ベルナデッタと灰色の瞳
世の中には、どうしても気が合わない人間が居るものだ。精神、行動、言動、文化、宗教、癖、それらは人それぞれ違うものであり、たとえ同じものに触れても感じる事が同じであることは決してない。それが普通だし、そうでなくては社会は成り立たないだろう。同じ人間が沢山いる事程恐ろしい事はない。私は個人の感じ方の違いを尊重するし、それは愛すべきものだとさえ思っている。個人の感性の違いによって起こる争いは仕方が無いことだし、寧ろそれが起こらない方が恐ろしい。全体主義なんてモノに対しては、吐き気すら覚える。
私にとってのソレは、とても強く美しい男だった。
エルベルト・ルディーロはどこまでも完璧な男だった。
生まれ持った美しい容姿に洗練されたスタイルは、街を歩くたび沢山の人の目を引きつけた。奴の巧みな話術は女を楽しませ、仕事相手の警戒心を解いて仕事をスムーズに行い、部下を強く育てた。奴の意志の強さと不屈の精神は、仲間をどんな状況でも奮い立たせた。さらに腕っ節も強くて銃やナイフの扱いも上手く、奴にかかればどんなターゲットもハデスの元へと行く事になる。人柄も、少々キツイ所もあったが、誠実な人間であった。
綺麗な容姿と洗練されたスタイル、話し上手の聞き上手、腕っ節が強く自分の意志を貫き通し、仕事も華麗にこなす誠実な奴。唯一の欠点と言えば、煙草と、すぐに手と足が出るくらいか。奴は完璧だ。だから、私は奴が嫌いだった。
奴は私が持っていないものを全て持っていた。私がどれだけ努力しても手に入らないものを、奴は全て持っていたのだ。私がようやく追いついたと思っても、奴はもう既に百メートル先に居る。どれだけ努力しても、この百メートルの差は縮めることが出来ない。それがとても悔しかった、それを思い知る度私は途轍もなく惨めな気持ちになるのだ。
だから、奴の隣を歩く時はいつも気分が沈んでいた。この美しく強い男の隣にいると、自分がチンケで取るに足らない存在だと思えてくるのだ。自分が、いつか仲間から切り捨てられるのではないか、と不安になるのだ。だから、奴と話すことは、拷問とすら思えた。奴と組んで任務をしなければならないとなったら、それはもう世界の終わりだった。
奴に部下が出来て、本当によかったと思う。随分と出来が悪いと奴はぼやいていたが、奴に教育対象が出来たことで私が奴と組むことは減った。私は主張の少ない胸を撫で下ろし、臆病な少年が人道を踏み外したことを心底喜んだ。そして自分のその感情に気付き、また己がとても嫌な考えを持ったことを酷く後悔するのだ。馬鹿らしい、と一言で済まされることかもしれないが、詰まる所私にとってのエルベルト・ルディーロは自己嫌悪に陥る地雷だったのだ。
奴は仲間に優しい奴だ。ファミリーの奴らの結婚記念日には必ず祝福をし、身内に何かが有ったら真っ先に心配をする。よく笑い、よく仲間と酒を酌み交わす。私はバールで行われるその様子を見ながら、娼婦達と世間話に打ち込む。奴が居る空間には入りたくない、辛くなるから。奴はこんな私にまで優しいのだ。私に「こっちに来ないのか」と誘いをいれるのだ。ふざけるな、と私はその度に怒鳴りつけたくなる。
私はこんなにもお前を嫌い避けているのに、なんでお前は私に声を掛けるのだ。なんでお前はそこまでいい奴なのか、と。
奴曰く『出来の悪い』部下はよく奴に殴られるが、奴は殴ったあとに必ずフォローを入れる。
「お前はやれば出来るやつだ、しっかりしろ。お前の才能はこんなもんじゃないんだ」
そう言って、弟分のモチベーションを下げさせないのが奴の力量だ。メキメキと臆病なチンピラだった少年は、一人前のマフィアへと成長して来ている。奴は教育者としても、とても優れていた。それに加えて察しも良い奴は、少年の不安を感じ取りそれを解消して行った。
そう、奴は察しの良い男だ。
きっと奴は、私が奴の事を嫌いだ、ということを察していたであろう (そんなところが、実に気に食わない) 誰だって、自分の事を嫌っている人間を好むことは無い。特別な性癖に目覚めた者なら、可能性はあるかもしれないが…奴はいたって普通の性癖だ。だから奴は確実に私の事を苦手意識していた、いや、嫌っていた。事実、奴は私と組む時私と奴は何時も眉間に皺を寄せていたし、奴は煙草の量も増える。私は煙草の煙の匂いが嫌いだから、益々眉間に皺をよせる。それを見た奴の煙草の量がまた増える。奴の部下も、何時もの余裕な態度から一変した自分の上司を見てオロオロしているばかりで、最高に雰囲気が悪い(先程『奴と組むことは減った』といったが、あれは言葉通りの意味だ。組む事が『減った』だけで、無くなってはいない)なのに、奴は私の事を仲間として大切にしてくれるのだ。奴は私を見て眉間に皺を寄せつつも、私の事を労わるのだ。必ず、「ご苦労、助かった」と一声私にかけるのだ。酒の席でも、少ない仕事の時も、奴は私の事を嫌いながらも仲間として大切にしてくれるのだ。その事を思い知るたび、私はまたもや自分がチンケな存在だと思ってしまう。だから、奴のことが益々嫌いになる。この気まずい悪循環も、奴のことを嫌う理由なのかもしれない。
奴は私が仕事に加わった時、長いコンパスの足でオロオロする部下を置いていくような速さを出して歩く。何時もはきっと違うんだろう、部下が「どうしてそんなに早く歩くんですかい?」と聞いていたから。私は、何故だか奴に置いていかれるのが癪で、小走りで追い付いて奴の灰色の瞳を見るのだ。偶然目が合うと、何故か一瞬驚かれてさらに眉間のシワが増える。嫌われているのはここまでも明らかなのに、私は奴に必死に縋りつこうと中途半端な高さの踵の靴で走るのだ。何故かは自分でもわからない。そんな時もしかしたら、奴に対する嫌がらせの類かと思ってしまう。そして自分が益々矮小な者に思えてしまい、嫌になるのだ。
やつの部下の名は、カルロ、といった。
カルロはとことん運の無い奴だった。カルロが何故こんな人道外れた人生を送ることになったのかを私はよく知らないが、噂話によるとストリートで日和っていたチンピラになりかけのカルロは、仲間に裏切られたらしい。まだ堅気としての感覚が根強く残っているカルロは、人を傷つけることに消極的だ。臓器、薬、闇金、詐欺などの悪どい仕事ばかりをするこのファミリーに下ることになって、未だに人を殺めたことが無い。道端の蟻すらも避けて通る少年は、眩しいくらい純粋で正直者で臆病だった。
そんなカルロを奴はしごき倒した。現状と自分が今やるべき事を飲み込ませるために、自分の仕事にカルロを頻繁に連れて行った。物覚えの悪いカルロは、その度に殴られながらホームに帰って来た。グスグスとべそをかくカルロを奴は殴った後とことん褒めて、カルロを決して腐らせないようにした。褒めることは、成長に繋がる。カルロはメキメキと成長し、純粋さと正直さを残したまま臆病な自分を克服して行った。
頭の悪さに定評を持つカルロも、流石に私とエルベルトは仲が悪い、ということに気づいていたようだ。カルロにとってエルベルトは上司であり、己の生きる道を示した先駆けであったから、カルロは暫く私を避けていた。私が視界に入ると、テニスボール大の苦虫を噛み潰した様な顔になるエルベルトを見ていては、無理もないだろう。師が私と一緒にいると、目に見えて嫌がるのだ。私は別に気にしてはいなかったし、どうしようともしなかった。
ある日、本当に何気ない日常の延長上のある日。カルロが一人でホームに帰って来た。どうやら、エルベルトがブチ切れて帰らせたようだ。こんな事は、時折ある。本当に時折。だが、私には何と無く分かる。奴はカルロを守るために帰らせた、カルロを連れて行くには危険過ぎる仕事だったんだと。本当に、さりげなく格好いい事をしてくれる奴だ。だから気に食わない。
カルロはどうやら怪我をしている様だが、手当を出来ずにいた。自分が殴ったアフターケアをも忘れないエルベルトだ、どうせ何時もカルロの怪我の世話もしてやっていたのだろう。エルベルトはカルロの上司を通り越して、お母さんか、とさえ思えてくる。それに、私がダイニングで銃の手入れをしているから、きっと気まずくて救急箱を取りに行けないのだろう。痛そうにしながらウロウロするカルロを見て、私は銃の手入れを中断して立ち上がり手を洗った。ビクッと肩を飛び跳ねさせたカルロに、苦笑いで手招きをして救急箱を手にとってソファに座る。何も悪いことをしていないのに、半端ない罪悪感に襲われた。
「何をしている。傷、痛いだろう?こっちに来い。」
「は、はい……」
「そんなに畏まらなくてもいい。とって食いやしない。」
何で私が罪悪感を感じなきゃならんのだ。改めて考えるとおかしかったからフと大きく息を吐いて、おずおずと私の隣に座ったカルロの傷を見る。どうやら数箇所をナイフで切られたらしい。カルロにはまだ早い仕事だったんじゃないか、それほど深い傷ではなくてよかった、と思いながら、消毒をしてガーゼを当て包帯で固定する。濡らしたタオルで血を拭き取って、手当は終了した。
「よし、もうすぐお前の上司も帰ってくる頃だろう。…どうした?」
救急箱を片付けている私をじっと見るカルロの視線に気づき、尋ねる。だがカルロの目を見ると、尋ねる必要はなかったと分かった。茶色い瞳は口よりも物を言っていた。『何故自分を手当てしてくれたのか、この女は悪い女じゃなかったのか』と。
「単純な思考回路に陥ってはならない、と奴はお前に教えなかったか?」
「え?」
キョトンとしたカルロの頭をポンと軽く叩いて、私は重い空気を纏うカルロに紅茶を淹れた。気に入っている香りのジャスミンティーだ。マグカップに注いだそれを見て、再びカルロはキョトンとする。…どうやら、頭が軽いのは本当の様だ。
「私はお前の事を恨んでいる訳では無い。お前は私にとって、大切なファミリーだ。勿論……エルベルトも…嫌いだが恨んではいない」
「ならどうして」
食いつくように私の言葉に突っかかったカルロは、言葉を口に出してからハッとして私から目を逸らした。
分かるよ、『ならどうして、自分の素晴らしい上司にあんな態度を取るんだ?』だろう?本当にカルロ、お前は正直者だ。そんなに考えが読みやすいままだったら、エルベルトから離れたらすぐに殺されてしまう。
少しカルロの将来が心配になりつつも、口角を少し上げたまま私は銃の始末をする。
「世の中には、どうしても気が合わない人間がいるものだよ」
とてもとても、さみしいことにな。
カートリッジを装填して、銃の始末を終えた私は自宅に帰る身支度をした。カルロの手の中のジャスミンの香りは、未だに香ってきているがもうすぐ冷めてしまうであろう。
「いい上司を持ったな、カルロ。今日お前は命拾いしたぞ」
ぼんやりと私の様子を見ていたカルロに私はおやすみ、と続けて部屋を出た。とっさに隣の部屋に誰かが動く気配を目敏く感じた私は、それを無視して家路についた。もし奴であったなら……と考えもしたが、奴がこんなに早く戻ってくるはずない、と至ってこの考えは頭から振り払った。もし、先程の話が隣の部屋の者に聞かれていたとしたら、本当にこのオンボロ屋敷の壁の薄さは困りものだ。
その日から暫く経って、私とエルベルトの距離感は少し近くなったような気がする、全体的に見れば相変わらず遠いままだが。奴が噛み潰す苦虫が、ゴルフボール大にまで小さくなった、理由は何故だかは知らないが。だが、相変わらず歩くのは早いし、綺麗な灰色の瞳は私を見るたびに一瞬見開かれて歪められる。それは全く変わらない。それに比べて、カルロとは随分と近くなれたような気がする。大体十メートルくらいに。
エルベルトが非番で、ホームに私とカルロだけになったある日の真夜中。カルロはついに私にあの質問をして来た。
そう、『どうしてエルベルトさんの事が嫌いなの?』だ。
私は少し悩んだ。エルベルトに対しての感情は、私にもよく理解できていないのだ。奴のことが嫌いなのに、何故奴に必死でついて行こうと走る理由がわからないのだ。大嫌いなはずの奴の瞳を、あの綺麗な灰色の瞳を見ようとする理由が。
奴がこの場にないのなら、もう、話してしまおうか。私の胸の内を知らせてしまおうか。このドロドロとした苦い感情を、奴への嫉妬とも羨望とも言えない思いを。もしかしたらこの場にいるカルロが奴に伝えるかもしれない。そうすれば、もう奴は私に近寄らないだろう。奴は私を仲間として大切にしないようになるだろう。自分に対してこんなにも醜い感情を抱いている女になんか、二度と組みたいとなんか思わなくなるだろう。それはいい、実にいい、最高だ。私の苦しみは奴によって引き起こされる、奴が苦しみの根源なのだ。
胸に沸く嫌な気持ちを頭を軽く振って打ち消し、私はカルロの質問に答えた。
「弱点、という言葉は、当然知っているな?」
「う、うん。もちろんさ!」
「ならよし。端的に言うとエルベルトは私の弱点だ」
「え?……それって、詰まり、どういう…?」
案の定ちんぷんかんぷんのカルロは、首を傾げた。勿論、私もこの説明でカルロが理解するとは小指の先ほども思っていない。指先を組んで、私は続けた。
「弱点の意味はその者の後ろ暗いところ、弱いところ。詰まり、私の後ろ暗くて弱いところは、エルベルト・ルディーロという一人の男の存在だ。奴を突つかれると、私はてんでダメになる。自分がチンケで取るに足らない矮小なダメ人間だと思えてしまうんだ」
これの心情を人に話すのは初めてだった。仲のいい仲間にも、娼婦にも話したことがない。自分の心情は、口に出してみるととても情けないものだった。
カルロは情けないそれを聞いて「だからエルベルトさんの事が嫌いなのかい?エルベルトさんは凄くいい人だよ?」とプリプリ怒った。確かに、こんな下らない理由で自らの師を嫌われていたのでは、怒りたくもなるだろう。
「カルロ。お前の弱点はその『早とちり』な所だと、エルベルトは言っていなかったかい?話はまだ終わっていない。
お前が言う通り、エルベルトはとても良い男だ。とてもとても、素晴らしい男だ。容姿、スタイル、話術、腕っ節、意志の強さ、誠実さ。どれをとっても一流の男だ。………私がどれだけ努力しても奴に追い付くとは出来ない、奴は私が血汗を流しながら走り切った道程を呼吸を乱すことなく走って見せる。それも私より速く。
ああ、カルロ。勘違いしないで欲しい……持って産まれた才能もあると思うが、奴は、エルベルトは努力の男だ。それは百も承知だ。そしてそれを誰にもひけらかすこと無く、続けることの出来る素晴らしい男だ。私にとって、とても眩しい存在だ。奴は決して、疎ましい存在なんかじゃない」
またちんぷんかんぷんのカルロは、申し訳なさそうに「わかんねぇよぉ」と呟いた。嫌いな人間のことをベタ褒めする理由が分からないようだ。カルロの中では嫌いな人間の事を褒めることは、あり得ないことらしい。
困ったことだ……私は、エルベルトのように口が上手くはないし、自分の心情を言葉にするのが苦手だ。カルロに分かりやすく説明するのは、とても難しい。第一、私自身も自分の心情が矛盾している事に気付いているのだが、四半世紀生きてきた人生の中で初めて持ったこの心情に名前を付ける事は、容易ではない。もし名付けられたのなら、私はここまで苦しみ悩まないであろう。私はカルロに出来るだけ分かりやすく話そう、と口を開いた。
「そうだな……弱点が明確である場合、お前はそれをどうしようとする?」
「もちろん、克服しようとするっ!」
エルベルトからくどいくらいに言われていたのだろう。飛びつくように答えたカルロに思わずフフと笑みが漏れる。カルロは頭が悪いが、どこか放っておけない愛嬌があるのだ。きっと、それも奴がカルロに過保護になる理由だろう。
「そう、正解だ。私は奴を克服したい、奴と同等またはそれ以上の価値を持つ人間になりたい。そのための一番の近道は、奴を理解する、ということなんだ。結果を改めるには、原因を理解しなければならない。それと同じで、弱点は明確でも、それを理解していなければ克服することができない。けれど……考えて考えて考え抜いても分かるのは、エルベルト・ルディーロがとても素晴らしい人間だという事実と、ベルナデッタ・マクスウェルはエルベルト・ルディーロに遠く及ばない人間だという事実だ。その事を奴の隣にいると嫌でも思い知ることになる。嫌な悪循環だ。奴を克服したい理解したいと強く願い考える程、私は奴との差を思い知り絶望する。そして再び奴を克服したいと強く思う様になる。奴が居る限り、この悪循環は終わらない。私の絶望は、奴を克服するその時まで続く。だから、私は奴が嫌いだ。だが、私は奴を誇りに思うし尊敬すらしている」
一通り話終えて改めて顔を上げ、頭からプスプスと煙を出しそうなカルロを見て、やはり私は教育者としては落第点だな、と思う。奴のように話すことは、到底出来そうにもない。
「お前にもいつか分かる時が来るさ、きっと。」
そう言って私は身支度をし、カルロに背を向けてドアを開けた。次の瞬間、私は固まる。ドアの向こうには、奴の…エルベルトのコロンの残り香が漂っていたのだ。
即座に私は悟った。先ほどの話が奴に聞かれていたと。奴は随分と長い間、私がカルロに話し始めてから話終わる終わる直前までここに居たと。あの矛盾しまくった嫉妬とも羨望とも言えない感情を、全て聞かれていたと。
腑が煮え繰り返る、とはこういうことを意味するのだろう。考慮していたカルロから奴に伝わることと、奴が先程の私の話を聞いていたことは結果的には同じ事だ。だが、私は奴が何も言わずに聞いていたということに怒りを覚えた。なにか、なにか言ってくれたのなら。このあさましい醜い感情に対して、聞いて立ち去るのではなく、何か面と向かって言ってくれたのなら。こんな怒りはきっと覚えないであろう。常に冷静な判断が下せるように努めていた私だが、そうあるのはもう無理そうだった。
「…あの野郎…」
そう呟いて、ドアを勢い良く閉めるとオンボロ屋敷から飛び出した。
奴はすぐに見つかった。
街灯のオレンジ色の光に照らされて、奴の錦糸のようなブロンドが輝いている。大嫌いな煙草の紫煙と高級ブランドのスーツを纏ったエルベルトは、どこからどう見てもいい男だった。
屋敷のすぐそばの路地裏で煙草をふかせていた奴は、街灯に照らされる私を見て灰色の瞳を一瞬見開き、歪めた。
「盗み聞きとは趣味が悪いな、エルベルト」
歯をぎりり、と食いしばり私は煮えたぎる心を抑えた。さもないと、私はこの男に殴りかかるだろう。この男を殴り倒し、口汚く罵るだろう。そして奴は一切反撃しないだろう、奴は女子供構わずに殴る時は殴る奴だが、私には何故か奴が殴り返してくることはないと分かった。
「盗み聞きじゃねぇ、聞こえちまったんだ」
「それにしては随分と長く、聞こえてしまっていた、ようだな」
フゥー、と紫煙を肺から吐き出した奴は、視線と煙草を私に向けてそう言った。
「煙草の火を消してくれないか?私はそれが嫌いだ」
奴はすぐさま携帯灰皿に、煙草を押し付け紫煙を途切れさせた。ああ、こうやってすぐ火を消して、人の嫌がることを避けるのもこいつの人徳を上げる一因だ。どうやらエルベルト・ルディーロという男は私の腹を煮えさせる達人らしい。どの口がそれを言うか。香りが残るほどあの場所に居続けて、私の話を聞いて、それで何も言わずに立ち去って聞こえちまっただと?
私は眉間に皺を寄せて、唇が切れるほど歯を食いしばり怒りを押し殺して、口内に鉄の香りを感じながら次の言葉を紡いだ。
「…なぜ、あの話を聞いて何も私に言わない?何か言いたいことはないのか」
馬鹿にされてもいい、嘲笑われてもいい。私の目の前にいる男に対する醜い感情には、嘲笑こそが相応しいのだ。なのに、奴は何も言わない。私の気持ちを知っても、何も思わないのか。だとしたら、なんと惨めなことか。なんと苦しいことか。
そんな私をよそ目に、何か言うことなぁ……と奴は煙を肺にいっぱい吸い込み吐き出す程の間をとった。
「なんだ、俺は熱烈な告白でも受けたのか?」
「そう聞こえたのなら、私はお前の耳掃除を喜んで引き受けるぞ」
「冗談だ。…で、どういう風の吹き回しだ?」
エルベルトはそこで言葉を止めたが、お前が俺を賞賛するなんて、と続く言葉は顔に書いてあった。
「さっき、私が言ったことに嘘偽りは無い。全て私が本当に思っていることだ。私はお前を素晴らしい男だと思うし、お前のことが嫌いだ。それ以上の意味は無い」
「あぁそうかい。俺もお前のことが嫌いだ。」
「知ってる」
そう言うと、奴は何時ものように高飛車にハン、と笑った。
ああ、知っているとも。私を見る度に眉間に皺を寄せて、苦虫を噛み潰すお前を見て、わからない方がおかしいのだ。お前が私を嫌っている、そんなこととうの昔から知っていた。
だけど、面と向かって言われたのは初めてだった。仲間に優しいエルベルト・ルディーロが、言葉の刃を私に振り下ろしたのは初めてだったのだ。私にとって大嫌いで羨ましくて、とても眩しく誇らしい者によって振り下ろされた刃は、少しだけ…ほんの少しだけ、鋭かった。
「お前はよぉ、いい女だぜ、ベルナデッタ」
「はぁ?」
口内に溢れる血を飲み込み、私は眉間にシワを寄せた。いきなりこの男は何を言うのだ。こんな惨めで無様なお前の足元にも及ばない奴が、いい女だと?
ふざけるのもいい加減にしろ。そう怒鳴りそうになった私に被せて、奴は再び口を開いた。
「容姿も決して悪いもんじゃあねえし、聞き上手でもある。頭もいいし、仕事も真面目にこなす。仲間に対する思いやりもあるし、意思も強い。それに…何より努力を惜しまない所がいい。
少しでも俺に追い付こうと、血反吐吐くほど努力するのは見ていて感心する。健気で可愛らしいくらいだ。
だがな、俺に対する劣等感の塊なのが気に食わねえ」
エルベルトが話した内容に思考が追いついて行かなかった。あまりにも突飛なその内容は、私を間抜けヅラにさせるのに十分過ぎた。
奴はぽかんと口を開けて固まる私を笑わずに、綺麗な灰色の瞳で真っ直ぐ見つめる。長い沈黙が、私たちの間に降りた。
「お前は持っと自信を持って良いんだ、何でお前ぇ見てえなベテランに、新米のカルロとおんなじ事を言わなきゃなんねぇんだよ」
それを断ち切ったのはエルベルトだった。
舌うちをして、襟足を苛立たしげに掻き毟る。私はその間も困惑したままだった。だから、エルベルトが私の横を通り立ち去った事への反応も遅れて、私は誰もいなくなった路地裏を見ることになる。
「あ……まって」
奴の革靴の音が聞こえなくなったくらいでようやくハッとし振り向いたが、もう小さく呟いたその声が届かないほど奴は遠くにいた。
追いかけようか追いかけまいか一瞬悩み、一歩を踏み出した。
えもしれない感情が、まるで縄のように私の胸を締め上げる。段々浅くなって行く呼吸も痛くなって行く心臓も、「今すぐ奴を追いかけろ」とうるさい程叫んでいるのに、私は第二歩目を踏み出すことはなかった。奴の背中は、暗闇に消えて見えなくなった。私はそこからしばらく動くことが出来ず、呼吸の深さが元に戻っても暫く奴が消えた暗闇をじっと見つめていた。
「……世界の終わりだ」
私は奴が運転する車の助手席で目頭を抑えて、口の中でそう呟いた。「あぁ?なんか言ったか?」と聞いてきた隣で長い御御足でアクセルを踏むエルベルトに、いかにも何もなかったような平たい口調で「何でもない」と返すと、ドッと疲れが湧いてくる。ああ、コレだ。だから嫌だったのだ。奴との仕事ではいつも気疲れしてしまう。
エルベルトとの仕事は、あの路地裏での出来事から数週間経った頃に突然入った。あれから私たちはそれぞれ、オンボロ屋敷に戻る暇なく働き回っていた。だからお互いの存在を気にする暇もなく、あのエルベルトが吐いた言葉を頭の中から一時的に放り出すことが出来ていたのだ。仕事に逃げ、悶々と悩まずに済んでいたのだ。そんな逃げ場となっていた仕事に、奴が現れたらたまらない。望みの綱であったカルロも、今日の仕事はまだ早いということで待機だ。ちくしょう、血も涙もない。
『奴と組む仕事』ということ、それはつまりベテラン二人の力がいるそれなりに危険な仕事、ということ。今日は臓器密売屋の始末。B級映画の様に下らない理由で命じられたそれは、ターゲットがなかなか現れず、C級映画の様に時の流れを遅く感じさせて私の精神をゴリゴリと削っていった。奴の先日言った言葉がどうしても気になってしまう。奴を目で追って、視線がかち合い、急いで町の雑踏に逸らす。その繰り返し。
いい加減うっとおしくなってきたらしいエルベルトは、舌打ちをして「どうした」と言った。ヒュウ、と喉の奥で小さな音をたてて、吸い込まれそうな程の綺麗な灰色の瞳は私の呼吸を止める。どこまでもまっすぐで、濁りがないその瞳は羨ましい程輝いていた。
「この前のアレは、一体どういう意味だ」
私は、震える唇を無理矢理こじ開けて言葉を発する。
先日の、エルベルトが私に言った言葉。私がいい女、私には良い所が沢山ある、自信をもて、という内容のそれ。それは、それはまるで。まるで私が価値ある人間だと言ってるようじゃあないか!!こんな醜い感情を抱く女を、お前は価値ある人間と称するのか。
それが受け入れ難く、それを言ったのがエルベルトだという事実も加わって、私の心臓は激痛で悲鳴を上げた。
エルベルトは震える声色でそういった私を、かつて見たことが無い位の鋭い目つきで睨んだ。灰色の、猛獣を連想させるそれは、私の臓腑を貫きさらなる痛みを私に与える。
負けてたまるか。と、私も奴を睨み返してもう一度小さな声で「どういう意味だ」と繰り返すと、奴は私のネクタイを乱暴に掴み「二度も言わせんじゃねぇ」と、焦点が合うギリギリの位置まで顔を近づけた。
「お前は俺の隣を歩きたのか?それとも、俺を踏み潰してその先へ進みたいのか?どっちにしろその辛気臭いツラのままだったら無理だぜ」
息が混ざり合う程近くで発せられたその言葉は、先日の言葉よりも深く私の心臓に突き刺さった。呼吸が止まり、暫しの沈黙が私とエルベルトの間に降りる。
隣を歩くか、踏み潰し先へ進むか。
その選択肢がグルグルと奴に貫かれた臓腑を駆け巡る。なんだか、吐きそうな気分だ。醜い感情と奴の言葉が混ざると、気持ちが悪くなる。青くなった私を突き飛ばして沈黙を断ち切ったのは、またしてもエルベルトだった。
「三度目はねぇぜ。………俺は向こうを見てくる、お前はこの場で見張れ。何かあったら、携帯に電話入れろ」
そう、珍しく目を見ずに言ったエルベルトは、いつの間にか少なくなって来た町の雑踏に姿を消した。やっと息をするのを思い出した私は、犬のようにハッハと浅い呼吸を繰り返しながら、エルベルトが消えた雑踏を見ていた。奴の事を追いかけようと、一歩を踏み出したが奴が言った事を思い出し、二歩目を踏み出すことはなかった。ふらりと足元がぐらつき、エルベルトが消えた雑踏の反対側にある広場へ続く石段に腰を下ろす。夜の冷気で冷えた大理石は、私の背筋にサブイボを走らせた。
エルベルト・ルディーロはどこまでも完璧な男だ。
生まれ持った美しい容姿に洗練されたスタイルは、街を歩くたび沢山の人の目を引きつける。奴の巧みな話術は女を楽しませ、仕事相手の警戒心を解いて仕事をスムーズに行い、部下を強く育てる。奴の意志の強さと不屈の精神は、仲間をどんな状況でも奮い立たせる。さらに腕っ節も強くて銃やナイフの扱いも上手く、奴にかかればどんなターゲットもハデスの元へと行く事になる。人柄も、少々キツイ所もあったが、誠実な人間だ。
奴は私が持っていない全てを持っていた。だから、悔しくて妬ましくて誇らしくて眩しかった。私の居場所は何時も奴の後ろで、光を浴びる奴の影を踏んで俯き歩く。それが、奴の所為だと思っていた。奴を越えなければ私は光を浴びることができず、奴の影の沼から抜け出すことができない。そう思っていた。そう思い込んでいた!
だが、それは違った。
本当は、分かっていた。心の底では分かっていたのだ。ただそれの在り処が、マリアナ海溝のように深く光が差さなかっただけだったのだ。誰にも、私自身にも見つけられなかったその答えは、ようやく発見され産声を上げた。
たくさんの者にこねくり回され手垢のついた歪な学説が、新たな遺跡の発見で根っこから覆されるかのように。私の心は新たな発見に熱を出して沸騰していた。
ウジウジと何時迄も左右の指先を擦り付けて奴の背中を妬むのは、もうやめよう。奴の背中とつま先ばかりを見つめて、自分を卑下するのは、もうやめよう。
光を浴びるためには、奴の影から抜け出さなくては。奴の背中ではなく、奴の目を見なくてはならない。あの綺麗な瞳は、横に並んで見上げるときっと更に美しく見えるのだろう。高飛車な笑い方は、嫌味なものではなく清々しいものになるのだろう。
中途半端な高さの靴を引っ掛けた足をブラブラさせて、ティーンの少女の様な仕草をする。
ふとした事で人道を踏み外し、そこからどんどん転落して冷たく腐っていた私の心は、今かつてないほどフレッシュで暖かかった。
ターゲットが現れたのは、エルベルトの元ではなく私の所だった。三人のクーラーボックスを持った、最高にクールで血生臭い装いのそいつらが現れた時からエルベルトとの通話を開始し、取引相手が現れたところで私はそいつらを始末した。
サプレッサーのくぐもった音と共に、クールで血生臭い奴らはさらに血生臭くなり、路地裏に倒れ伏す。全てヘッドショットだったため、起き上がってくる者はいなかった。私に反撃する者は居なかった。
「エルベルト、始末は完了した」
『了解、あと1分でそこに着くだろう。臓器を回収しておいてくれ』
「了解した」
奴らが取引をしていたクーラーボックスの中身を確認する。その中に入っていたのは、氷で冷やされた健康的な色合いの腎臓と肺であった。軽く吐き気を覚えながらも、確かに、と確認し、クーラーボックスの蓋を閉めた。
「臓器を回収した。任務」
終了だ、という次の句は出ることなく、代わりに乾いた発砲音が六発聞こえ、私の胸からフレッシュで暖かい鉄分たっぷりの鮮血が流れ落ちた。
どうやら、肺を二発、撃たれたらしい。近くにまだ仲間が潜んでいたようだ、油断していた。なんという失態だ、バカにされても文句は言えまい。
「う、お……ああ…」
遅れてやってきた圧倒的な痛みと熱でそう理解し、私は吐血して脳漿をぶちまけている奴らと同じように、石畳の上にぶっ倒れた。手を付いて受け身を取れなかったため、肩を強打する。息が思うように拾えず、代わりに血がダバダバと溢れ出した。
『ベルナデッタ……?ベルナデッタ、何事だ⁉︎』
取り落とした携帯電話から、割れた音声で奴の声が聞こえる。それと同時に、錯乱した様な若い男の悲壮な声がした。乱れた歩調でそれは走ってくる。
「畜生、畜生!この糞アマめ!よくも俺の仲間達を殺しやがって!!お前も殺してやる!殺してやる!地獄に落ちやがれ!!」
ゴツリゴツリと足音が近づき、仰向けにされた私の腹に刃物が突き刺さった。熱い体内に、冷たい刃が侵入する不快感と激痛。それが2・3回繰り返され、それは私の手によって止まった。私が男を撃ち殺したのだ。
逆上して冷静さを失った者程、殺しやすい者はいない。普段の状態では気づくであろう私の手の中の小銃に気づかなかった為、私は男を殺せた。もし、男が冷静であったのなら、今私の腹に埋まっている刃物を迷わず急所の首を突き刺したであろうし、最初の発砲でも頭を弾き飛ばせたであろう。冷静さを失った、それが男の死因だった。そして、私の幸運であった。だが、私の人生のうちの幸運はそれでもう尽きたのであろう。出血量からして、先程の傷が致命傷であったことは明らかだった。私の命がもうすぐ尽きることは、明らかだった。
震える足で立ち上がって、エルベルトがやってくるであろう方向に向う。壁伝いに歩けば、私の血が排水溝に吸い込まれて行く。腹に突き刺さった刃は、私の熱を奪って行く。それでも、私は歩いた。エルベルトに会うために、エルベルトに私の気持ちを伝える為に。
やっと、やっと分かったのだ。やっと、エルベルトと光を浴びて歩けると思ったのだ。中途半端な高さの靴を脱ぎ、エルベルトと向き合って、奴の綺麗な瞳を見れると思っていたのだ。なのに、なのに。私の足は動かなくなった。力が入らなくなった私は、膝を折って崩れ落ちる。無様に這い蹲って薄れる意識の中、私は犬のように浅い呼吸を繰り返す。
その既視感に、ようやく気付いた。それは、つい一時間ほど前の、エルベルトとのやり取り。奴が私に言った言葉。私の頭の中でエルベルトの声が再生される。
『三度目はねぇぜ』
そうか、あれは二度目だったのだ。
オンボロ屋敷の路地裏で一回、先程の雑踏の中で一回。私は奴を追いかけることを躊躇い、自分の心を殺した。今腹に刺さっている刃物からの痛みとは違う、締め付けられる心臓の痛み。それは、自分で自分の心を殺した痛みだったのだ。もう既に私は、二回のチャンスを使い切ってしまっていたのだ。自分の馬鹿さ加減に呆れる。私は自分の気持ちを殺して、それを伝えるべき男に辿り着けずにゴミの様に死んでゆくのだ。私はなんと愚かなのだろう。
這い蹲ってそう嘆いていた時、石畳を蹴る足音が近づいて来た。その足音が誰のものなのか、私には瞬時に分かった。そして、私は未だかつて感じたことがない程の歓喜に震えた。
「ベルナデッタ!」
私の名前を呼んだのは、エルベルト、その人だった。奴の足音は私のすぐそばで止まり、奴はスーツが汚れるにもかかわらず私を抱き起こす。そして、傷の様子を見て喉の奥で引きつった声を出した。奴もこの世界で生きてきて長い。もう私は長くない事に気付いたのだ。
「すまねぇ、俺の所為だ。俺の指示が不適切だった。俺の考えが甘かった…」
何故そんな事を言うのだ、エルベルト。これは私の責任だ、私の注意不足が招いた当然の結果だ。お前の責任なんかではないのだ。そう、エルベルトに伝えたいのだが、口が回らなかった。最期まで、なんと私は情けないのだろうか。エルベルトは、3度目の機会を私に与えてくれたというのに、それほどまでに私を、こんな不甲斐ない私を包み込んでくれているというのに。私は「気にするな」その五文字さえも、ろくに言えない。
最期の力を振り絞ってエルベルトの頬を血だらけの手で撫でた。奴の瞳が一瞬見開かれる。それはいつもと一緒だが、見開かれた後歪められる事はなかった。
薄く開いたまぶたの先に、ようやくまともに見れたエルベルトの綺麗な瞳がある。先程、ようやく気付いたこと、それを私は確信した。
私は、エルベルト・ルディーロの事が好きだったのだ。
どれほど速く歩かれても、どれほどエルベルトが先に居たとしても、追いかけることを辞めなかったのは、エルベルトと並んで歩きたかったからだった。エルベルトの綺麗な瞳を見て、歩きたかったからだった。異論はあるかもしれないが、私にとってそれは正しく恋であり、私を苦しめる元凶であったのだ。ようやくそれが理解できた。私は私の弱点を理解できたのだ。
理解できたそれを克服することは出来ないが、私は今幸せに満ちている。今なら、私はエルベルトと並んで歩いて行ける。エルベルトの影から抜け出し、光を浴びて歩いて行ける。自分のつま先ではなくエルベルトの美しい瞳を見て、奴の高飛車な笑いを清々しいものと感じることも出来る!
私は今、とても幸せだ。酒でも薬でも男でも手に入れることができない、極上の幸せを感じている。
だから、エルベルト。そんなに悲しそうな顔をしないでくれ。そんな悲壮な顔をせずに、笑ってくれ。眉間の山脈を取り払い、代わりに目元に深い谷を刻んでくれ。私はあなたの悲しそうな顔を見たくはないのだ。
私は広角を上げて、精一杯の笑みを作った。それを見て、エルベルトは眉間の山脈を取り払い、何時も通りの高飛車な笑みをこぼす。
「やっと笑やがった、バカ野郎」
その清々しい笑いは、私の消える意識の中で何度も繰り返された。エルベルトの綺麗な灰色の瞳を目に焼き付けたくて、瞼は閉じないままだ。
私の履く中途半端な高さの靴は、エルベルトのように速く歩くには高過ぎて、エルベルトと同じ世界を見るには低すぎた。その不安定な踵の靴で、どう歩くか。私が悩んでいたことは、唯それだけのことだった。
同世代の娼婦の様に高い靴も、エルベルトのように低い靴も選べなかった私は、女としてもマフィアとしても不完全だった。どっちにもなり切れず、どっちも捨て切れなかった。その選択肢に囚われたまま、私は自分の心を殺していた。だから気づくのが遅れたのだ。中途半端な靴を脱いでも、エルベルトの綺麗な瞳は見ることができる。エルベルトの隣に立って歩くことができるという事に。
永遠に訪れる事ない幸せを胸に抱いて、最後に見た灰色の輝きは。
とても、とてもーーー