国を傾けた寵姫の言い分
私の名前はソフィア。元男爵令嬢で、今は側室として後宮で生活をしているの。
私の実家は貴族とは名ばかりの落ちぶれた家で、私は下町の女の子とたいして変わらない暮らしをしてきた。お母様を手伝って家事をして、まだ幼い弟妹の面倒を見て、伝手で回してもらっているお針子の内職をして。
だから、貴族としての教養なんて全く知らないの。辛うじて、本が読めるくらいの文字はお母様から教えていただいたわ。
服も、成長して小さくなってしまっても、新しいものを買う余裕もなかった。だから、時代遅れのお母様の服を自分で仕立て直して、敗れたら繕って着ていたのよ。
結婚するにしたって、纏まった持参金なんて用意できないから、他の貴族家に嫁ぐなんて無理だった。それに、私には弟がいたから、男爵家という貴族の称号目当ての豪商からの縁談なんてものもなかった。
私はこのまま、貧しさに耐えながら年を取っていくんだ。
まだ十代後半だというのに、そんなことばかりを考えて生きていたの。
けれど、神様は私を見捨ててはいなかったのね。
昔からの父の親友だという子爵様が、私に国王陛下の側室になる話を持ってきてくれた。
側室になれば、後宮で何不自由ない生活ができる。しかも、国王陛下の寵愛を受けられなかったとしても、元側室という箔が付けば、それなりの貴族家へ降嫁することも可能だというの。
私は夢中でその話に飛びついたわ。
もうこんな貧乏生活は真っ平。せっかく貴族家に生まれたのだもの。一度でいいから、物語に出てくるような煌びやかな貴族の生活を堪能してみたい!
私の願いは叶えられたわ。
見たこともない豪奢な王宮の一室を与えられて、側室への支給品として国王陛下から幾枚かドレスを頂いたの。それも、靴や装飾品も添えられて。
他の裕福な貴族の令嬢なら見慣れた品でも、私にとっては手を触れるのも躊躇われるくらいの宝物だったわ。
こんな素晴らしい部屋を与えて下さり、こんな素敵な贈り物を下さった国王陛下に対する御恩を、絶対に忘れないわ。
国王陛下に初めてお会いしたのは、後宮へやってきて二月も経った頃だったかしら。
一度に何十人と迎えられた側室の元を順番に訪れていたため、私の順番が回ってくるのがそのくらいになってしまったようね。
こんな美しい男性がこの世にいるのだろうか。
そう溜息が出るほど、アレクシス陛下はお美しかった。
お出迎えの挨拶から、陛下にお茶をお入れする作法まで、何もかもがたどたどしく、知的な会話も出来ず、ただ恥ずかしくて俯いてばかりいる私に、陛下はとてもお優しかったわ。
腰を抱かれて引き寄せられ、どう反応していいかも分からずに戸惑う私を、陛下はまるでこの世に一つの宝物を扱うように抱いてくださった。
国王陛下の訪れは、側室一人にただ一夜だけ。
そんな噂を聞いていたから、夜明け前、陛下が部屋から出て行くのを見送った後、私は思わず泣き崩れてしまったの。
一目会った瞬間から、私は人生初の恋に落ちてしまっていたのね。
でも、そこで軌跡が起きたの。
なんと、恋に落ちたのは、私だけではなかったのよ!
それから毎晩のように、アレクシス陛下は私の元を訪れてくださるようになったわ。
愛しいソフィア、と人目も憚らず耳元で囁いて下さり、訪れる度に何か不自由はないかと尋ねてくださった。
私が落ちぶれた男爵家の娘で、実家からの援助は全く望めず、碌にドレスや装飾品等を持っていないと知ると、アレクシス陛下はそれから山のように贈り物をくださったの。
まるで夢のよう。何もなかった私の部屋のクローゼットには収まりきらないほどのドレスがかかり、引き出しが重くて開かないほど宝飾品が溢れるようになった。
時々、陛下は昼間から私の部屋を訪ねていらっしゃるから、お仕事は大丈夫なのか心配にもなったけれど、優秀な部下に任せてあるから大丈夫だと言われて安心したわ。
だって、私だってアレクシス陛下と少しでも長く一緒にいたいのだから。本当は、お仕事にも行って欲しくないくらい。
でも、後宮で一人だけ陛下の熱烈な愛を受ける私を良く思わない人はたくさんいた。
大勢の側室達もそうだったけれど、一番はやっぱりエリザベート王妃ね。
時々開かれる後宮での夜会に出席されたお姿を遠目に見ただけだったけれど、エリザベート王妃は絵に描いたような王妃様だった。漆黒の髪を優雅に結い上げ、意志の強そうな菫色の瞳を輝かせた、堂々たる美人。
あんな完璧な方が王妃としてお側にいるんですもの。私なんてどうせ一時の気まぐれでしかないんだわ。
そう落ち込んだこともあったけれど、陛下はすぐに否定してくれた。
エリザベートは、幼い頃に政治的に決められた結婚相手に過ぎない。私が愛しているのはあなただけだよ、愛しいソフィア……。
陛下の私への愛は本物だった。それに気付いた侍女や、私と身の上が似た側室の数人が、私の味方になってくれたわ。
廊下でわざとぶつかられても、卑しい女と罵られても、空き部屋に閉じ込められても、陛下の御心が私だけのものだと思えば乗り越えられたわ。
それに、私に嫌がらせをした側室や侍女達のことを陛下にご相談したら、翌日にはすっかり態度を改めてくれたの。本当に陛下は素晴らしい御方だわ。
今や、私は夢見た世界で、夢のような生活をしているの。
本当に、幸せすぎて怖いくらい……。
エリザベート王妃が体調を崩された、という噂を耳にして半月が経とうとしていた頃だったかしら。
陛下が、突然、エリザベート王妃と離婚して私を王妃に迎えるとおっしゃったのは。
……私が、王妃?
信じられない言葉だった。
ほんの半年ほど前まで、町娘と同じか、それより酷い生活を送っていた男爵家の娘である私が、この国の王妃になるだなんて。
でも、そんなこと、あのエリザベート王妃が許すはずがなかった。
彼女は、陛下に実家の公爵家を使って圧力を掛け、離婚を思いとどまるよう脅しをかけたの。
それどころか、人脈と財力を駆使して陛下の廷臣を買収し、彼女の他に王妃に相応しい人はいない、と陛下を丸め込んでしまった。
別に、私は王妃の座なんか興味はないわ。国家行事や外交の場なんてところに王妃として出席できるような知識や教養、礼儀作法は持ち合わせていないのだから。
でも、それまで望むこと以上に次々と与えられてきた私だけれど、どんなに陛下に愛されても絶対に手に入らないものがあることに気付いてしまった。
愛しい陛下の、正妃という立場。
私は、どんなに寵愛を受けようとも、立場上は数十人いる側室の一人でしかない。
それが無性に悲しくて仕方がなくて、そして願った。
陛下の、ただ一人の王妃になりたい、と。
今では陛下は王妃の元を訪れることは全くない。止むを得ず公務で同行しなければならない時でも、必要最低限の接触しかせず目も合わせない、と侍女達が教えてくれたわ。
なんて可哀想な陛下。周囲に圧力を掛けられて、仕方なくあの人と別れられずにいるのに、そんな態度をとられるなんて。
あの人もあの人よ。そんなに王妃でいたいなら、もっと陛下に優しくすればいいのに。心優しい陛下だもの、本当は人前で王妃に素っ気ない態度を取るなんて、本当はしたくないはずよ。
きっと、公爵令嬢として蝶よ花よと育てられたから、傲慢で我儘なんだわ。私ばかりを寵愛する陛下にヤキモチを焼いて、陛下を困らせようとしているのね。
ああ、悔しい。どうして私が公爵令嬢として生まれてこなかったの? もしそうだったら、何の障害もなく、陛下の正妃になれたのに。
陛下の腕の中でそう申し上げたら、窒息しそうになるほど強く抱きしめてくださった。
今は叶わないけれど、必ず実現する。それまで待っていてくれ、ソフィア。
耳元で甘く囁く声に、私は幸福感に包まれながら何度も頷いた。
ところが、あの人は陛下が公務で王宮を離れている隙を狙って、私のところへ怒鳴り込んで来たの。
きっと、没落した男爵家の娘でしかない私に陛下を奪われたことが我慢できないのだわ。だから、これまでも他の側室や侍女達を使って嫌がらせをしてきたけれど、ついに自分自身が乗り込んで来たのね。
あなたには、王妃になる覚悟がおあり? もしあるのなら、わたくしが責任を持ってあなたを教育して差し上げますわ。
赤い唇の両端を吊り上げて、あの人は私にそう迫ったの。
私は震えあがった。そんなことを言われて、素直に応じられる訳がない。教育と称してどんな虐めを受けるか分からない。もしかしたら、殺されるかも知れない。
王妃には気を付けろ、と常々陛下にも注意されてきたけれど、まさか陛下がいないときを狙って、こんな風に罠を仕掛けて来るとは思わなかった。
何ていう、卑怯な人なの……!
私は震えそうになる足を踏ん張って、できるだけ堂々と言い放ったわ。
陛下は私に何も求めてはいらっしゃらない。ただ傍にいてくれるだけでいいとおっしゃったわ。私達は愛し合っているのです。教育だの礼儀だの、そんなことは二の次です。わたしを疎ましく思っていらっしゃるから、無理難題をおっしゃって私を後宮から追い出そうとなさりたいのですね。あなたは酷い人だわ。
王妃様に対して不敬だとは思ったけれど、すでに陛下に愛想を尽かされているあの人なんて怖くなかった。
私が強気に出たのが意外だったのね。あの人は何も言い返せずに去って行ったわ。
ああ、言いたいことが全部言えてすっきりした。ふふ、あの高慢な王妃の、呆気にとられた顔。見ものだったわ。
でも、このことはちゃんと陛下にご報告して、二度とこういうことをしないように釘を刺していただかないと。
あの人は、もっと自分が金と地位と権力を振りかざして王妃の座に着いただけの、嫌われ王妃だということを理解してもらわないといけないわね。
ああ、ついにこの日がやってきた。
陛下の努力が実って、ついにあの嫌われ王妃エリザベートが王宮を去る日が来たのよ。
離婚が成立したと聞かされた時、私は天にも昇る思いだったわ。
私が王妃に迎えられるのは、規定によって、離婚成立後一カ月を経ないといけないらしいけれど、これまであの人からの嫌がらせにビクビクしながら暮らしてきた日々を思うと全然苦じゃないわ。
王宮の裏門をひっそりと出て行くあの人を、私は陛下の隣に寄り添いながら見送った。そう、わざわざ目につくよう、裏門を見下ろすバルコニーに立って。
馬車に乗り込む直前、あの人はこちらに気付いて、意地悪な笑みを浮かべたわ。まるで、幸せな私達に呪いをかける魔女のように。
最後の悪足掻きよ。気にすることはないわ。
それでも嫌な気分を拭いきれずに陛下にしがみ付くと、陛下はまるで子供のように私をあやしながら部屋へと連れて帰ってくれて、そのまま翌日の朝までずっと側にいてくださった。
罪悪感がなかった訳じゃないわ。でも、それ以上に、愛する陛下からあの女を引き離すことができた安堵感、そして、正式に陛下と結ばれる喜びの方が大きかった。
だから、まさかその翌日、私達が地獄に叩き落されるなんて、夢にも思わなかった。
王家の政争に敗れた者達が幽閉されるという離宮は、建物自体は立派だけれど、古めかしくてどこかかび臭かった。まるで、これまでここで幽閉されてきた王族の無念が染み込んでいるみたいに。
私はこれまで仕えていてくれた侍女達と引き離され、岩のように無表情な年配の侍女達や、不愛想な警備兵に囲まれてこの離宮で生活することになった。
陛下から送られた数えきれないほどの宝石やドレス、装飾品は全て没収されてしまった。私に残されたのは、地味な数枚のドレスと、唯一見逃してもらった金の髪留めだけ。
陛下も同じ離宮に幽閉されていると聞いたけれど、お会いすることはできなかった。侍女や警備兵の監視が厳しくて、離宮の中とはいえ、自由に動き回ることができなかったから。
……どうして、こんなことになってしまったのだろう。
王弟殿下は陛下とはまた違ったタイプながらお美しい方で、軍人らしく実直で真面目で、陛下をずっとお支えしてくださっていたのに。
そのクラウス殿下が、陛下から王座を奪って離宮へ閉じ込めてしまうなんて。
そして、陛下の寵愛を一身に受けていたからなの? 側室の中で私だけが、陛下と共に離宮へ移されてしまった。
この陰湿な離宮の雰囲気のせいかしら。最近、体調がとても悪いの。
陛下も、体調を崩して床に臥せっていると聞かされたわ。
ああ、陛下に一目、お会いしたい。そして、何とかこの離宮から出していただけるようにお願いしたい。
こんなところにずっといたら、おかしくなってしまう。
昨日、クラウス殿下……、いえ、もう国王陛下として即位なされたクラウス陛下の側近のお一人が訪ねてきたので、ここから出してくれるようにお願いしたけれどダメだった。
これまで後宮で侍女に大事なお願いをしてきた時のように、手持ちの宝飾品、といっても最後に私に残された金の髪留めを渡してお願いしたっていうのに。
荒れ果てた庭を見つめながら溜息を吐いていると、女性とは思えないほどいかつい顔をした侍女が荒々しく床を踏み鳴らしながらやってきて怒鳴った。
アレクシス様のご寵愛を受けながら、他の男をたらし込んでこの離宮から脱出しようとするなんて、とんでもない女だ!
もっと酷いことを言われて罵られたけれど、私にはそんなに罵倒される意味が分からなかった。
後で分かったのは、女が男に髪留めを渡すのは、この国の上流階級では夜のお誘いを意味するってこと。
上流階級の流儀とは無縁だった私は、そんなことを知らずに、ただ金目のものを渡して便宜を図ってもらおうと髪留めをクラウス陛下の側近に渡してしまった。彼はきっと、私が身体を使って彼を夢中にさせて、自分に協力させようとしたと思い込んだだろう。
そして、それはすでにアレクシス様の耳に入ってしまったらしい。
誤解を解きたい、と何度も懇願したけれど、周囲は聞き入れてくれなかった。
夜中、陛下の元へ行こうと部屋から抜け出したところを見つかり、それ以降はドアと窓の外にまで監視がつくようになってしまった。
最近では眩暈がひどくなって、何かに縋っていないと歩けないくらいになってしまった。ずっと微熱も続いている。
アレクシス様が罹っているという流行病に、どうやら私も罹ってしまったらしい。でも、侍女や警備兵の誰も罹っていないのに、どうしてかしら。
体がだるくて、その日は朝からベッドの上で過ごしていた。
と、例の私を罵った侍女が、何故か今日はとても嬉しそうに笑みまで浮かべていた。
何かいいことがあったのか、と何気なく聞いた私に、彼女はゾッとするほど悪意に満ちた笑みを浮かべた。
ええ。クラウス陛下が、遂にお妃を娶られることになったそうです。誰だと思いますか?
その名を聞いて、私は目の前が真っ暗になった。
なぜ、どうして。どうしてあの人が……!
……ああ、分かったわ。あの人はクラウス様を誑かして、アレクシス様から王位を奪わせたのだわ。離婚されたことを逆恨みして。きっと、実家の公爵家からも圧力をかけたに違いない。
なんて卑怯で卑劣な人なんだろう……!
怒りに震えている私を、侍女は侮蔑の目で見下ろした。
そうそう、アレクシス様も今頃になって後悔しておいでです。あんな女に骨抜きにされて、大切なものを何もかも失ってしまった、と。
……え?
侍女がドアを閉めて出て行った音で我に返るまで、私は呆然としていた。
私のせいなの?
私が悪いの?
私がいなければ、アレクシス様は今も国王陛下でいられたの?
そんなの嘘よ。幸せな生活を奪われて、不幸のどん底に突き落とされたのはこっちだわ。
悪いのは、あの女、エリザベートよ!
酷い咳の発作が襲ってきて、しばらくの間息ができないほど苦しかった。
焼け付くような喉の痛みに涙目になりながら口元を押さえていた掌を見ると、そこには真っ赤な何かがべっとりとついていた。
喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れた。
……私、このままここで死んじゃうの?