童話
すう、と息が聞こえてグレムが本から顔をあげれば、ヘイレンが眠りに落ちていた。そこまで子供になりきらずとも、とグレムは思うがそのままにしておいた。
それにしても、と本を閉じる手が震えた。
ラヴァがいかに選ばれた民の末裔か、そして他の国の民はどんなに哀れで、そして憎むべき者なのか。その選ばれし民はどんな偉業をなした英雄か。子ども向けに書かれた童話ではあるが、それでも「自分はラヴァである」ことを印象づけるには十分なものだった。
グレムはこの話が嫌いだった。憎んでいた。
だが、それを言えばたちまち軍で裁判にかけられる。火刑か、縛り首か、八つ裂きか。グレムはそれを避けねばならなかったし、そうなるようにするほど愚かでもない。
静かに本を、整頓されたところに戻す。棚の上にあった鏡を落としそうになり、慌ててそれを押さえ、元の場所に戻す。写し出された持ち主の彼は熟睡したのか身動きひとつせず、規則正しい吐息をグレムに聞かせ続けた。
グレムは書かねばならない書類を書き、印を押す。この切迫した状況で、死亡書類や医薬品申請の書類、人員確保の申請書が意味をなさないことはよくわかっていた。だが、書かなかったら書かなかったで、後で上官が嫌みたっぷりに視察しに来て、医院の秩序を乱す光景を嫌と言うほど見てきた。
紙を無駄にし、誇り高きラヴァ兵士を配達と言う無駄なことに命を張らせ、かといって重要なことは書いていない、学習しろ――。何度ベルトで打てば上官の気は済むのだろう?
グレムは辺りの気配を見た。ヘイレンは静かにベッドの中だ。音を立てずに細く戸を開ければ、がやがやと兵士たちが動いているのが目に入る。
再び音を立てずに戸を閉め、ヘイレンの様子を確認する。彼の鏡には、変わらず彼の姿が写っている。
それを確認すると、彼は部屋の中央に移動した。彼が目を瞑ると、その身体は粒子のように溶けだした。一粒一粒が淡い光を放ち、静かに消えていく。ぱさり、と乾いた音ともに彼の衣類は床に落ちた。
のそり、とヘイレンが起きる。彼は眠ってはいなかった。そして、今晩は眠れないと感じていた。
心臓が早鐘を打つ。まるで心臓が耳に移動したのではないかと思えるくらい、その音は鮮明に感じていた。
ヘイレンは鏡を通してグレムを見ていた。本を戻すとき僅かに視界がずれたが、それでも全てを見ることができた。
彼は光の粒子になった。この部屋から音も立てずに消えていった。それが証明するものは、ただ一つだった。
(グレム医師は、……ラヴァの、英雄だ)
その本の背表紙を撫でる。
童話は、実在した。