するような出来事があって、以後は一度も外出できていない。


「手始めに、今から外に出ます」


 僕は唇を噛んで、言葉を飲み込んだ。


「大丈夫。兄と引越しするとき外に出たはず。覚えてないけど。でも四年も経ってるからね。余裕だよ」


 引越しの際、妹は外出していない。

 寝ている間に車に乗せて、寝ている間に移動して、寝ている間に新しい部屋まで運んだ。


「そこ、どいて」


 僕の心臓が痛い程に騒ぐ。

 だけど、僕は何も言わずに従った。


 妹は平然と話をしているように見えて、ずっと声が震えている。握り締めた小さな手は小刻みに振動しており、掴んだ服には皺が出来ている。


「もー、心配性のシスコン兄を持つと困っちゃうよ。外に出るくらい余裕だから。ちょちょいのちょいで自販機まで行ってジュース買っちゃうからね。あ、小銭貸してね?」


 妹は立ち上がった。

 明るい口調で、矢継ぎ早に発した明るい言葉は、しかし不安を隠そうとしているようにしか聞こえない。


 妹は、靴を履いた。

 それから一歩前に出ようとして――


 妹は笑顔のまま、前を見て、動きを止めた。

 ゆっくりと、両目が見開かれる。信じられないものを目にしたみたいに、その表情が恐怖に歪む。


「……なん、で?」


 僕は妹を強く抱き締めた。

 ほぼ同時に妹が発狂した。


 信じられないような絶叫が僕の耳元で爆発した。直前まで明るく会話をしていたとは思えない様子で、血を吐くように泣き叫んだ。


 僕は弱い。大変な案件を抱えただけで嘔吐する。

 妹は、僕よりも弱い。靴を履いて、たった一歩すら歩くことが出来ない。高所恐怖症の人が高所で脳の働きを阻害されるように、あまりにも強い心的外傷が、妹の勇気を踏み躙る。


「大丈夫、僕がいる」


 何度も妹に声をかける。

 妹は動物のような悲鳴をあげ、僕の身体をギュッと掴む。長い爪が皮膚を抉り、焼けるような熱が生まれる。


「僕がいる。僕がいるから」


 痛みを堪えて、僕は妹に声を掛け続ける。


「もう二度と、見捨てたりしないから」


 何度も何度も繰り返した。

 気が遠くなるような時間が流れて、妹は、電池が切れた機械のように動かなくなった。


 そっと妹から身体を離す。

 安らかな寝顔が見えて、寝息が聞こえた。


 僕はシューズケースの上にあるウェットティッシュを手に取って、妹を床に寝かせた。


 妹の手には赤黒い液体がこびりついていた。それを丁寧に拭き取る。妹の手が綺麗になったところで、僕は妹の頬をペチペチ叩いた。


「起きてるだろ」

「……てへっ、失敗しちゃった」


 妹は無邪気に笑う。

 まるで、何事もなかったかのように笑う。


「風呂入るから」

「一緒に入る?」

「僕は構わないが?」

「やーい! 兄のえっちー!」


 妹は立ち上がって、どたばた自室に逃げ込んだ。

 それを見届けた後で僕は浴室に向かう。


 まずは上着を脱いで、次にシャツを脱いで、白い部分が残らない程に赤く染まっている様子に息を飲む。


 ……パンツまでぐっしょりだな。


 雨に打たれたような台詞を思い浮かべて、気を紛らす。そして、これまた赤く染まったズボンを脱ごうとして、先にポケットのスマホを取り出した。本体を持ち上げたことで表示されたロック画面を見て、僕は初めて現在時刻を知る。


 22:41

 帰宅時間は、20時を少し過ぎたところ。


 これが、代償だった。

 妹は靴を履いて、たった一歩、歩こうとしただけ。


 違う。間違っている。

 原因は、もっと過去にある。


 十年と少し前に、僕が間違えたこと。僕が人生においてたった一度だけ取り返しのつかない失敗をしたこと。日常の中にあった明らかな伏線を無視したこと。


 その代償が、これだった。

 

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