お好み焼き屋べったりこ
山柴雪乃は己の不運を嘆いていた。
朝は時計をセットし忘れて寝坊し、雪乃の所属する商品開発部では、遅刻の所為でチームリーダーを担当するように言われた。もちろんプレゼンもリーダーである彼女が発表することが決まっている。入社三年目の、経験が浅い自分に務まる仕事とは到底思えなかった。ただでさえ人前で何かをすることが苦手な雪乃である。不安は高まる一方だ。プレゼンや新商品開発のことで頭がいっぱいの中、仕事を進めていたのが原因だろう。単純なデータ処理作業では細かいミスを連発していた。そして現在進行形で、上司からミスに対する注意を受けている。
「まったく。聞いていますか、山柴さん。あなたはただでさえ普段からミスが多いのに、今日は特にひどいですよ。仕事に集中してない証拠です」
「す、すみません」
「謝ればいいってものでもないでしょう。だいたい本当に分かっていて誤ってるのかしらね。そもそも普段からあなたときたら・・・」
上司の注意はかれこれ三十分にも及んでいる。徐々にミスに対する注意から話がずれて行き、雪乃の生活態度へと移行した。途中からは私服がださい、口紅の色が気に入らないと言うように、理不尽かつ無関係な内容になっていた。余談だがこの上司、一部の間では開発チームのお局様と呼ばれ恐れられている。
「まったく、次からは気を付けて下さいよ。こっちだって暇じゃないんだから」
「はいっ、すみませんでした・・・」
「もう下がってよろしい。それからあなたのミスした書類に加えて、これもやっておいてちょうだい」
「えぇっ」
渡された書類の厚さに思わず声を上げるが、上司に睥睨され雪乃は大人しく口を閉じた。ここで反論すれば説教が待っていることは明らかで、雪乃に与えられた選択肢は大人しく自分の席へ戻る他にない。積み上げられたファイルの山にうんざりするが、さらに今手にしているファイルをそこに足すと、もう終わる気がしなくなる。
「山柴さん、どんまい。お局様は誰に対してもあの態度だし、そこまで気にすることないですよ」
「道茂さん・・・、ありがとう」
雪乃に声を掛けたのは、向かいの席に座っている道茂久実だ。彼女は雪乃と同期だったが、雪乃自身は若干の苦手意識を持っていた。仕事が早く、性格は明るく、おまけにかなり可愛い。久実といるとつい自分と比較してしまい、毎回と言っていいほど落ち込むのだ。久実に対し雪乃が勝っているところと言ったら、髪の長さくらいだと思っている。
「そうだ、山柴さん。今日の帰り駅前にできたカフェ、一緒に寄りません?すっごいオシャレで行ってみたいなって思ってたんですけど」
オシャレなカフェ。
その単語に雪乃は肩をふるわせた。当然歓喜の余りふるえたわけではない。女子はやたらと洒落たカフェが好きだが、雪乃はそれが理解できなかった。歩き疲れたから足を休めるためにカフェに入るなら分かるが、最近は写真を撮ってSNSにあげるためだけに入る女子までいる。食べる、飲むより写真を撮ることの方が、優先順位が高いのだ。昨今ではインスタ映え、フォトジェニックと言う、何語だと言いたくなるような言葉まで流行している在り様だ。そんなきらきらふわふわしたものが雪乃はただでさえ苦手なのだから、女子力の塊のような久実と行きたいとは到底思えなかった。
そうは言っても、久実の誘いを断れるほどの勇気を雪乃は持ち合わせていなかった。
「私も行ってみたいと思ってました」
「ですよね、外観からしてまず可愛いですし、口コミでも評判良いんですよ」
「えー、そうなんですか。楽しみにしてます」
心にもない事だが、ぽんぽんと口から出てくるものだ。もしかしたらその場限りの話になるかもしれないと期待しつつ、雪乃はパソコンに向き直った。
案の定というべきか、雪乃の仕事が定時のうちに終わることはなかった。明日までに表に起こさなければいけないデータも残っていたため、残業は確定だ。
「道茂さん、すみません。せっかくカフェ誘ってもらったんですけど、終わりそうにないんで今度でも良いですか?」
「全然良いですよ、お疲れ様です」
そう言うと、久実はさっさと帰り支度を済ませ退社した。仕事の速さは流石だが、少しくらい手伝ってくれれば良いのに、と雪乃は内心思った。
仕事にきりが付き、退社する頃にはほとんどの人が帰っていた。残っているのは仕事の遅い一部の新人と、仕事の多い役職持ちくらいだ。今は繁忙期ではないということもあり、残っている人数が少ないのだろう。その中で自分が残っているという状況に、雪乃はますます嫌気がさす。
速やかに支度を済ませると、逃げるように会社を後にした。
夜遅い時間ということもあり、道行く人の姿はまばらだ。視界の端に映るくたびれたスーツのサラリーマンも、今の雪乃と同じ心境だろう。
「あーもー、帰ってご飯食べるのめんどくさいな。仕事多いし、疲れたし」
独り言を呟きながら歩くが、口にしたからと言って胸の内がすっきりすることはなかった。犬の散歩をしている主婦から視線を感じ、口を閉じる。独り言を聞かれた恥ずかしさもあり視線が泳ぐが、不意に一つの看板が目に入った。
「お好み焼き屋べったりこ・・・」
そのインパクトのある店名に、雪乃は思わず足を止めた。仕事の失敗に落ち込み、下を向いて歩いていることが多いからか、これまで帰り道にお好み焼き屋があることに気付かなかった。名前のわりに、レトロで雰囲気のある店構えをしている。石畳が敷かれ、道の横には小ぶりな灯篭が等間隔に置かれていた。黄みがかった温かみのある光が道を照らし、雪乃は吸い寄せられるように、手動式の戸に指をかけていた。
「お腹すいたし・・・、たまにはお好み焼きもいいよね」
誰に問いかけるでもなくそう呟くと指に力をこめ、戸をスライドさせた。薄いクリーム色の戸がガラガラと音を立てる。その予想通りの音に、雪乃は少し嬉しくなった。
「いらっしゃいませぇ、何名様ですか?」
「あ、・・・ひとりです」
「お好きな席へどうぞ~」
夫婦で営んでいるのか、五十代程の男女の他に、バイトの姿は見当たらなかった。テンポの緩い声に雪乃は力が抜けるのを感じた。
平日の遅い時間帯だからか、雪乃が思っていたほど席は混んでいなかった。鉄板が机と一体化しているためか、四人掛けの席か、大人数向けの座敷しかない。一人で四人掛けの席を独占するのは少し気が引けたが、逡巡したのち雪乃は入口から少し離れた席に座ることにする。メニュー表を手に取ると、種類の多さに驚く。スタンダードな豚玉、ミックス玉、モダン焼きにもんじゃ焼き。変わり種だと長芋と梅が具材の梅玉と言ったメニューもある。サイドメニューも豊富で、サラダだけでも四種類あった。
「お決まりでしたらお呼びくださいねぇ」
そう言って水とおしぼり、大小のコテを置いていく。水を一口飲み、あたたかいおしぼりで手を包むと、雪乃はようやく一息つけたように思う。改めてメニューを見直すと、トッピングがあることに気が付く。コーンにちくわにベーコン、とろろと、これまた種類が豊富だ。悩んだすえ、雪乃は二種類のトッピングを決める。
「すみません、注文お願いします」
「はいよぉ」
「豚玉に餅とチーズをトッピングで、あとウーロン茶ください」
「はい、じゃあ鉄板の電源入れますねぇ、熱くなるんで気を付けてください」
注文票を書き電源を入れ、キッチンへ戻っていくという一連の動きは流れるようだったが、お好み焼きの生地を用意するのも同様に速かった。生地の入った器とマヨネーズ、伝票を机に置くと「ごゆっくりどうぞ」と一言加え、下がっていった。
お好み焼きの生地が入った器は重く、落とさないように慎重に持つ。豚玉という名前から、入っている具が豚肉くらいだと思っていたが、他にも桜エビ、紅ショウガ、生卵、ねぎと言うように、具沢山だった。さらにそこにトッピングの餅とチーズだ。なかなかのボリュームになっている。トッピングの餅は予想以上に大きく切られており、短冊形のものが六切れ入っていた。食べきれるか若干不安に思いながらも、雪乃は柄の長いスプーンで生地を混ぜ始める。スプーンが卵の黄身をつくと、若干の抵抗ののちプツンと弾ける。黄身が生地に絡まる頃には全体が良く混ざり、お好み焼きの生地らしくなっていた。鉄板に油をひくと、生地を流し込む。あまり広がらないように気を付けながら綺麗な丸をつくる。普段お好み焼きを焼く機会などないため、雪乃はだんだん楽しくなってきていた。つくり始めると、いかにきれいなお好み焼きをつくるか、こだわりたくなってくる。
小学生くらいの時にも、家で祖母とお好み焼きをつくっていたことを不意に思い出す。その時は今ほど具の種類は多くなかったうえに、やたらと天かすを多く入れていた。おそらくあのサクサク感を好んでいたのだろう。当時の生地は粉っぽく、餅もチーズも入っていなかったが、味以上に誰かとお好み焼きをつくること自体が楽しかったのだ。
「懐かしいな・・・」
昔の記憶に思いをはせていると、時間が思った以上にすぎていたのか、生地に火が通り、鉄板に面している側は少し焦げ目がついていた。雪乃は慌ててひっくり返すが、焦ったためかきれいな丸だったお好み焼きの形は若干いびつになっていた。
両面とも焼けた頃、もう一度ひっくり返し、そこでようやくタレに手を伸ばす。タレをはけで万遍なくぬると、お好み焼きの表面は艶やかに輝いた。次にマヨネーズだが、自家製らしくよく見かけるチューブタイプではなく、小さな器に一人分だけ用意されている。市販のものより薄い色をしたそれをスプーンですくい、中央にのせると円を描くように広げる。マヨネーズを覆うようにかつお節をかけるが、これは中央部分を多めにかけることで立体感を出す。そして最後に青のりをふり、完成だ。
雪乃は我ながらおいしそうに出来たと自画自賛する。
ケーキを切るようにコテをいれると、すきまにタレが流れジュワッと激しい音を立てる。それだけでも食欲がそそられるが、タレのこうばしいにおいがより強くなる。視覚と聴覚と嗅覚を同時に刺激され、小皿によそう余裕がなくなる。雪乃は我慢できなくなり、コテでお好み焼きをそのまま口へ運んだ。
「あっふ!」
舌を火傷しそうな熱さに驚き、急いでウーロン茶を飲み込めば、熱さも和らぎほっと息を吐く。
鉄板の熱気に汗が出るが、今日はもう帰って寝るだけだ。メイクが崩れることを気にする理由もない。流れる汗を手の甲で拭い、改めて小皿へ六等分したうちの一つをのせると、お好み焼きにかぶりついた。
餅とチーズがにゅーんと伸びる。
このトッピングを選んだのは初めてだったが、雪乃は思った以上に相性が良いと感じた。マヨネーズは優しい味わいで、こってりとしたチーズと味の濃いタレによく合っている。かつお節が熱気で踊っているのを楽しみながら箸を進めた。
テンポよく食べ進めていたため、最後の一切れになるのも早かった。何となくさみしさを感じながらも、今までより味わって食べることにする。最後の一口は殊更ゆっくりと飲み込んだ。
「・・・はあ~」
お好み焼きの後味を名残惜しく思いながらも、塩分で渇いた喉を潤すために残りのウーロン茶を飲み干す。少しの間何も考えず、ぼんやりと鉄板に残った生地の欠片を見つめていたが、すぐに頭を切り替える。コテで欠片を隅にまとめると、財布を鞄から取り出し立ち上がる。
「お会計お願いします」
店から出る頃には十二時を回っていた。明日も仕事があるため、早く家に帰るべきだったが、胃袋が満たされているからか急ぐ気にはなれなかった。店に入る前に感じていた、仕事に対する焦燥や鬱憤も雪乃はいつの間にか感じなくなっていた。
「しょうがないし、明日も仕事がんばるかぁ」
説教の多いお局様も、コンプレックスを突いてくる有能な同僚も、趣味に合わないオシャレなカフェも、今は少しだけ受け入れられる気がした。
―――チームリーダーだけは、やっぱり向いてないと思うけど。