崩壊
翌朝。
僕はいつものように会社へ向かった。
電車内。
この日は、何もせず窓の外を眺めていた。
会社内。
仕事は手に付かなかった。つまらないミスが連続して、遅々として進まない。
「黒岩さんですね?」
「はい、黒岩です。ええと、あなたは?」
午後三時頃。
僕は、見知らぬ男性に肩を叩かれた。
「一応、君の部でCTOをやっているおじさんです」
最高技術責任者。
企業の幹部。お偉いさんだ。
腑抜けていた僕の神経が反射的に活性化する。
柔和な表情で微笑む初老の男性。年齢は五十代前半だったはず。知人の線で考えていたから直ぐには分からなかったが、彼に関する情報なら知っている。
彼は小生意気な新人が好きで、礼儀作法はあまり気にせず冗談も通じるタイプ。ならば僕が見せるべき態度は――
「ああっ、通りで見覚えがある。僕のような平社員の肩を急に叩いて、まさかリストラですか?」
「はは、思い当たることでもあるのかな?」
僕が大袈裟な口調で質問すると、彼は何か期待するような眼差しを僕に向けた。
「ええ、とても。副業で弊社の利益を奪っていますから」
「はっはっは、噂通りの子だね」
給料が少ないという皮肉を受けて、しかし彼は上機嫌に肩を揺らした。情報が正しかったようで僕は安堵する。
「場所を変えようか」
「分かりました」
挨拶を終えた僕と彼は移動を始めた。
その間、僕は思考する。
彼は完璧な笑顔を浮かべていた。だからこそ、直前に僕の肩を叩いた手から伝わる緊張感との齟齬が強調される。僕と何か交渉をする予定だと考えるのが自然だ。
彼は確実に僕のことを調査している。
僕は副業収入の方が多く、本業で余計な仕事を引き受け残業することはないタイプのエンジニアだ。
このようなエンジニアに給与と不釣合いな命令をした場合、転職されるリスクがある。プライベートに影響を及ぼす場合も同様だ。
ならば交渉内容は予測可能だ。
おそらく平時の僕なら断るような仕事を承諾させる為に札束で殴ってくるのだろう。つまり彼の目的は、支払う報酬を最小化すること。
ここまで考えて、僕は先手を打った。
先程の皮肉は、しかし相当な報酬を提示されない限りは引き受けねぇぞという牽制でもあったのだ。
その真意は、おそらく彼にも伝わった。
いや、確実に伝わっているはずだ。あれを理解できないような人間が、この会社の幹部になれるわけがない。
……本当に、大人は面倒だ。
あらゆる行動に裏があり、ひとつ見落とすだけで不利な立場になる。思考停止の果てにあるのはサービス残業の強制などが蔓延る暗黒の労働環境。
それに比べて我が妹のなんと可愛らしいことか。考えていることが何もかも表情に出て――いけない、今は彼との交渉に集中しよう。
「仕事中にすまないね」
「いえいえ、構いませんよ」
空いている、もしくは彼が予約した会議室に入った僕は、促されるまま入り口から最も近い席に座った。
彼は僕と机をひとつ挟んだ席に座り、机の上で両手を合わせると、そこに顎を乗せて言う。
「君の評判は聞いているよ。AIに関しては、弊社どころか国内で最高のエンジニアの一人だと誰もが口を揃えている」
「恐れ入ります」
彼は一呼吸置いて、
「ウラ・ヨシュア・ツヴァイ氏はご存知かな?」
うわ、ようじょ、つよい?
……このおっさん急に何を?
「彼女は異常な経歴の持ち主だよ。十二歳でインターネット会社を立ち上げ、十五歳で上場すると同時に株を売却。得た利益で立ち上げた新会社の時価総額は、たった三年で十兆円を超えた」
「とんでもない経歴ですね」
時価総額とは、会社が有する株式の総額である。日本国内で時価総額が十兆円を超えた企業は十社にも満たない。
「彼女が弊社の新規事業に関わることが決定した」
この時点で僕は大凡の内容を察した。まあ、この前振りから繋がる話などひとつしか無いのだけれども。
「僕には荷が重いと思いますが」
「君が妹を大事にしていることは知っているよ」
やはり僕のことは調査済みらしい。
柔らかい笑みを浮かべ、しかし鋭い眼光で僕を捉え続ける初老の男性は、低い声音で次の言葉を口にした。
「この案件から得られるコネクションは、メリットにならないだろうか?」
その一言で、交渉の結果は決まった。
ツヴァイ氏はもちろん、彼女により選抜された人材との間に得られるコネクションは、僕はもちろん、妹にとっても大きなメリットとなる。断る理由が無い。
この後に続くのは、如何に互いが納得できる報酬を決めるかという退屈な話だから割愛する。
交渉が終わったあと、僕は御手洗いに向かった。
普段とは違う比較的利用者が少ないフロアの個室に入って、そのまま嘔吐した。
「……気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い…………」
僕は停滞を選んだ。
だから安定した企業に身を置いた。
ここ数年は妹と平和な日常を過ごせていた。
分かるだろうか?
ありふれた日常を手に入れる為に、大きなハンデを背負った人間が、どれほど凄絶な人生を歩んだか、想像できるだろうか?
妹からの相談。
これから関わる新規事業。
たった二件の出来事で、僕は嘔吐するほどの重圧を受けた。古い傷痕が開き、濁った鮮血が飛び散った。
世界は停滞することを許さない。
この重圧が、止まることの出来ない重圧が、一度でも立ち止まれば何もかも失う既知の恐怖が、君には理解できるだろうか。
「……僕は、弱いな」
きっと、ほとんどの人には理解されないだろう。故に僕は弱い。だけど僕の妹は、僕よりも遥かに弱い。
この日、僕は何も考えられなかった。
新規事業に関わる為に既存の案件を終わらせるか引き継ぐかする必要があったけれど全く手を付けられなかった。
帰宅後。
妹は、玄関で正座していた。
「お兄ちゃん、聞いて」
僕は息を飲む。
妹の服装が、いつもと違ったからだ。
妹は、いつも子供っぽいパジャマを着ていた。僕が全く意識しないくらい当たり前のことだった。
しかし、今は違う。
妹は、外に出られるような服を着ていた。
服装だけではない。
妹の綺麗な目が、今日はハッキリと見えた。両目を隠していた前髪が、眉毛の辺りでバッサリと切り落とされていたからだ。
……やめてくれ。
僕は心の中で叫んだ。
しかし、妹は止まらない。
大きく息を吸って、決定的な一言を口にした。
「ボク、就活する」
これが、ありふれた日常の終わり。
そして、ありふれた非日常の始まり。
きっと君が予想した展開のひとつだと思う。
魔法が存在する何でもありのファンタジーではなくて、僕が実際に経験した出来事なのだから、現実に起こり得ないことは決して起こらない。もちろん、いくらか誇張している部分はあるけどね。
妹の言葉は、僕に予想通りだった。
僕が予測したなかで、最も確率が高くて、最も恐ろしいと感じていた言葉だった。
何が、そんなにも恐ろしいのか。
それは次のページで明かすことにするよ。
少しだけ、心構えをしてほしい。
あらためて警告するけれど、これは悲劇だ。
だけど、どうか見届けてほしい。
世界に背中を押される滑稽な僕と、小さな一歩を踏み出そうとしている妹の姿を見て大いに笑ってほしい。
文字通り、僕は
妹の為に、死ぬほど頑張るから