三話
トプンと水の音が聞こえた。
私は大きな滝の前にいて、目の前には滝壺、そして並々と青い水が称えられた池が広がっていた。
滝は荘厳という言葉がふさわしく、大人の男性が五人両手を伸ばして繋がったぐらいの幅があった。
高さは、上を向いた首が痛くなるほど見上げてようやく見える程度ーーたぶん、六階建ての建物と同じぐらいの高さである。
池も広く、大きさは学校の校庭がすっぽりと入るほどで……澄み切った水はよくテレビで言われている『コバルトブルー』のそれと同じだった。
綺麗……
池の周りは草花で囲まれ、美しい花々が咲き誇る。
特に桃の木がとても美しかった。
震えるほどに華麗で、可憐で。
周囲を見渡せば森の中、いや、もしかしたら山の中なのかもしれない。
と、何かに呼ばれた様な気がした。
池の奥、滝の向こうーー。
けれど滝の向こうに行く為の道は無い。
ただ、なぜか向こうには何かあると確信があった。
大量の水が流れ落ちているにも関わらず、時折水の量が少なくなり水の壁が薄まったその時に見えるそれ。
向こうに、洞窟がある。
行ってみたいと思った。
でも、行く方法は無い。
ポチャンと池の水がはねる。
それに釣られて視線を降ろせば、水の中に魚達が泳いでいるのが見えた。
魚は何匹も居た。
鮮やかに、優雅に踊る魚達。
それらは私のすぐ傍を泳いだかと思えば、滝の方へも泳いでいく。
羨ましいと思った。
ふと、その水の中に何か白いものを見たような気がした。
白く長いものーー。
魚達が泳ぐ場所よりも遙か下で見えたそれは、気づけばゆっくりと上がってきた。
「あーー」
それは足の生えた白蛇ーーいや、違う。
それは。
パンっと目の前で、手を叩かれた。
「っ?!」
思わず反射的に手が出て。
「あ」
しまったと思った時にはもう遅かった。
「まさか寝ている相手を起こして、いきなり殴られるとは思わなかった」
「す、すいません」
殴ってしまった、それも女性を。
私はその相手に平謝り、いや、きちんと正座し土下座した。
そんな私の前に座り込むのは、とんでもなく美しい女性だった。
淡い光を放っているのではないかと思うほど、シミ一つない真白の肌。
光沢のある、腰までまっすぐ伸びた艶やかな黒檀の髪。
ほっそりとした輪郭と共に顔を形作るのは、すっきりとした目鼻立ちに赤く濡れた唇、煙る様な長い睫毛。
大きな瞳は、以前祖父が見せてくれた黒曜石の様に輝いている。
その全てはぞっとするほど美しく、冷たい無垢さのあるどこか幼げで危うい雰囲気に、傾国の美女という言葉が私の脳裏に浮かんだ。
そんな彼女は、私の通う学校の制服をその華奢な体に身につけていた。
こんなに綺麗な子って居ただろうか?
もしかして学年が違う?
「あの、でも、なんでここに入ってこれたんですか?」
「ん?」
「いや、だって外からは入れなかったし」
あの鎖と南京錠は未だに閉まったままである。
なのに、この少女がここに居るとは。
「それはもちろんーーいや、あの門以外にも入り口はあるから」
「そうなんですか?」
すると、少女はにこりと笑った。
「そう、だから早く戻ろう」
手を取られ、そのまま立ち上がらされる。
そして有無を言わさず引っ張られていきそうになり。
「ま、待って!まだ愛海達が」
少女の足が止まった。
「ああ、あの愛海って子は大丈夫。明日になれば会えるよ」
だから帰ろうと言う彼女に私はホッとしーー。
「ちょっと待って」
その言葉に気づき、足に力を入れた。
愛海って子は大丈夫。
では、他のクラスメイト達は?
「他の、子達はどうなの?」
「……」
こちらに背を向けたまま、彼女は何も言わない。
いや、そもそも彼女は一体誰なのだろう。
いつの間にか現れて、手を引かれて自分をどこかに連れて行こうとしている。
一体どこに連れて行こうとしているのか。
そして、どうして愛海は大丈夫と言える。
私は突如、手をつかむ彼女が何か異様な物に見えた。
「手を離して。彼らを迎えに行くから」
「無理だよ」
「え?」
「愛海という子は大丈夫。『巫女の鈴』を持っているから。手放さない限り、朝になったら出られる。でも、他のは駄目だ」
背を向けたまま、彼女は言う。
心地よい、玲瓏なる声音で。
「そもそも、彼らは望んでここに来たんだろう?ならば本望じゃないか」
「いや、そりゃあ肝試しの場所として選んだのは」
「そう、望んできた。わざわざ、禁忌とされるこの場所を選んで、ね。だから、結界も効かない」
「……結界?」
「人よけの結界。けれど、この場所に来る事を望んだ者には効かない、通してしまう。だから、彼らは通れた。そして、もう戻れない」
モドレナイ
「自業自得。そう、自分のやった事は戻ってくるんだよ……良い事も、悪い事も」
彼女が、こちらを振り向いた。
その目がーー。
「っ?!」
手を離し、私は距離をとる。
「貴方、誰っ」
目に、爬虫類独特の縦線が走る目がこちらを見つめる。
それは、白蛇君をよく見ていたからこそわかった。
まるで獲物を見るような目つきで、こちらを見る彼女が先ほどまで私の手首をつかんでいた手をゆっくりと降ろした。
「本当に、鋭い子だね」
「誰?!」
「誰とは、今更だよーー鏡華」
名乗っていないにもかかわらず、鏡華の名を口にした彼女に更に距離をとる。
「ああ、後ろの建物に入っても無駄だよ。どんなに建物内を巡っても、鏡華は探し出せないから。次元がずれてしまってるからね」
「次元?」
彼女が一歩ずつ近付いてくる。
「そう……鏡華が居るのが、現実。そう、いつも君が暮らしている、この世。彼らが居るのは、この世とあの世の境界線。だから、どんなに願っても彼らはこの建物から逃れることは出来ない。そう……今までの者達と同じように。ねぇ、知ってる?」
「……」
「この病院はね、神隠し病院って言われてる。それは、実際に何人も飲み込んできたから。この病院の前、ずっとずっと昔からここには病院が建っていた。この病院はいくつ目だろうね。でも、あの事件依頼、病院はずっと人を飲み込んでいった。そう……最初は患者、次は職員、次は患者の家族……そしていくつもの病院が消え、また建ち、そして最後の病院がこうして廃病院になった後は……こうして肝試しに来た愚か者達を飲み込んでいる」
彼女の口から語られる内容に、私は後ろを振り返った。
開け放たれた玄関が、まるでパカッと開いた黒い闇の入り口にも見えた。
「でもさすがは鏡華だね。本当は君も飲み込まれていた。いや、この私がそんな事はさせないけれど」
「……どういう、こと?」
「身につけていただろう?そのブレスレットを。そう……それがあれば、向こうも手が出せない」
鏡華は手首にはまったブレスレットを見た。
「よくある魔除けとは比べものにならないよ、それ。私の鱗があるだけじゃない。その水晶からして……ふふ、さすがは神有家の姫。ぽんっと高価な本物を渡してしまうのだから」
本物?
高価?
って、私の、鱗?
きらりと光る白い鱗を見た後、私は彼女を見た。
その姿に、白いそれが重なる。
「白蛇君」
脳裏によぎった言葉が、ぽろりと口からこぼれ出た。
「正解」
彼女の笑顔が、ゆっくりと闇に飲まれていった。