表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

報復感情は大事な人と共に

作者: ふりがな




こんにちはふりがなです。


現在、前にやりました死刑制度の是非の前提である、冤罪問題の認識が世間では逆になっている件を、完結させるために、色々と情報を追っていまして、報復感情をその中核に据えようとしたところなのですが、ちょっとした齟齬を見つけました。


というのも、前作では最も報復を生み出すのが冤罪であるとしたのですが、自身への冤罪被害は、必ずしも強力な報復感情を生まないんですよね。

冤罪に限らず、報復による事件の多くは、身内による報復です。

まぁ、周りを巻き込む負の連鎖になりますから、本筋に影響はないのですが。


自身ではなく、身内に強力な報復感情を生み出すのが、冤罪なのです。


冤罪問題から死刑制度に反対している層の、冤罪の許せない理由を、私は取りあえずと国家への報復感情でもって反対していると仮定しました。

しかしその正体は、実際の所、報復感情ではなく安全欲求、即ちは恐怖感情ですよね。

冤罪問題を根拠にする人は、恐怖感情によって、死刑制度に反対しているハズです。


根源的な欲求の一つである安全欲求、その欲求の中にある恐怖という感情があります。

冤罪被害という世間への恐怖感情の伝染が、冤罪への過剰な反応をパニックのように生んでいるのです。


これらは、冤罪被害者の感情とまったく同一のハズです。

冤罪被害者の多くは、通常の犯罪被害と同じく、不安や恐怖が、報復感情より先に立ちます。


その不安や恐怖への無力感から、痴漢容疑では、自殺を選んだ若者も居ました。


これらの不安や恐怖、無力感は、犯罪で起こる感情と一律に言っても、己の身に降りかかる犯罪でのみ起きる感情です。


例えば、大事な物を盗まれるにしろ、自身の安全欲求に直結する物では、被害者は不安や恐怖を感じます。

一方で、安全欲求とは別の大事な物の窃盗被害では、被害者は不安や恐怖ではなく、報復感情が先に生まれるのです。



では、何故、人は身内の安全欲求の問題や、自身の安全欲求に繫がらない大事な物への損害なら、報復感情を強く持ち、一方で自身の安全欲求の問題なら、不安と恐怖で押しつぶされるのでしょうか?



当然ながら、恐怖ベースで報復感情を考える時に、私はこのような疑問を持つに至りました。



返応性の原理から言えば、自身の安全欲求に直結する犯罪被害は、加害者の安全欲求に直結するような報復感情に至るハズです。


対象が大事な物であればあるほどに、落差が大きければ大きいほどに、返応性の原理は強く働きます。


それが、自身の場合だと働かない理由は簡単です。


自身を大事だと思っている方が、意外と少ないからではないでしょうか。



自身より、身内の方や物が大事な人が多いから、自身の報復では犯罪が起きないのです。

※少ないという話ですよ


身内の安全欲求への犯罪被害で報復に至るのは、良く言えば尊い自己犠牲の精神と言ってもいいでしょうか。


自己肯定感が低いから、自身が自身にとって大事な人ではないから、自身への犯罪被害は、報復感情が大きくならずに、残った恐怖や不安だけが増大する。


冤罪被害で自殺した若者は、どうだったのでしょうか。


身内による報復行為の強さは、感情の流れをこのように指し示しています。



日本の青少年の自己肯定感は、各国と比べて特に低いとの記事を見たりします。

即ち、日本では論ずるに値するような報復感情はそもそもなく、報復感情の元となる自己肯定感が低いのではないかと思い至りました。


果たして報復感情を抑えられるのは、今の世間が言うように本当に理知的な証拠なのでしょうか?


それとも、単に自己肯定感の低さを、他の理由に転嫁しているだけなのか、実際どうなのか、気になる所ですね。


私個人的には、自身が本当に大切であるのなら、冤罪に抱く感情は、報復感情になるハズです。

しかし多くの冤罪では、どうも違うようです。



さて、少し司法制度の話しも書いておきましょう。

私たちは、重犯罪被害と冤罪を、恐怖感情でトレードオフとしなければなりません。


重犯罪の被害者となる恐怖と、冤罪被害の恐怖、これらは共に犯罪被害の感情として、同等の恐怖を持ちます。


そして、治安維持に関して言えば、その原理原則は、『進化していく犯罪と、金と技術、それについてくる冤罪の追いかけっこ』となるのです。


冤罪問題や司法制度をそのように捉えている論調は、悲しい事に中々見つかりません。

※本当に皆さん何を考えてるんでしょうね


解決するのに、金と技術の追いついていない事件は、当然ながら、冤罪を無視するか、犯罪を放置するのか、どちらの恐怖を取るのかの二択しかないのです。


例えば、痴漢冤罪問題は、まさにこのケースです。

犯罪に対して金と技術が追いついていないので、冤罪問題を優先するのか、犯罪被害をとにかく優先するのかの二択に迫られているのが痴漢冤罪問題です。


どうも、一種の冤罪の構造以前に、この犯罪と司法制度の追いかけっこの原理原則を理解されてない方が多いんですよね。

途上国の重犯罪と冤罪問題、先進国の多くの軽犯罪もこれに当たります。



そして、犯罪というものは、金、権力、暴力、技術、そして知能によって、より司法に捕まらない完全犯罪として進化していきます。


金と技術が、進化していく犯罪に追いついているのなら、冤罪問題と犯罪の摘発は同時に解決します。

しかし、司法制度の能力が対象となる犯罪に追いついていないのなら、痴漢冤罪問題と全く同様に、冤罪か、犯罪の放置かの、不自由な選択へと迫られるのです。


冤罪被害と犯罪被害、どちらの恐怖を取るのか。


かつて、死刑制度は、死人に口なしの冤罪被害よりも、犯罪者の処理を重視した結果、合理性を持ちました。


進化する犯罪に、金と技術が追いつけば、私たちは今現在と同じく、犯罪被害の抑制と共に、ほぼ解決し終わっている冤罪問題を題材として、選択という形で死刑制度の是非を問えます。


痴漢冤罪の問題が何時までも解決しない理由は簡単です。

立法及び司法制度側は、実務処理においては痴漢を、重犯罪と同等に扱っていますが、本音では誰一人として、重犯罪だとは思っていません。

ですから、解決のために、金も技術も注ぎ込んだりはしていないのです。

軽犯罪として処理するか、金と技術を注ぎ込むか、もしくは現状の金と技術では、司法制度の手に負えない犯罪なのだと認め、恐怖の選択をするしかないのです。



進化する犯罪に、金と技術が追いつかず、ある種の犯罪が完全犯罪となった時、私たちは再び過去の恐怖の選択、犯罪被害の恐怖を選ぶか、冤罪被害の恐怖を選ぶかの選択に迫られる事になります。

もっとも、完全犯罪の解決を司法制度側が放棄して、私刑の横行するパターンもあります。

私刑、モブジャスティスはまさにこの好例です。


冤罪=許せないではなく、近代法の理念でもなく、司法制度問題の原理原則という現実問題が、先にあるのです。

近代法の理念である、疑わしきは被告人の利益には、近代になって、ようやくいくつかの犯罪に、財源と技術が追いつき、あくまで、ある程度の範囲で、近代法の理念の範囲に納まったという話なのです。


過去に同じ例を見れば、理念によって神判を否定した際には、肝心の財源と技術がなく、魔女狩り(私刑)と拷問による冤罪で、結局どっちつかずの現実に頼ったのと同じです。


日本の死刑制度レベルの重犯罪で、そちらの選択の機会が来ることは、当分ないと私は思います。



その前に、私たちの社会では、それらの恐怖云々に立ち向かえるだけの、大事な人を大事だと思える、自己肯定感を一度問わなければならないかもしれません。

報復感情の否定を、即ちで自己肯定感の低さと捉えたくはありませんが、司法制度問題の原理原則の理解も一切無く、ただ一方的に、自己肯定感の否定までしてはならないのですから。


最低限の自己肯定の維持と共に、司法制度問題の原理原則を踏まえ、将来来るかもしれない恐怖の選択を立ち向かうことが出来るのであるならば、それこそは正当な選択とは呼べるのかもしれません。


自己肯定もない人々が、そこにある恐怖を見ないフリを何時までもしていれば、このままでは絶対に解決しない痴漢冤罪と同じように、司法制度はどっちつかずになり、やがて、解決のために民間が私刑に依存し始めるようになるでしょう。




当作品を書いた後に、恐怖だけではないだろうと、報復感情の逆の感情を探した所、公正世界仮説というのが見つかりまして。

そちらを中心に書いても良いのですが、恐らく過激になりすぎるのではと、恐怖のテーマのまま投稿してみました。

司法制度の原理原則と書きましたが、この手の論調を探してもどうも見つからないので、ここが初かもしれません。

まぁ、どこかにはあるのでしょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ