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魔女のいけにえ

作者: 蒼樹 章久

第1章  出逢い


 私が、総務部総務人事課課長だった頃の話だ。

 3ヶ月前に、ある証券会社の役員の紹介で、この会社にヘッドハンティングされた。資本金9,000万円、年商170億円、社員数75名の、デザイナーズマンション開発と仲介を行っている不動産会社で、現在の社長が一代でここまで大きくしたオーナー会社である。

 総務部は、経理財務課と総務人事課に分かれていて、その両方を仕切る総務部長は、現在不在のため社長が兼務していた。

 つまり私は、1年後には確実に総務部長になることが約束されていた大事な時期だったのだ。


 ある日、経理財務課に在籍している女子社員 山野千鶴が、「相談したいことがある」と言って私のところにやってきた。

「じゃ、会議室で話を聞こうか」と席を立とうとすると、

「いえ、会社で話せる内容ではないので・・・」

 と言って、社外で会うことを提案してきた。

 私は躊躇った。

 元来、女子社員とはプライベートでは外で会わない主義だった上に、昇格がかかっている大事な時期なので、プライベートで女子社員と外で会っていることが社長に知れることを怖れたのだ。

「会社では話せない内容なの? プライベートな相談なら受けられないなぁ」と、さりげなく断ると、会社に関係のある内容だと彼女は言った。

「そういう相談は、君の上司の角田君に相談したらいいんじゃないの?」

 と反論した。角田悟は、経理財務課の係長で、山野千鶴の直属の上司だ。

「その角田さんのことなんですけど・・・」というので、

「じゃ、社長マターだなぁ」というと、

「こんなこと、社長には相談できません」と切なそうに言うので、仕方なく外で会うことを承諾した。

 いや、当時、妻を交通事故で亡くして4年、20代半ばの会社でも評判の美人から社外で会ってくれと言われて、ちょっといい気になっていたことは否定できない。

 そもそも、それが大きな間違いだったのだと、あとになって気づくのだが、このときは全く思わなかった。

 彼女は、この会社に勤めて4年目になる。経理課をずっと支えてきた、若いがベテランだ。

 年齢のワリには落ち着いていて、笑顔の素敵な美人だったので、私も油断したのかもしれない。


 その日の夜、7時に六本木の私の常連のイタリアンレストランで食事をしながら話を聞くことにした。

彼女の相談は次のようなものだった。

「上司の角田さんが、あたしにセクハラするんです」

「角田君が?」

「ええ」

 信じられなかった。経理を7年やっている中堅社員だ。いつも社長に怒られて萎縮している、非常に気の小さい30歳の気のいい男だった。少なくても、私の印象はそうだった。

「どんなセクハラをするの?」

「仕事の注意をするフリをして、胸を触ったり太腿を触ったり・・・」

「まさか!」

「信じてくれないんですか!」

 彼女の強い口調と、きつい目を見て、この子が黙ってセクハラを受けるとも思えなかったが、

「事実確認をしてみるよ」

「角田さんに聞くんですか?」

「そんなことをして、セクハラが事実だとしても、それを認めるようなことはしないでしょう。別の方法で確かめてみる。ちょっと私に時間をください」

 とは言ってみたものの、どう確認したらよいのかわからなかった。


 彼女は、私の前で「辛い、辛い」と泣き出す始末で、彼女がデタラメを言っているようにも思えなかった。

 食事をしながら、最近の会社のことや社長のこと、私も入社して3ヶ月だったので、色々と情報を聞いて、その日はタクシーで、彼女の住む日本橋浜町へと送った。

 彼女の希望で、住んでいるワンルームマンションの前でタクシーを止めた。ちゃんとお礼を言いたいと彼女に言われて、私もタクシーを降りた。その瞬間に、彼女は私に抱きついてきて、私の唇に自分の唇を押し付けてきたのだ。

 一瞬の出来事に、私は目を白黒させて驚いた。

 そんな私を悪戯っぽい目で微笑んで、「おやすみなさい」と言って、マンションのエントランスに消えた。

 私は呆気に取られて、その後ろ姿を見ていたが、決して悪い気がしていない自分がいたのだ。

 そして、

 この日を境に、彼女の積極的アプローチが始まったのだが、これが私の地獄への第一歩だったのである。




第2章  呼び出し


 翌日、会社のパソコンメールを開くと、千鶴からメールが来ていた。

『昨日はご馳走様でした。久しぶりに楽しかったです。青木さんが、こんな

に楽しくてお洒落な人だとわかって嬉しかったです。また、遊んでください』

 ん? 楽しかった?

 また遊んでください?

 悩み相談じゃなかったのか?

 しかも、セクハラと言う深刻な、極めて下劣な悩み相談ではなかったのだろうか?


 その日から、私は経理財務課係長の角田の動向を注意深く見ていた。特に、相談してきた千鶴との接触時などは、立ちあがって近くの書類を見るフリなどをしたりもした。

 だが、彼がセクハラをしている気配は感じられなかった。

 あのセクハラ相談は本当だったのだろうか?

 だが、セクハラが根も葉もないデタラメだったとしたら、いったい何のためにそんなことを私に相談したのか?

 角田に対する嫌がらせ? 確かに、千鶴は角田とはウマが合っていないように感じることがある。だが、他人に嘘をついてまで彼を陥れる必要があるのだろうか。

 私が、セクハラの件を社長に報告すれば、確実に事実確認をするだろうし、角田は間違いなくクビになる。

 そこまでするか?

 それとも、あれはオレを誘い出す為のうそ?

 だが、何故そんな嘘を・・・・?


 千鶴から相談を受けた3日後、私は仕事を終えて自宅マンションで寛いでいた。午後10時過ぎだった。

 私の携帯電話が鳴った。知らない番号だ。出るかどうか迷ったが、一応表示してあるので、出ることにした。

「もしもし・・・」

「あ、あたし、千鶴ですけど・・・」

「あ、あぁ、お疲れ様。どうしたの、こんな時間に」

 何故オレの携帯番号を知っているのか? と疑問に思いつつも、

「あの、今、凄く歯が痛くて、我慢できなくて、死にそうで・・・」

 消えそうな小さな声だった。

「えっ、歯が痛いの? それは大変だ。近くに救急の歯科医院はないの?」

 歯痛? 歯痛で私に電話してくる?

 どういうことだ?

「ない・・・と思う」

「じゃ、痛み止めは?」

 疑問を抱きつつも、私は丁寧に対応した。どういう理由があろうとも、私を頼って助けを求めてきたのだ。無視するわけにはいかない。

 それに・・・先日のキスが記憶に蘇る。

「もう飲んだけど、全然効かないから、もう2時間も苦しんでて・・・」

「2時間も? それはきついね。救急車を呼んだら?」

「歯が痛くて救急車は呼べないでしょう?」

「そんなことないさ。我慢できないくらい酷いなら呼んだほうがいい」

「あなたが来て!」

 えっ? なに?

 オレに?

 来てだって? こんな時間に?

 横浜から日本橋浜町まで? 一体何時間かかると思っているんだ?

 いや、そんなことよりも、つきあってもいないオレが、何故こんな時間に千鶴を見舞いにいかなければならないのか?

 いくら痛みに耐えられないからといって、男を深夜に呼ぶ神経が信じられなかった。

「いや、それは・・・」

「いいから来てよ! 部下を見捨てる気?」

 オイオイ、それだけ元気よく喋れるなら大丈夫だろう? と突っ込んでやりたかったが、相手の迫力に負けて、言い返せなかった。

「わかったよ。今から車を飛ばしてそっちに行く」

私は、そう言って、うんざりしながら支度にかかった。



第3章  誘い


 自宅を出て1時間後に、以前にタクシーで彼女を下したマンションの前に到着した。

 車を降りると、タイミング良く携帯電話が鳴った。

「早かったわね」

「えっ?」

 私は驚いてキョロキョロした。

「夜遅くに呼び出して、ごめんなさい・・・」

「どうして着いたことがわかった?」

 私は、目の前のマンションを見上げると、3階のベランダから手を振る千鶴を見つけた。笑顔さえ浮かべている。

「ずっとそこで待ってたのか?」

「とにかく、中に入って。303号室だから」

 釈然としない思いを抱えながら、オートロックのマンションの入り口で、303と押すとすぐにロックが解除された。

 つきあってもいない会社の女子社員に、どうしてここまでするのか疑問に思うかもしれない。

 私は、神様でも奉仕活動をしている訳でもない、ごく普通のサラリーマンだ。こんな無謀とも思える要請に応える義務は全くないのだ。

 だが、ここに来た理由はふたつある。

 ひとつは、当然だが美女の誘惑だ。セクハラ事件をきっかけに千鶴という、社内でも評判の美人と親しくなった。その千鶴から指名されたことで、少なからず自惚れと、少しの下心が出ていたことは否定できない。先日の突然のキスのこともある。少なくても、この美人は、自分に興味を持っているのだ。そう考えると、こうして深夜に彼女の期待に応えることが、彼女と親密になれる近道であることは間違いない。

 もうひとつは、彼女はうちの会社の超ワンマン社長の独裁政治の中で、数少ない社長から信頼されている社員の一人だったのだ。

 彼女がへそを曲げれば、当然悪評が社長の耳に入る。社長が噂や女子社員の戯言で、幹部社員の評価を左右するとも思えないが、評価は高い方がいいに決まっている。現に、彼女が嫌っている直属の上司の角田は、万年係長で、彼女がいる限り出世は見込めないだろう。

 角田の万年係長が、千鶴の影響かどうかはわからないが、少なくても彼女の悪評が社長の耳に入っていることは想像できる。つまり、この程度で、彼女が私の評価を上げてくれれば御の字だと思えた。

 私が303号室の前に立つと、呼び鈴を押す前に扉が開いた。

 覗き穴からずっと見ていたのかもしれないと思ったら、さっきのベランダの一件といい、ちょっとぞっとした。

「さ、入って?」

 彼女は明るかった。

「歯、大丈夫?」

 私は玄関に立って、そう訊いた。とても今まで歯痛で苦しんでいたとは思えないほど、すっきりとした表情をしていた。

「歯? あぁ、痛み止めが効いたらしくて、もうすっかり・・・」

「えっ? 治ったの? いつ」

「ちょっと前。そんなことよりも、あがって?」

 彼女は、部屋の中へ迎え入れようと、私の腕を引いた。小さなワンルームマンションだが、綺麗に整理されていて、清潔感もあった。

「もう痛みはないの?」

「ええ」

 千鶴はケロッとして頷いた。私は一瞬不快感をあらわにした。痛みが止まったのなら、その時点で連絡が欲しかったからだ。ここまで来た意味がない。

「いや、治ったのなら、オレは帰るよ」

「えっ、今来たばっかりなのに、帰るの?」

 千鶴が意外そうな顔をした。こうして千鶴の少し困った表情を見ていると、抱き締めたくなるほどの可憐さが出ている。

 油断すると、なすがままに引き込まれてしまいそうになる。

「今来たばっかりって・・・歯が痛いって言うから飛んできたんだ。治ったのなら、もう用済みじゃない」

「そうだけど、あたしに逢いたかったでしょ? お茶でも飲んで言ってよ。せっかく来たんだから」

「いや、いいよ。明日は早朝会議で、8時までに出社しなきゃいけないんだ」

 それは事実だった。信じられないかもしれないが、私は女性の部屋に無暗に入らない主義だ。部屋の奥に怖い「お兄さん」がいないとも限らない。

「管理職は大変ね。じゃぁ、ここから明日会社に行けば?」

 にっこり笑った千鶴の目は、冗談を言っているように見えなかった。

「本気で言ってるの?」

「勿論」

 男性社員憧れの美人に、こんなことを言われたら、その気にならない男はいない。

「それは無理だなぁ。この格好じゃ会社に行けない」

 私は、派手なゴルフ用のポロシャツにスラックス、それに白いジャケットだった。

「ワイシャツとネクタイなら、家にあるから心配しないで」

「いや、そういう問題じゃないから。今日はこれで失礼するよ」

 私は、振り返って玄関のドアを開けて廊下へ出た。このまま彼女の勧める通り部屋に入れば、絶対に唯では済まないと予測できた。

 いや、このまま話していたら彼女の誘惑に負けてしまう。

 なにしろ、彼女はすでに下着を着けていない薄いTシャツと、短いホットパンツ姿だったのだから。

 惜しいと思う気持ちもないではない。何度もいうようだが、千鶴は男性社員の憧れだ。彼女に告白して撃沈する男性社員が後を絶たない。特に社内恋愛を禁止している訳ではない当社は、人気のある女性社員は争奪戦が激しい。

 私などは、彼女との年齢差や結婚歴のある私などは最初から対象外だと認識している。だから、彼女の方から声がかかるなど、贅沢極まりないはずなのだ。

 今夜、この誘惑に乗らなくて後悔する日が来るのかもしれない。

 しかし・・・

 話が上手すぎると、必ず後でしっぺ返しを喰らうのが今までの私の経験だ。

 ここはぐっと堪えて帰るに限る。

 私は、後ろ髪を引かれる思いを抱いて、1階まで階段を駆け下り、エントランスを抜けて、正面に止めていた車に乗り込んだ。

 ホッと胸を撫で下ろす。何故か、危機を乗り越えたような安堵感があった。

 私は、エンジンをかけてまさに走りだそうとしたその瞬間、私の横のガラス窓が激しく叩かれた。

驚いて、見上げると、ガラス窓に顔を押しつけるように、鬼のような形相で千鶴が私を睨んでいた。




第4章 暗闇の中へ


 山野千鶴が車のドアを無理矢理開けようと、ガタガタ引っ張っていた。

 ドアにロックがかかっていることに安堵したが、このままでは車は発進できない。

 外では、今にも噛みつきそうな形相で、「開けなさいよ!!」と千鶴が叫んでいる。

 夜中の、国道から少し入った清閑な住宅街、いや、マンションが立ち並ぶ住宅地。季節は初夏。窓を開けている家庭もあるだろう。外の女の大声に反応して警察を呼ばないとも限らない。

 私は諦めて、車の窓のパワーウインドゥを少しだけ下げた。

「どうして帰るのよ!」

 すかさず千鶴が怒鳴りちらす。さっきとは別人じゃないかと思われるほどの、凄い形相だ。般若を想像させる。

 これが、あの千鶴なのだ。こういう一面も持っているのだ。

 私はゾッとした。

「どうしてって。もう治ったようだから帰るんだよ。用事は済んだだろう?」

「済んでないわ」

「まだ何か?」

「セクハラ問題は解決したの?」

 その問題か・・・

「その問題なら、少なくてもここ2、3日はセクハラを受けてないよね。それに、その問題は、明日会社で聞くよ」

「そうはいかないわ。このまま帰れると思ってるの?」

 凄味のある口調だった。今まで会社では見せたことのない顔つき、そして口調だった。

 この子は、こんな女だったのか、と初めて不気味に感じた。

「はっきり言うよ。ぼくはつきあってもいない女性の部屋には入らない主義なんだ。これだけは昔から絶対に曲げられない。だから、キミの部屋に入ることは有り得ない」

 一時的にも、彼女の誘惑に負けそうになった自分を恥じた。そして、誘惑に乗らなかった自分を褒めた。

 少しだけ沈黙があった。その間も、千鶴は私を睨んでいる。

「わかったわ」

 意外な返事だった。私はホッとして、

「そう。じゃ帰るね」

 私はサイドブレーキを解除しようと手元を見た瞬間に、

「待って」

「なに?」

「じゃぁ、今日からあたしとつきあってよ」

「へ?」

 何を言い出すのかと思ったら、この一方的な申し出はなんなんだ。

「あたしと今日から付き合えば、あたしの部屋に入るんでしょ?」

「そういう問題じゃないよ。それに、仮につきあうとしても、いきなり彼女の部屋は有り得ないな」

「最初はラブホってこと?」

「そういうことを言っているんじゃないよ。いきなり女性の部屋に入るほど、オレは若くないってことさ。とにかく、今夜は帰らせてくれ。で、キミも頭を冷やせよ」

「あたしのことが嫌い? ウザいと思ってるでしょ?」

「嫌いとか好きとかの問題じゃない。社員が困っているから助けたいと思っただけさ。それに、ちょっとだけ煩わしい」

「そう」

 千鶴が車からちょっとだけ離れた。

 ちょっと言い過ぎたかな、と思わぬでもなかった。下心が全くないと言ったら嘘になる。のこのこ夜中に出てきて、気がないは言い訳にならないかもしれない。

 だが、一連の彼女の行動を考えると、そのまま部屋に入るにはかなりの覚悟が必要だろう。

「じゃぁ帰るね。これからのことは、また日を改めて話そうよ。キミのことは決して嫌いじゃないから」

「うん、わかった」

 千鶴はしぶしぶ頷いて車から離れた。そのときに彼女が裸足だということに気づいた。

 裸足で追い駆けてきたのだ。

 私はぞっとして、静かに車をスタートさせた。バックミラーで見ていると、道路の真ん中に突っ立った千鶴が、私の車が角を曲がって見えなくなるまで、身動きせずにジッと見ているのが映っていた。



 それから3日ほど時間が経った。

 会社では毎日のように千鶴と顔を合わせているが、何事もなく過ぎていった。

 いったいあの夜の出来事はなんだったのだろう?

 おちょくられていたのだろうか? そう思えるほど、彼女は何事もなく私に接してきた。

 いや、それ以上に、会社の男性社員とはしゃいだり、妙に親しげに振舞ったり、まるで私に見せ付けるような態度を取っていた。

 あの、セクハラだと訴えてきた角田に対しても、仲が良さそうにしている。セクハラ事件も、実は彼女の狂言だったのかもしれない、そう思い始めた頃、私は社長に内線で呼ばれた。

 社長室に入ると、にこにこした社長が私を手招きして社長室のソファに誘った。

「青木課長に頼みがあるんだ」

「なんでしょう?」

「実は、うちの最大顧客である○×会社の専務が、うちの湯河原の別荘を借りたいと言ってきてね」

「はい」

「あの別荘、最近使ってないからどういう状態か判らんだろう? 一度行ってきて、ハウスキーパーを入れたらいいか見て来てくれんか?」

 湯河原の別荘とは、バブル時期に社長が、温泉つきの高級リゾートマンションを購入したのだ。バブルで相当な利益を得たのに、社長が使ったお金はそれだけだった。なにしろ、社長車もクラウンに乗っているくらいだし、社長の年俸は4,800万円だ。

 年商170億の社長にしては謙虚だと思っていた。

「構いませんよ。私が部屋のチェックをしてきましょう。ハウスキーパーはもったいないですから、私が綺麗に掃除してきますよ」

「そうか。それは助かる」

「これも総務課長の仕事ですよ。施設管理という大事な仕事です」

「そうだな。宜しく頼む。早速明日行ってくれ」

「明日ですか、わかりました」

 席を立とうとした私に、社長の口から意外なセリフが飛び出した。

「そうそう、キミ一人じゃ、あの広い部屋の掃除は大変だし、必要な備品の補充も頼みたい。経理課の山野君を連れてゆきたまえ。役に立つから」

「えっ、や、山野君ですか?」

 千鶴のことだ。

「彼女は、あの別荘のことをよく知っている。役に立つと思うよ」

「しかし、総務ではありませんし、連れてゆくなら大杉君か、川嶋さんを連れてゆきますよ」

 大杉とは、大杉亮太といって今年27歳の男性社員だ。川嶋とは、川嶋みづきといい、24歳の2年目の社員だ。どちらも私の部下だった。

 社長は暫く黙っていたが、私を正面からジッと見つめて、

「いや、山野君を連れて行きたまえ。これは社長命令だよ」

 最後はにこりと笑ったが、私は笑い返すことが出来なかった。

 どうして山野千鶴なんだろう?

 なぜ、社長はそこまで彼女を推すのだろう?

 私は見えない力が動いているようで、気持ちの悪い思いをしながら、自分の席に戻った。


 山野千鶴と湯河原の別荘へ行く?

 考えられなかった。しかも、別荘の掃除となれば1日では済まないだろう。彼女と泊まるのか? 有り得ない。


 席に座ると同時に内線電話が鳴った。


「明日からの湯河原、宜しくお願いします。課長と一緒なんて、楽しみです」

 千鶴だった。

 見上げて彼女の席の方を見ると、千鶴が私を見てニヤリと微笑んでいた。



第5章 豹変


 私は車を止めると、大きな溜息をついた。

 何故こうなるのだろう? どうしてこんな事になった?

 この展開が不思議でならなかった。

 私は、携帯電話を取り出して番号を検索しようとした途端に、電話が鳴って少し驚いた。

 千鶴だ。

「もしもし・・・」

「あがってきて」

 明るく優しい声が返ってきた。

 またベランダから見ていたようだ。

「ここで待ってるよ」

「いいからあがってきてよ。荷物が多いの!」

「わかったよ」

 私はまた溜息を吐いて、エンジンを止めて車を降りた。上から千鶴が見下ろしていると思うと、ぞくっと寒気がして、千鶴の部屋を見上げる勇気がなかった。

 そのままエントランスに入り、303を押した。

 すぐに自動ドアのロックが外れてドアが開いた。私は、ゆっくりとした動作で部屋に向かった。

 昨日、千鶴から内線を貰ってから、定時の午後6時まで仕事が手につかなかった。

 何故千鶴なんだろう? どうして社長は千鶴を推薦したのだろう?

 そして、

 湯河原に行くことを、何故彼女は知っていたのだろう?

 もしかしたら、湯河原行きは彼女の提案だったのではないだろうか?

 考えてみれば、保養所のメンテナンスなどは大杉と川嶋の仕事ではないのか。それを社長が自ら私に依頼するという事は、社長が私を指名したのではなく、千鶴が私を指名したのではないだろうか。

 私は、暗闇の中へ、見えない手に体を掴まれて、ゆっくりとジワジワ引き込まれて行くような気持ちになっていた。

 部下の大杉亮太に、社長の指示を話し、明日から2日間湯河原に出張することを伝えた。2日以上延びる場合は電話を入れると。

 山野千鶴と一緒だということは敢えて言わなかった。

 大杉も、突然の出張に一人で行くことに首を傾げていたが、千鶴と一緒だと知ったらどんな顔をするだろうか。

 午後6時になり、部下たちが退社してゆくと、フロアに私と千鶴だけが残った。

「山野さんは帰らないのかい?」

 私は近くまで行って声を掛けた。千鶴はにっこりと私に笑いかけて、

「明日から出張なので、3日分の仕事を片付けていました。でも、終わりましたから」

 3日分? 出張は多くても2日間だ。できれば日帰りしたいくらいだった。

「忙しいときにすまないね。本来ならうちの部下を連れて行かなきゃいけないところだったんだけど」

 私は笑いながら言った。千鶴はちょっと不愉快そうな顔をしてから、

「課長は実はあたしじゃなくて、みずきちゃんを連れて行きたかったんじゃないですか?」

 みずきちゃんとは、私の部下の女の子だ。

「そんなことはないさ。君は、湯河原のマンションを購入して最初に備品を社長と一緒に揃えたらしいじゃないか。キミほどあのマンションに詳しい人はいないって社長が言ってたよ。宜しく頼みますね」

「課長の力になれるんだったら、あたし何でもしますから」

 千鶴は、心から嬉しそうに言っているような表情をしていた。こうしていれば、とても魅力的な可愛い普通の女の子なのに、何故、あれほど変わるのだろう?

 人格が豹変する彼女が不思議でならなかった。

 その後、私が朝8時に車で迎えに行くと約束をして、その日は帰った。

 そして翌日の今日、私は時間通り午前8時に千鶴のマンションに迎えに来たのだ。


 千鶴の部屋からボストンバッグを2つ持って車のトランクに乗せた。何故こんなに荷物が多いのか訊くのは止めた。またキレられたら困るからだ。

 彼女の格好は、まるでバカンスに行くようなスタイルだった。だが、妙に似合っていて、これがドライブデートだったらどんなによかっただろうと思えるような、そんな魅力的な恰好だった。

 私の車は、当時黒のスカイラインだった。助手席のドアを開けて千鶴を助手席に乗せた。

「課長は優しいですね」

 千鶴が嬉しそうに笑っている、眩しいくらいに可愛い笑顔だった。こんな笑顔を見せられて、その気にならない男はいない。

「じゃ、スタートするよ」

 私は静かに車を走らせた。

 晴天だったが平日ということもあり、道路は空いていた。首都高から東名高速へ入る。順調に湯河原に向かっていた。


 車の中では、CDを聴きながら取りとめのない会話をする。これから仕事に行くとは思えないような和やかな雰囲気だった。

 彼女は、朝食を取っていない私の為に、おにぎりとお茶を作ってきてくれていた。

 気が利く、本当に優しい理想的な女性だと、私は思った。

 このときまでは・・・


 小田原インターチェンジで東名高速を下りて、一般道路を伊豆方面に進む。真鶴道路に入ったところで車を止めて休憩を取った。

 休憩でトイレに行き、暖かい珈琲とお菓子を買って、再び車をスタートさせた。

「順調に行けば、あと30分くらいで着くと思うよ。疲れてない?」

「平気です。あと30分で着いちゃうんですか。残念ですね。もっと乗っていたかったな」

「今回は仕事だから。よかったら、今度はプライベートでドライブに誘うよ」

「え、ホントですかぁ、嬉しいです」

 言ったあとでしまったと思ったが、後の祭りだった。雰囲気に呑まれて、軽はずみにデートに誘ってしまった。

 まずかったな、社交辞令とは取らないだろうな・・・

 CDからFMラジオに切り替えて、天気予報と道路の交通情報を聴いていると、ニュースが始まっていた。


『結婚式場で歴史のある、東京港区にある○○が、業績悪化のため、負債総額・・・・・で、倒産いたしました。これにより・・・・』


「へぇ、あの有名な式場の○○が倒産かぁ。びっくりだなぁ」

「そうですね」

「最近の若者は、なかなか結婚資金を貯めている人が少ないから、予算をかけずに、地味に式を挙げたり、式さえ挙げなかったりするから、○○のような高級な式場は倒産しちゃうんだろうね。地味婚なんて言葉も出来てるくらいだからなぁ」

 何気なく、一般的な意見として、私は感想を述べたつもりだった。

 ところが、千鶴の顔色が変わったのを、私は見逃さなかった。


「ちょっと待ってよ。それって、あたしたちの結婚式も地味で簡単に済ませればいいと思ってるのね」

 あの、物凄い形相がこちらを睨んでいる。

「えっ? な、何を言ってるの?」

 私は驚いた。

 あたしたちの結婚式? はぁ? いつ俺たちが結婚することになったんだ?

「今、あなたはそう言ったじゃない。地味で簡単な結婚式でいいって」

「い、いや、ちょっと待って。ぼくは、ラジオで流れていたニュースで老舗の高級結婚式場が倒産したって言ってたから、その原因として感想を言っただけじゃないか。僕たちの結婚式の話しなんか・・・そもそも、僕たちが結婚するなんて、いつ決まったんだ。というか、ぼくたちつきあってもいないし・・・」

 一瞬、何を言っているのか判らなかった。次に、この女は頭がおかしいと思った。

 妄想癖どころの話じゃない。

 しかも、完全にキレている。

「あなたは前の奥さんと、既に一度盛大な結婚式を挙げているから、もう二度目は簡単でいいと思っているかもしれないけど、あたしは初めての結婚式なのよ。思い出に残る豪華な結婚式を、お友達を呼んで盛大にやりたいと思うのは当然じゃない? あたしの、そんな気持ちがわからないの!」

 物凄い剣幕で、しかも大声で車の中で怒鳴っている。

 私は車を走らせながら、今にも殴りかかってきそうな雰囲気に、車を止めた方がいいんじゃないかと思い始めていた。

 それにしても、どうして彼女はこんなにもキレたのか?

 オレは、なにかマズイ事を言ったのか?

 しかも、俺たちがつきあっていて、結婚する約束までしているような状況になっている。

 どういうことだ、これは?

 さっぱりワケが判らないでいる私に、彼女は追い討ちの一言を吐いた。

「あたしは、絶対にあなたとの結婚式はちゃんとやってもらいますからね!!」




第6章 説得


 車の中の雰囲気は最悪だった。

 一切口を利かない千鶴は、助手席で窓の外をずっと眺めたまま、ぴくりとも動かなかった。

 息苦しさを覚えて、私は口を開いた。

「なんで怒った? ニュースの話題をちょっと口にしただけなんだぞ。それに、そもそも、俺達はいつ結婚することになったんだ?」

 千鶴は答えない。

「つきあってもいないのに、結婚話が出ること自体驚きなんだけど・・・しかも、オレは一度も結婚式は地味にするなんて言ってないし」

 千鶴は答えない。

「気分を害したのなら謝るけど、キミの誤解だぞ。オレは何度目でも結婚式は花嫁の納得いくようなものにしたいって思っているんだから。もっとも、オレは再婚するつもりもないし、そういう相手もいないけどね」

 千鶴は答えない。

 私はため息をついて、もう喋るのを止めた。こんなことに気を遣うことがばかばかしくなったのだ。

 オレは仕事をしにいくんだ!!  そう自分に言い聞かせた。

 数分して、いきなり千鶴がこっちを向いた。

「な、なに?」

 私はぞっとした。千鶴の目が、物凄く冷ややかに、感情のない死んだ目をしていたからだ。

「彼女、いないんだ?」

 食いついたのは、そこかよ!

「へぇ、いないんだね」

 千鶴がニヤリと不気味な笑顔を見せた。笑顔じゃない、不敵な笑い・・・

「まぁ、今は・・・いない・・・けど」

 詰まらないことを言ったと後悔しても遅かった。

「ふぅ~ん、あたしの誘いに乗らないから、てっきり、可愛い彼女がいるのかと思ってたけど、なんだ、いないんじゃん。無理してたんだ? 我慢してたんでしょ?」

「無理? 我慢?」

「ホントは、あたしの誘いに乗りたかったんでしょ? 無理して我慢してたんだ? 素直になればいいのに」


 自意識過剰もここまでくれば立派なものだ。

 男は全員自分に気があると思いこんでいるのかもしれない。

「あたしのこと、好きでしょ?」

「えっ? い、いや、好きもなにも、山野さんのことはよく知らないじゃない。この前相談があるって外で逢ったのが初めてじゃないか」

「千鶴でいいわ」

「ん? あぁ・・・」

「この前逢って、あたしのことがよくわかったでしょ? 章久さんの奥さんとして合格だと思ってくれたでしょ?」

 課長が名前で呼ぶようになっていた。

 この展開は、極めてまずい。

「あたしが、章久さんの奥さんになってもいいって言ってるのよ。嬉しくない?」

 嬉しくないって訊かれても・・・嬉しくないと答えれば、きっと、キレる。

「嬉しくないことはないけど、オレにはもったいないかな」

 心にもないことを言っている自分に嫌気がさした。

 だが、少し彼女は気分を持ち直したようだ。さっきのようなキレかたでは、今後の仕事に影響する。

 ここは「忍」の一語だろう。

 そうしているうちに、社長が購入した別荘、10階建ての高級リゾートマンションに到着した。

 エントランスに車を止めて、彼女の荷物を下ろし、車を駐車場に入れる。彼女は、荷物を足下に置いて、私が来るのを待っていた。

 私は彼女の荷物を持ってやって、鍵を開けて建物に入って行った。さしずめ、新婚旅行の、尻に敷かれた亭主のような感じだった。

 部屋は、907号室。つまり9階だ。100平米はあるリゾートマンションで、リビングは18畳くらいか。テラスから眺める太平洋の海は、太陽の日差しを受けて、キラキラと輝いていて眩しかった。

 ホントに新婚旅行で来たいくらいだった。

「先にシャワーを浴びる?」

「あぁ? 何言ってるの?」

「あたしとしたいでしょ?」

「したいって何を?」

 千鶴はコロコロ可笑しそうに笑って、

「セックスに決まってるじゃない。だから、あたしをアシスタントに選んで連れてきたんでしょ? 部屋の掃除はそのあとでいいじゃない。時間はたっぷりとあるんだから」

 ど、どうなってるんだ? オレが千鶴をアシスタントに選んだ? バカなっ 社長から連れてゆくといわれたにすぎない。

 どうなってるんだ?

 いや、そんなことを言ってる場合じゃない。この勘違いを、どう解決するかだ。下手なことを言って、さっきのようにキレられたら困る。

「ねぇ、どうなの?」

 千鶴が私に一歩近づいてきた。私は後ずさりして首を振った。その行動が、彼女の気分を害したようだ。

 いきなり足下にあったティッシュの箱を私の方に投げつけてきて、物凄い形相で、

「あたしに恥をかかせる気? したいならしたいって言えばいいじゃん! なんで素直にならないのよ! カッコつけたって得しないわよ。あたしが先にシャワーを浴びるから、あとから絶対に来てよね!!」

 千鶴は、怒鳴り散らしたまま、自分のバッグを持って浴室に消えて行った。

「ちょっと待ってくれ。オレにその気があるかないかはとりあえず置いておいて、先に掃除を済ませないか? 日用品の買い物もあるし、夜になれば、店も閉まって買えなくなっちゃうじゃないか。面倒な事を先に済ませてから、のんびりしようよ」

 すると、千鶴はくるっと振り返った。その表情は、今まで会社で時折見せていた、あどけない可愛い笑顔だった。

「そうね、章久さんの言うとおりだわ。ごめんね、あたしが焦ってた。さっさと掃除を済ませて、ゆっくりしましょ」

 千鶴は、バッグをリビングに戻すと、ニコニコしながら、「まず何からはじめましょうか?」などと優しい声を発して、部屋の中を見廻し始めた。

 私はホッと胸を撫で下ろしたが、危機が去ったわけではなく、清掃が終了したのちのことを考えると憂鬱になった。

 とにかく、今は掃除をしっかりやって、その中でこの状況を打破することを考えようと心に決めていた。




第7章 まちぶせ


 部屋の掃除は分担して決めた。その方が早く済むと千鶴が提案したのだ。

 千鶴は一所懸命に、しっかりと掃除をしてくれていた。チラッとだけ見た彼女の部屋が、あれほど綺麗に片づけられていたことを思い出して、ホントに奥さんにしたら、家をちゃんと守ってくれる人なんだろうと思わずにはいられなかった。

 あの、豹変さえなければ・・・・

 あとは日用品を買いに行くだけだ。時間は午後4時。これなら日帰りできる。

 私と千鶴は、私の車で湯河原駅前のスーパーに買い物に出かけた。買う品物はメモに書き出してあったから、スムーズに買い物ができた。

 じゃ、帰るか・・・と思っていると、千鶴が食品売り場へ歩き出した。

「どうしたの?」

 私が並んで歩きながら訊く。

「今夜は、あたしが手料理を作ってあげる。章久さんは嫌いなもの、ないでしょ?」

「今夜? 手料理? あ、いや、気持ちは嬉しいけど、この分なら日帰りできそうだから、今日中に帰ろうよ」

 私は笑いながら、そう話しかけた。すると、キッとした目つきで私を睨み、

「今、なんて言った?」と訊いてきた。

 その目は、鷹が獲物を捕えて離さない、鋭い目つきだった。

「あ、いや、キミの協力で意外に早く終わったから、日帰りで帰ろうって言ったんだ。仕事は済んだわけだし。明日は会社に出社できるでしょ。いや、キミはせっかくだから休んでも構わないけど、オレは仕事が溜まってるからね」

「1泊で来たんじゃないの? 話が違うじゃん!!」

「それは、仕事が終わらなかった場合のことを考えてだよ。キミがしっかりと働いてくれたお陰で1日で済んだじゃん。キミには感謝してる」

「じゃぁ、感謝のしるしに、あたしと泊まってよ」

「それとこれは別問題だ。それに、せっかく綺麗に寝室なんか片づけたのに、ぼくらで汚すわけにはいかないでしょ?」

「明日、また綺麗にすればいいじゃない!!!!!!」

 スーパーの中にもかかわらず大声で彼女は叫んだ。そして、私を突き飛ばすように押すと、

「あたしは帰らないからね!!」と一言言って、ズカズカと外に出て行ってしまった。

 私は、持っていた籠の商品の会計を済ますと、車に近づいた。彼女が車に寄りかかって待っていた。

「遅かったわね。熱射病で殺す気?」

 相変わらず怒っている。

 私は黙って車のドアを開けて彼女に乗るように促した。


 マンションに戻ると、私は買ってきた日用品を所定の場所にセッティングしてリビングに戻った。千鶴は、ふてくされたようにソファに座ってテレビを見ている。

 私はソファの正面に座って彼女を見た。

「さぁ、帰ろう」

「いや!」

「仕事は済んだじゃないか。もう、ここには用はないでしょ」

「いやよ。あたしは章久とここに泊まるために来たんだから」

 呼び捨てになっている。

「じゃ、オレ一人で帰るぞ」

「どうしてそんなに帰りたがるのよ。だれか待ってる人でもいるの?」

 千鶴がジロリと私を睨んだ。

「いるよ。小さな娘がオレの帰りを待ってるんだ」

「嘘!! あなたは今娘と一緒に住んでないじゃない! 一人暮らしでしょ」

 な、なんで、そんなことまで知ってるんだ?

 確かに、私は妻の死後、子供を実家に預けて、横浜のマンションに一人暮らしだ。娘には週末会いに行って、一緒に過ごすのが習慣になっている。だが、その事実を知っている者は・・・・・社長しかいない・・・

 いや、私の部下と、私をこの会社にスカウトしたヘッドハンターも知っているか。

 恐ろしい女だ。どこから情報を仕入れている?

「今夜は娘のところに帰ろうかと思っていたんだ」

 私は口から出まかせを言った。

「あたしと娘とどっちが大事なのよ!!!」

 大声で怒鳴られて、さすがの私もむっとした。

「娘に決まってるじゃないか。オレの子だぞ」

「ふざけてるわ。絶対に帰らないから!!」

 千鶴はソファに横になるようにうつぶせて動かなくなった。私は大きなため息をついて、呆然と彼女を見ていた。

「なぁ、帰ろうよ。いや、オレは帰るよ、いいのか?」

「勝手にすれば!」

「そんなことを言わずに、今日は帰ろう。で、今度、きちんと話し合おうよ」

「いやよ! 絶対いや。あたしは帰らない。章久も帰さないからね。帰ったら殺すわよ!!」

 最後の「殺すわよ」は、私を鋭い目で睨みながら言った。

 私は「煙草吸ってくる」と言い残して、ベランダに出た。夕日が沈みかけていた。初夏の夕陽は鮮やかで眩しかった。潮風が爽やかだった。だが、そんな健やかな気分に酔っている余裕などなかった。

 なんとかしないとマズイことになる。いっそのこと、抱いてやろうか、とちらっと思ったりもしたが、それでは千鶴の思う壺だし、そんなことをしたら一生付き纏われるだろう。

 絶対に手を出したらダメだ! 心にそう誓った。

 それにしても、何故オレなんだ? 私は自問自答した。確か、千鶴は今年26歳だったと思う。私はうろ覚えの彼女の履歴書を記憶の片隅に思い浮かべた。私とは丁度一回り違う。そんな私のようなうだつの上がらないオヤジに本気で興味を持つわけがない。

 将来の総務部長だから? その地位が約束されている私に近づいて、会社での自分の待遇をよくしようとしている?

 いや、それはない。私はベランダで夕陽に向かって首を振った。

 私よりも千鶴の方が今は社長の人望は厚いはずだ。私に取り入るよりも、直接社長に願い出た方がずっと早くて確実だ。

 では逆に私に纏わりついて、私の汚点を探し社長に進言して私の出世を阻もうとしているのか?

 それは考えられる。だが、何故、何のために、いや、誰のために邪魔をしようとしている?

 いや、それだって、なにも回りくどいやり方を取らなくても、彼女ほど社長の信頼が厚いならば、直接社長に言えばいい。

 やはり、これは純粋な恋愛と考えてよいのだろうか。

 ベランダで10本の煙草を消費した。時間にして1時間ほどいただろうか。時間は午後7時を過ぎていた。もうすでに日は沈んで暗くなっている。

 私は、考えがまとまらないままリビングに戻った。すると、怒り疲れたのか、千鶴がソファで眠っていた。

「寝ちゃったのか? おい風邪ひくぞ」

 声をかけても起きない。ちょっと揺すってみたが、一瞬動いたが起きない。

 タヌキ寝入りじゃないだろうな。

 テレビがガンガンかかっているのに起きないのだから、本気で寝ているのだろう。


 そうか!!


 私は閃いた。


 私は、自分の財布から3万円を出し、テーブルの上に置いて、

「私は先に帰ります。今日はお疲れさま。キミはゆっくりとしてゆきなさい。この3万円は帰りの電車代だから、使ってください」

 そう、書き置きして、そっと部屋を出た。

 置き去りにすることに、ちょっと罪悪感を抱いたが、これも仕方ない。寝てしまったのをラッキーと考えた方がいいと思うことにした。



 私は一人車を走らせて、自宅のマンションに戻って行った。車の中で、何度も、目を覚ましてあのメモを見たら、彼女はどんな表情をするだろう? と考えたら、足が震えるほど恐ろしかったが、もう後戻りはできないし、戻れば彼女の思う壺だ。

 唯では済まないだろう・・・

 いや、もう唯では済まない事態を招いている。

 明日以降、千鶴がどういう行動に出るか、まったく見当がつかない。だが、会社では意外と普通にしているから、会社で修羅場を迎えることはないだろう。

 あとは、絶対に彼女の誘いには乗らないことだ。それを徹底すれば、そのうちにオレのことなど見捨てるだろう。

 そう思った。


 横浜のマンションに着いたのは、夜中の11時を少し廻った頃だった。

 私は3階に住んでいる。車を止めている駐車場までは、マンションを越えて200メートルほど行かなければならなかったから、マンションの下に車を止めてしまおうと考えた。

 一晩くらいなら大丈夫だろう、今までも何度もそうしているから。

 この場所で、駐車違反で捕まったという話は聞かない。

 3階の角部屋に住む私は、フロントガラスから自分の部屋がある3階を眺めながら、マンションの下まで来て見上げた。


 すると、


 私のマンションの部屋の前で、手摺りから私の車をジッと見つめている千鶴と、目が合ったのである。




第8章  忍び寄る黒い影


 私は、背中に走る戦慄を禁じ得なかった。

 冷酷で、何の感情もない、殺意に満ちた視線が、上から私の車に刺すように注がれている。

「帰ったら殺すからね!!」という千鶴のセリフが脳裏に蘇ってきた。

 私は止まりそうな車のアクセルを思いっきり踏んで、マンションを通り過ぎて細くて暗い道を、物凄いスピードで走らせた。

 後ろから、悪魔のような形相の千鶴が、宙に浮いて追い駆けてくるのではないかと、恐怖に駆られてバックミラーをチラチラ見ながら、くねくねと曲がる真っ暗な道を、相当なスピードで抜けて行き、国道に出るとさらにスピードを上げて走った。

 無我夢中とはこういうことをいうのだろう。

 30分ほど走って、国道沿いの一軒のファミリーレストランの駐車場に車を入れた。

 車を止めてエンジンを切っても、私の体の震えは止まらなかったし、今にも目の前に千鶴が現れそうで怖かった。

 おそらく、髪の毛が真っ白になったのではないかと思えるくらいの恐怖心だった。

 私は、24時間営業のファミレスに入り、珈琲を注文して席に落ち着いた。

 と、その時に携帯電話が鳴った。

 しまった!!!


 携帯を切っておかなかった。

 着信履歴を見ると、千鶴だった。私は通話ボタンを押して、恐る恐る耳にあてた。

「もしもし・・・」

「なんで逃げたのよ!!!」

 携帯電話を耳から離したくなるほど、耳につんざく叫び声だった。

 やはり、私の車だと判ってしまっていたか・・・・

 見つからないことを期待したのだが・・・・

「よくあたしを置き去りにできたわね!」

「あ、いや、それは悪かったと思ってるよ。でも、キミが帰らないというから・・・」

 若干、自分の声が震えているのに気づき、情けないと思った。

「ぶっ殺されたいの?」

「・・・」

「今、ここに戻ってきて、あたしをあなたの部屋に入れてくれたら、全部水に流してあげるわ」

「それは出来ない」

「ふざけるんじゃないわよ!!!」

 物凄い権幕だ。

「こっちがしたでに出てやれば、図々しいことばっかり言って!」

 いや、どっちが図々しいのか、と言ってやりたかった。

「オレのマンションは、だれも中に入れないことにしてるんだ。今までもほかの女を入れたことはない」

 これは本当だった。死んだ妻との思い出がつまった家だから、他人に汚されたくなかった。

「嘘よ!」

「いや、それは本当だ。だから、今日のところは帰ってくれ」

「こんな時間に帰れるわけないじゃない! 電車だってないわよ」

「タクシーを呼んでやるよ。それに乗って帰ってくれ」

「いやよ。帰ってほしいんなら、あなたが送りなさいよ」

「それもできない。タクシーはオレの名前でオレに請求が来るように迎車を呼ぶから、それで帰れ」

「絶対いや。朝までここにいてやるから!!」

 一方的に電話が切れた。

 私は、携帯電話の電源を切って、そして窓の外を見ながら、あいつのことだから、本当に朝までいるかもしれない、と思った。

 それにしても・・・・

 何故?

 謎が多すぎる。

 何故オレのマンションを知っていたのか?

 セキュリティがしっかりとしたマンションの内部にどうやって入ったのか?

 いや、それは住民が出入りする際に、住民のフリをして一緒に入ってしまえばいいのだから簡単だろうが。

 私は時計を見ながら、千鶴の行動を推理してみた。

 私が湯河原の別荘を抜け出したのは、午後6時半くらいだ。直後に彼女が目を覚まし、メモを見ていきり立って支度してすぐに別荘を出たとする。

 管理人室でタクシーを呼んで貰って湯河原駅まで行き、そこから特急に乗るか、いや、小田原までタクシーを飛ばして新幹線で新横浜に来て、さらにそこからタクシーに乗る。

 一方、私は湯河原から真鶴道路を北上して、さらに東名を遣わずに西湘バイパスを通ってのんびり帰ってきたから、しかも途中ラーメン屋によって晩飯まで食ってきたから、必死になっている千鶴の方が早くうちに到着してもおかしくない。

 私はぞっとした。

 どうしてそこまでオレに纏わりつく?

 そこまでオレに惚れたなどと自惚れるつもりはなかった。むしろ、何かの「罠」に嵌って、あいつのおかしな神経を刺激してしまったのかもしれない。

 どうすりゃいいんだ?

 とりあえず、朝までここにいよう。もしかしたら、諦めて帰るかもしれない。

 私は淡い期待を胸に、独り空しくファミレスにジッとしていることにした。

 午前6時。私は恐る恐る携帯電話の電源を入れた。

 そして愕然とした。

 着信履歴が123本、留守電が目いっぱいの20件、メールの着信が33本入っていた。

 ぞっとした。留守電を全部聴く気にもなれず、メールを開いて読む気にもなれず、私はファミレスを出て自宅へ車を走らせた。

 まだ千鶴がいたらどうしよう? と思いつつ、さすがにもう帰ったのではないかと思って戻ることにした。

 一応念のため、私は自分のマンションの玄関が見える、反対側に建っているマンションの道路に行き、そこに車を止めて、自分のマンションへ目を凝らして見た。

 いない・・・・

 3階の玄関の前、1階のエントランス、マンションの周囲、念のためほかの階も眺めてみたが、千鶴の姿はなかった。

 きっと朝の出勤時間に、マンションの廊下に佇んでいれば不審に思われて、住民から警察などに連絡される恐れがあるから、諦めて帰ったのだろう。

 そういうところは賢明な女なのだ。

 私はホッと胸を撫で下ろして自宅に帰る決心をした。

 自分の部屋に入ると、疲れがどっと出てきて、私は部下の大杉のパソコンメールアドレスに、今日一日休む旨を伝えて、ベッドに横になった。

 と、そのとき、ふと、私は思い出した。

 そういえば、湯河原の別荘でクリーニングに出す洗濯物を、会社に持ってこなければいけないと思い、玄関先に丸めたまま、そのまま帰ってきてしまったのだ。

 マズイな。

 私は、夜になるのを待って、再び湯河原に車を走らせる決心をして眠りに就いた。



 午後9時過ぎ、私は真っ暗な部屋の玄関に、そっと物音を立てずに入った。湯河原の別荘である。

 目の前に、丸めて置いてある洗濯物があった。

 やはり、彼女が持って行ってくれるなんて気が利くようなことはなかったわけだ。

 思い出してよかった。このまま取引先を迎えれば、社長が大恥をかくところだった。

 真っ暗な中で、私はそっと洗濯物を抱えて出ようとした、そのとき、


「来ると思ってたわ。あなたは責任感がある人だからね。だから、ここで待ってたの」


 暗闇から、音もなくすぅ~と千鶴が現れた。

 その顔は、不気味に笑っていた。





第9章  嵐の前の静けさ・・・?


 全身の血の気が引いた。

 背筋に貫く戦慄を禁じえなかった。体が金縛りに合ったように硬直した。不気味な笑顔で近づいてくる千鶴の目を見ていたら動けなくなる。

 私は、「あっ!!」と、千鶴の背後に指を指して驚いた風に叫んだ。

「えっ」と千鶴が一瞬そちらを見た隙に、私は玄関のドアを思いっきり開けて廊下に出た。

 そして、一目散に廊下を走ってエレベーターに乗り込んだ。幸いエレベーターは、私が上がってきたまま9階で止まっていたので、すぐに乗り込んで『閉』のボタンを押し、1階を押した。

 随分と古臭い手を使ったものだと恥ずかしくなったが、そんなことを言っていられない。

 エレベーターが下がり始めた瞬間に、恐ろしい形相の千鶴が目の前に現れて、私を鋭い視線で見下ろしていた。

 手も足も、体全体が震えていた。

 恐ろしい。

 こんなにも執念深い女は初めてだ。いや、他にこんな女はいないだろう。

 エレベーターが1階に到着すると、ドアが開くのももどかしく、私は走り出し、エントランスを抜けて駐車場の車に乗り込んだ。すぐにエンジンをかけて走り出す。

 視線は、マンションの入り口に釘付けだった。

 車が走り出して、駐車場を抜けて、マンションの門を出ようとするときに、遠くのマンションのエントランスから一人の女が出てくるのが、バックミラーに写っていた。

 小さくて表情までは見えなかったが、千鶴であることは明らかだった。

 いったいオレが何をしたっていうんだ?

 どうしてオレなんだ?

 これからどうなるのだろう?

 明日から会社に行って、大丈夫なんだろうか?

 頭の中を、様々な思考がぐるぐる廻りながら、私は冷静さを取り戻しながら、自宅に車を走らせた。

 一応、携帯電話の電源は切った。また、100本以上の着信があるかもしれないが、それでも運転中に電話が鳴って動揺するよりはマシだった。

 自宅に到着して、また自宅の前に千鶴がまちぶせしていたらどうしようと思いながら、そのときは、警察しかないと心に決めていた。

 湯河原の別荘での出来事があってから1週間が過ぎていた。

 その間、何事も起きなかった。

 千鶴は普通に会社に出勤し、普通に仕事をし、仕事のことでは普通に私に話しかけてきた。


 いったい、あれはなんだったのか?


 逆に、あのときのことに触れない彼女の態度が不気味で、何か企んでいるように思えて、気が気ではなかった。

 だが、私の不安をよそに、1週間何事も起きなかった。


 きっと彼女の気紛れだったのだろう。

 きっと、精神的に疲れていたのかもしれない。角田のセクハラも、彼女が言うようなことが起きているとも思えなかったし、千鶴本人が、楽しそうに会社で仕事をしているのだから、きっと何事もなく、私も嵐が去ったように、元通りの生活が戻ってきたのだろうと、ホッとし始めていた。


 その考えは、実は甘かったのだけど。


 ある日、私の部下の女子社員である川嶋みづきが仕事でミスをした。私の席に来てその報告を受けた。

 社長が大事にしている、うちでも大口の取引先の担当部長に失礼があったらしい。詳しく話を聴いても、やはり彼女のミス以外考えられない状況だった。

「会社を辞めさせられちゃう」

 彼女は私の前で泣きながら、そう呟いた。

 この程度でそう簡単に辞めさせるような社長では・・・あることは確かだった。以前にも、大口の取引先に迷惑をかけた社員を簡単に切った事実があるのだという。

「まさか、こんなことでクビにするような社長じゃないって。大丈夫だよ。私と一緒に、そのお客様の所に謝罪に行こう。私がしっかりと謝ってあげるから」

 私が慰めても、みづきは泣き止まなかった。

「でも、社長が・・・」

「大丈夫だって。部下のミスは上司の責任だろ。キミをクビにするようなら、代わりにオレがクビになるから。キミを絶対にクビになんかさせないから、オレを信じろ。なっ?」

 私は、みづきの肩を優しく掴んで、小さく振った。俯いていたみづきが、私を涙目で見ながら、

「クビになりませんか?」

「なるわけないだろ」

「でも、以前に・・・」

「今は大丈夫だ。社長だってバカじゃないし、オレが一所懸命に社長に説明して謝ってくるから。それよりも、駅前の○○洋菓子店で、5,000円の○○を買っておいてくれよ。それと、○×部長のアポを取っておいてくれ。すぐに一緒に行こう」

 みづきはこっくりと頷くと、ようやく私に笑顔を見せた。

「泣いた顔より、その方がチャーミングだぞ」

 私は慰めにもならない冗談を言ってから、内線で社長を呼び出し、今から伺う旨を伝えて、「じゃ、行って来るからな。外出の準備を整えて待っていてくれ」とみづきに言って、席を離れた。


 その様子を、感情のない冷たい目で、ジッと一部始終を見詰めている社員がいたことに、私はこのときは気づいていなかった。




第10章  ターゲット


 社長室に入ると、仏頂面をした社長が不機嫌そうに待ち構えていた。川嶋みづきのミスは、既に報告されているようだ。

 私は、社長の前に立った。

「えらいことをしてくれたな」

 社長は、身長は小さく体格も大柄というわけではないが、顔はブルドッグのように怖い顔をしている。勿論笑うこともあるが、仕事中は努めて厳しい表情を心がけているようだ。

 オーナー社長、ワンマン社長と陰で言われているとおり、経営は独裁的だ。だが、それが決断を早め、取引を円滑に進めているので、会社がここまで躍進してきた要因がそこにあると思われた。

 だが、ミスには非常に厳しい。減俸は当たり前で、首を切られた社員さえ過去に存在している。

 それは有名な話だけに、社員がビクビク萎縮しているのも事実だった。

「私のミスです」

「川嶋君のミスだろう? 彼女の処遇を考えなさい」

 きたか、と私は内心舌打ちをした。社長は、刺すような厳しい視線を私に送っている。私がどういう処遇を下すか、待っているように思える。

「処遇、ですか? 特になにかするつもりはありませんが」

「どういう意味だね?」

「勿論、今回のミスについては厳重に注意をして、二度とこんな下らないミスがないように気をつけさせます。それだけにするつもりですが」

 社長はジロリと私を見た。納得していない目だ。

「辞めさせないのかね?」

 落ち着いた口調で、私に言う。

「はい。辞めさせるつもりはありません」

 私はきっぱりと言い放った。だが、話の中身とは裏腹に、声は震えていたし、手の指先も小刻みに震えていた。

 今は、社長も普通の音量で落ち着いて言葉を発しているが、元来声が大きくて、怒鳴ると空気が震えて風圧で壁に穴があくのではないかと思えるほど迫力がある。

「私がクビにしろと命令しても、かね?」

 私は一呼吸してから、真っ直ぐに社長の目を見詰めて、

「社長はそんな無謀なことを仰らないですよ」

 そして、にんまりと笑った。

「無謀?」

「ええ、無謀です。社長は、社員の、この程度のミスは笑って許してくださる方ですから。勿論、私のような管理職が、こんなミスをすれば、怒鳴られて降格処分や解雇処分を受けても仕方ないと思います。しかし、今回は入社2年目の社員のミスです。寛大な社長のことですから、きっと私の指導力のなさを責め立てて、本人への処罰はなさらないでしょう。私はそう思っていますが」

 今度は、社長がにんまりと笑った。

「なるほど。私がそんな軽い処分で済ますような経営者だと思っているわけだ?」

「軽い処分? とんでもない。社長に大変ご迷惑をかけました。取引先の○×部長にお許しを得られなければ、私が責任を取って、減俸でも降格でも、甘んじて処分を受けます。しかし、まだ会社に損害を与えたわけではありません。そういう社員を、簡単に切り捨てるような社長ではないですよね」

 私は社長の顔を覗き込んだ。社長は私を睨んでいたが、表情を緩ますと、

「キミには負けたよ。君の言うとおりだな。今回は、クビにはしない。君から厳重に注意しておいてくれたまえ」

 と言った。

「ハイ」

「そのかわり、次に同じようなミスをしたら、本人は勿論、キミにも責任を取って貰うよ、いいね?」

「心得ております。有難うございます」

 私は深く頭を下げた。狙い通りだった。

「これから、○×部長の所に謝罪に行って来ます」

「ほぉ、対応が早いな」

「こういうことは、早く済ませておくに限ります」

「そうだな。宜しく頼む」

 私は一礼して社長室を後にした。


 自分のフロアに戻ると、自席から川嶋みづきが心配そうにこちらを見た。私は満面の笑みを浮かべて、親指と人差し指で丸を作って、大きく頷いた。

「川嶋さん、出かけるよ」

「はい」

 川嶋みづきが元気よく立ち上がった。今まで泣いていたようで、目が真っ赤だった。

「な、心配いらなかっただろ?」

 私は、みづきの肩をかるく叩いて彼女に微笑みかけた。みづきは、うんと大きく頷いて、

「ありがとうございます。課長のお陰です」

「ばか言うな。社長が寛大なだけだ。当然の結果だよ。じゃ、下のロビーで待ってるぞ。制服を着替えて下りて来い」

 そう言ってから、部下の大杉に、今日は取引先に謝罪に行ったまま、会社には戻らずに直帰すると伝えた。ついでに、川嶋みづきも直帰させると付け加えた。

 川嶋みづきに、たまには食事でもご馳走しようという気になったのである。勿論、本人にその気があれば、の話だが。


 私が、エレベーターに向かって歩いてゆくと、エレベーターホールの前で、私に近づいてきて寄り添う人がいた。


「そっか。みづきのことが好きだったんだぁ。あたしの目の前で、わざとらしく見せつけてくれたわね」

「えっ?」

 私は、ジッと彼女を見た。千鶴である。

「つきあってるの?」

「そんなわけないだろう。私の直属の部下だぞ」

「もう寝たのかしら?」

「何を言ってるんだ、キミは」

 千鶴は、ふっと笑うと、キッとした目で私を捕らえて、

「みづきを二度とあなたに近づけないようにしてやるわ」

 それだけ言うと、千鶴は私に背を向けて自席の方へ歩いていった。




第11章  怪メール


『あんたの秘密を私は知ってる。あんたは、会社の女子社員を手当たり次第声を掛けて、そして関係を迫ってますね。あんたは最低な男です。あんたのような最低な男には、きっと天罰が下るでしょう』


 千鶴が私に捨て台詞を吐いた日の翌日は土曜日で、会社は休日だった。

 自宅で、部屋の掃除、洗濯に余念がなく、せかせかと動いていた矢先だった。

 携帯電話にメールが入ったので、中を開くと、そんな内容の文章が入っていた。送り主のアドレスに見覚えはない。

 登録もしていないので誰だかわからない。

 山野千鶴のメールアドレスは登録してある。彼女からのメールなら、千鶴の名前が画面に出る筈だった。

 私は、すぐに返信メールを打った。


『キミは誰だ? 名前を名乗りなさい。匿名でこんな根も葉もないメールを送るのは卑怯だし、犯罪行為に他ならない。主張に自信があるなら名乗りなさい。』


 そして、返信した。


 だが、すぐに、エラーメールが届いた。そんなアドレスは存在していないと・・・・


 私は次に、すぐに千鶴へメールを送ろうと考えた。

 こんなメールを送ってくる奴は、千鶴以外考えられない。その千鶴が、アドレスを変更して私にメールを送り、すぐにまたアドレスを変えたとしたら、以前から散々私にメールしてきた以前のアドレスも遣われていないはずだった。

 確か、アドレスを変更して6ヶ月は同じアドレスが使えなかった筈だからだ。


『お疲れ様です。昨日のキミの言ったことは誤解ですから。部下が重大なミスをしました。そのフォローをするのは上司の役目だから。キミなら判ってくれると思います。それでは月曜日』


 別に、川嶋みづきを慰めた言い訳を千鶴にする必要などなかった。このメールは、千鶴のご機嫌を伺うというよりも、果たしてメールがちゃんと相手に届くかどうかの実験だった。


 最初のメールが、千鶴の仕業だったとしたら、このメールはエラーで戻ってくるはずだと思ったからだ。


 果たして・・・・・


『お疲れ様です。昨日の出来事は、大杉さんから詳しく聞きました。あたしが誤解していたみたいです。ごめんなさい。あなたは、誰にでも優しいから、ちょっぴり妬けちゃいました。あたしがミスったときも庇ってくださいね。では、月曜日』


 えっ?????


 犯人は千鶴じゃない?

 千鶴は、以前のアドレスで、ちゃんと私に返信してきていた。

 いや、そんなはずはない。あんな怪メールを送るような人間は、私の周りでは千鶴しかいないはずなのだ。

 だが、千鶴はアドレスを変更していない。ちゃんと私のメールは届いたし、返信さえきている。


 では、いったい・・・・・?


 私は頭が混乱していた。どういうことだ?

(※ 参考までに言い訳しておく。このときには、一人の人間が2台の携帯電話を持つという意識はなかった時代なのだ。それほど、携帯電話は気軽に買えるものでもなかったし、まして、2台所有している人は、滅多にいなかった)


 だが、今までの言動から考えて、犯人は千鶴以外考えられないのだ。

 では、何故千鶴はこんなことをするのだろうか?

 たとえば、私が千鶴を犯人だと疑ったとしよう。敢えて自分が嫌われるような行動に出る理由がわからなかった。

 こんな嫌がらせをしたところで、彼女にメリットがあるとは思えない。


 では、犯人は千鶴ではない?


 私はモヤモヤした気持ちを持ったまま、運命の月曜日を迎えることになったのである。




第12章 黒い噂


 怪メールの差出人が判らないまま、10日が経った。

 その間、同じような怪メールは届かなかった。

 土日の休日になると、私は娘に会うために、一人暮らしのマンションから実家に戻る。

 その実家に、5~6度無言電話がなることがあったらしい。

 実家の両親は、気持ち悪がっていたが、その犯人が、私の関係の人間かどうかは判らない。

 まして、千鶴がやっているのかどうかなど確かめられなかった。

 今の固定電話は、着信記録も残せるし、番号表示も可能だが、当時の実家の電話機は、古い電話機だったので、それらの機能がついていなかったのだ。

 そんなことが起きつつも、千鶴からは具体的なアプローチも嫌がらせもなく、会社では普段どおりの態度で接してきて、特に奇怪な出来事もなく過ぎていった。


 諦めてくれたのかな?

 それとも、俺なんかにまとわりつく価値がないと悟ったのかもしれない。

 そう思い始めたときに、部下の川島みづきから会社で相談があるといわれた。

 私は、部下の大杉に断って、同じフロアにある小会議室にみづきを誘って入った。

「どうした? 何かあったか?」

 みづきは俯いたまま、会議室の出口を気にしていた。

「あの・・・・」

「なに?」

「あたし、結婚しようと思ってるんです」

「えっ、結婚?」

「ええ」

 みづきが下から上目遣いで私を見る。恐る恐るという感じだ。

「へぇ、そうか。この前、取引先に謝罪に行った帰りにメシ食ったときには、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」

 そう、先日みづきのミスで、私と二人で取引先の部長に謝罪に行ったときに、帰りに軽く食事をして、仕事のことや同僚のこと、私としては山野千鶴の性格なども聞きたかったが、世間話をして帰ったのだ。

 ちなみに、取引先からは対応の速さを評価されて、今回は特にお咎めなしということになった。社長にそれを報告して、社長も安心していた。こうして、私の処罰も、勿論みづきの処罰も課せられずに無事事なきを得たのだ。


 そういえば、そのときに比べると、みづきの態度は余所余所しい。

「驚かないんですか?」

 みづきは意外な言葉を発した。

「えっ、いや、驚いてるさ。でも、それ以上に喜ばしいことじゃないか」

 私は、心から嬉しそうに笑った。みづきは、不審そうに私を見て、

「結婚しても、いいんですか?」

「あぁ? 変なことをいうねぇ。反対する理由がないじゃないか。私はキミの親父じゃないぞ。それとも親に反対されてるのか?」

 みづきは小さく首を振って、「そうじゃないけど・・・」とつぶやいた。

 なんか変だ・・・そう私は思った。

「何を気にしてるの?」

「あたし、4年つきあってる彼氏がいます」

「うん、その人と結婚するんでしょ? キミのようなチャーイングな子に彼氏がいないわけないとは思っていたんだ。社内の人?」

「いえ、違います。社内の人だったらどうなんですか?」

「どうということはないけど、社内だったら仕事は続けられないかなって心配したんだ。うちの社長、そういうとこ、頭が固いでしょ?」

「会社は辞めようかと思ってるんです」

「そうなの? 専業主婦になるんだ? 子供ができるまではいいんじゃないかとも思うんだけどねぇ。まぁ、事情がひとそれぞれあるわけだし」

「あたしが結婚して会社を辞めることに、課長はなんとも思わないんですか?」

 なんだか変な感じだ。いったいどうしたんだろう?

 私は首を傾げながら、

「そりゃぁ、キミはうちの課にとって、2年目とはいえ貴重な戦力だから、辞められるのは残念だよ。できれば続けてほしいと思う。でも、それは個人の事情があるし、家庭と仕事を両立するのは大変だから、体を壊してもまずいし、仕方ないんじゃないかな」

「いえそうじゃなくて・・・・」

「じゃぁ、なに?」

 私は、煮え切らないみづきの態度に、ちょっと苛ついてきた。

「あの、これは聞いた話なんですけど・・・」

「うん?」

「課長が・・・・・あたしのことを好きで、あたしと結婚したがっているって・・・・で、このまま部下で働いてると、そのうちに、強引に・・・」

「はぁ? なんだ、それ」

 私は素っ頓狂な声を上げた。

「違うんですか?」

 次に、私は大声で笑った。

「そりゃぁ、確かに、キミはチャーミングで可愛い子だと思うけど、ぼくとキミはいくつ離れてると思ってるんだ? それに、ぼくは自分の部下に手を出したりしないし、職場では女性を女性と見たことなどないんだよ。そんな余裕を与えてくれるような社長じゃないじゃないか」

 私は優しく、みづきを傷つけないように、さらっと言い放った。

「そうなんですか?」

 みづきが幾分緊張を解いたように笑顔になった。

「あたしも、おかしいなって思ったんです。課長はあたしに対してそんな素振りも見せないし、誘ってこないし・・・でも、あたしにはいつも優しいから、そう言われると、そうかなって思って・・・・」

「で、危機感を感じて、ぼくに襲われる前に彼氏と結婚して会社を辞めようって考えたわけか?」

「すみません・・・・」

「キミが謝ることじゃないけど、でも、そんなガセネタをキミに吹き込んだのは誰なんだい?  誤解もいいとこだ。それに、ぼくがそんな卑怯なことをすると思われていたことが心外だな」

「それは・・・・」

 小さな声で、みづきが言った名前を聞いて、私は愕然とした。


 小会議室を出て、自分の席に戻ると、部下の大杉が声を掛けてきた。

「課長、社長がすぐに来るように内線がありました。ものすごく怒ってましたよ。課長、なんかやったんですか?」




第13章 真犯人の思惑


 私が、「失礼します」と断わって社長室に入ると、デスクの前にいた社長が、仏頂面で黙って手前のソファに顎で示した。

 私は軽く頷いて、「失礼します」と再び断わってソファの前に立った。

 しばらく書類に目を通していた社長が、デスクを離れてソファまで来た。

 ゆっくりと私の正面に座る。私を見上げて、「座りなさい」と言った。

 私は再度「失礼します」と言って社長の正面に座る。機嫌が悪いことはすぐに判る。だが、その原因が判らない。

 社長は、ジッと私を見つめてから、

「私は君に期待してるんだ。来年の決算を待って、役員にしてもいいとさえ思っていた。」

「恐れ入ります」

 私は頭を下げた。いったい社長は何が言いたいのだろう。

 機嫌が悪いことは間違いない。但し、私には、社長の機嫌を悪くするような心当たりがなかった。

「君は私を裏切ってくれたね」

「裏切る? どういうことでしょうか?」

 予想に反した台詞が社長の口から告げられて、私は拍子抜けしたように首を傾げた。

「社内に、君によくない噂が立っているのを知っておるか?」

「よくない噂ですか? いえ、存じません」

 嫌な予感がした。川嶋みずきからの訴えが脳裡に蘇る。怪メールの一件もある。

 まさか!

「君が手当たり次第、うちの女子社員に手を出してるっていう噂だよ」

 やはり・・・

「初耳です」

 私は惚けた。

 何故、そんな噂を流すのか・・・

「身に憶えは?」

「ございません。入社以来3ヶ月、お陰様で社長から出されている課題をクリアすることで精一杯ですので、そのようなヒマはございません」

 私は幾分落ち着いてきた。怒りの理由が判れば、その対処方法も見えてくる。私は、固くなっていたからだの力を抜いた。

「じゃぁ、何故私の耳にまで、そんな噂が届くのだ?」

「存じません」

 この前の怪メールと同じだ。会社の女子社員を手当たり次第手を出している・・・・まさに、メールの内容そのものだった。

 つまり、この根も葉もない誹謗を社長の耳に入れた犯人こそが、怪メールの犯人だと言って差し支えない。

 いったい誰が?

「つまり、単なる噂に過ぎないと、君は言いたいわけだ?」

「性質の悪い誹謗中傷です。根も葉もない、単なる噂に過ぎません。それとも、社長のところには、何か証拠となるものがありますか?」

 社長は、私をジッと見て、

「証拠などないよ。あったら、こんな確認などせずに、君を解雇している」

 確かに、その通りだ。

「重ねて訊くが、全くのデマだと言うんだね?」

 社長の表情が幾分和らいだ。私は大きく頷いて、

「先に仰って頂いた役員云々のお話は置くとして、私は社長を裏切るようなことはありませんし、今は仕事の事で精一杯です」

「ふむ」

 社長も大きく頷いて、小さなため息をついた。

「いやね、私も話を聞いた時には半信半疑だった。いや、半信半疑と言った

ら半分は信じていることになってしまうか。最初は、あり得ないと一蹴したよ。それに、君は独身だし、社内恋愛を禁じているわけじゃない。寧ろ、君には再婚して落ち着いてもらってもいいとさえ思っていたんだ」

「恐れ入ります」

「だが、手当たり次第で、セクハラまがいなことをしていると聞かされると、私も笑い飛ばす自信がなくなってねぇ」

「セクハラですか」

 私は呆れた。と同時に怒りが出てきた。

 社長にまでそんなデタラメを伝えているとすると、無視して黙殺するわけにもいかなくなる。

「上野支店の柏木君をしっているね?」

 急に社長が話題を変えた。

「あ、ハイ」

 私は、上野支店のトップセールスマン、いやセールスウーマンである、柏木由香里の顔を思い浮かべた。

 彼女は、確か24歳だったと思うが、非常に色っぽい社員で、彼女に好意を寄せる男性社員は少なくない。間違いなく、彼女が当社のナンバーワンの美人であることは間違いない。

 確か、大手企業の受付嬢をしていたが、仕事が退屈だと2年で転職して、当社の営業に中途入社した。

 容姿端麗、才色兼備とは彼女のために作られた言葉だろうといわれるほど、成績優秀で、性格も申し分ない。

 社長のお気に入りの一人だ。

 アプローチしても玉砕するだけなのだが、彼女に告白する社員が後を立たないと聞いている。

 その柏木由香里が何故今話題に挙がるのだろうか。

「あの柏木君が、君に好感をもっているみたいで、私のところに、君の部下にしろと異動届けを持ってきたくらいだ」

「そうなんですか?」

 意外な話だ。彼女は、トップ営業マンとして、以前に新卒採用向けに取材をしたことがある。会ったのはその一度きりだが、非常に前向きでバイタリティのある社員だった記憶がある。新卒向けの企業セミナーでも、忙しい中で時間を作って説明してくれたり、学生からの質問に丁寧に応えてくれて、昨年の新卒採用で営業希望者が3倍に膨らんだという効果もあった。

 先週、幹部社員10名で行われた、賞与査定会議でも、私は彼女を「特A」と評価した記憶がある。

 その柏木由香里が私の部下になりたい? 意外な申し出だった。

「つまり、あれだけの堅物というか、うちの男性社員に見向きもしない子が君に憧れるんだから、他の女子社員などイチコロだろう?」

 そういう発想だったか。私は苦笑しながら、

「とんでもないことです。あり得ません」

 私は手を振ったが、本当にあり得ないことだった。そんなに私がモテるのなら、とっくに彼女ができている。

「ちなみに、社長のお耳に、そんなデタラメな情報を入れたのは、誰なんですか?」

「う~ん」

 社長は少し考えるような素振りを見せたが、決心したように、

「いや、私に君のことを告げた社員は、会社を辞めてもらおう。君も仕事がやりづらいだろうから」

「いえ、そこまでは・・・・誤解しているだけでしょうから、誤解を解けば済むことだと思います」

「そうはいかんよ。だって、その社員は君の近くにいる社員で・・・」

 私は、その名前を聞いて、唖然とした。川嶋みずきの件に引き続き、ここでも名前が挙がったのだ。

 やはり、直接本人と対峙しなければならないかもしれない。



 その夜の、午後9時過ぎ、携帯電話が鳴った。

 着信を見ると、山野千鶴だった。

 私は、出ようか出まいか迷ったが、最近の千鶴の言動を見る限り、私に嫌がらせをしてくるとは思えずに、電話に出ることにした。

「もしもし・・・」

「・・・・」

「もしもし、山野さんでしょ?」

「・・・・」

 怪メールの次は、無言電話か!

 呆れて、電話を切ろうとした矢先、電話の向こうから叫び声が聞こえた。

「何すんのよ! やめてよ、やめてったら!!」

 私は慌てて携帯に向かって声を掛けた。

「オイ!! どうした? なにかあったのか?」

「・・・・」

 沈黙。

 沈黙。

 沈黙。

 そして次の瞬間、耳を劈くような悲鳴と物音が聞こえてきた。

 只事じゃないと思い、私は上着を摑んで、テーブルの上の車のキーを乱暴に取り上げると、マンションを出ていた。




第14章 いけにえ


 私は無我夢中で車を走らせて、千鶴の家の傍までやってきたが、そこでふと冷静になった。

 待てよ・・・・

 今まで、散々彼女には騙されて、煮え湯を飲まされてきた。

 今回だって、彼女の「お芝居」である可能性は大いにある。いや、寧ろ、芝居であると普通は思う筈だ。

 数日前、歯痛だと言われて彼女のマンションに駆けつけて、帰りしな凄まれた記憶が蘇ってきた。それだけじゃない。湯河原の1件や、私の自宅マンションでのまちぶせなど、彼女のストーカーぶりが一つ一つ蘇ってくる。

 今、彼女のマンションに駆けつければ、折角最近大人しくなってきたことが、再び悪夢の中に舞い戻ることにならないだろうか。

 なぜ、私は冷静さを欠いて、夢中でここまで来てしまったのか、我ながら、恥ずかしくなった。

 ただ、今回は、芝居なんかじゃないような気がしていた。

 電話が途切れて沈黙の時間、微かに聞こえた男の怒声・・・

 そして、川島みづきと、社長から聞かされた、デマの出処・・・

 私は、今回の一連の出来事が、単に山野千鶴の狂言ではないような気がしていたのだ。

 だが、用心に越したことはない。

 私は、千鶴のマンションの一本手前の路地に入って、向かいに立っているマンションの影に車を止めて、そこから千鶴の部屋を眺めて見ることにした。

 ベランダから、いつかのように私を見張っていたら、私はすぐに帰るつもりだった。

 果たして・・・・

 千鶴の姿はない。

 部屋の灯りはついているようだ。かすかに見えるベランダの扉も閉まっている。

 3分・・・・5分・・・・

 千鶴が部屋からベランダに出てくる様子もなかった。

 私は千鶴の携帯電話を鳴らした。

 すぐに留守電サービスに接続されてしまう。

 電話を切っているのか?

 迷った末、私は、車をそこにおいて、歩いて千鶴のマンションのエントランスに入った。

 私の携帯は鳴らない。見張っているわけでもなかった。

 303号室を押す。

 誰も出ない。ロックも外れなかった。

 また押す。出ない。更に押す。出ない。

 外出?  まさか・・・・

 困惑しているところへ、マンションの住民が帰宅した様子で、持っていたキーでロックを解除した。

 私も、いけないと思いつつ、一緒にマンション内に入る。303号室の前に立ち、やはり戸惑ったが度胸を決めて、呼び鈴を鳴らした。

 沈黙。

 やはり外出か?

 どうしようか迷ったが、ドアノブに手をかけてみた。ドアが静かに開いた。鍵がかかっていなかったのだ。

 私はドアを大きく開けて。

「山野さん、青木です。電話の様子が変だったので来て・・・・」

 と、部屋の奥を見て、愕然とした。

 千鶴が体をくの字に曲げて、お腹を抱えるようにして倒れていたのだ。

「どうした?!」

 私は咄嗟に靴を脱ぎ、部屋に入ってベッドの前で倒れている千鶴に駆け寄った。

 彼女以外の女の部屋に初めて入った・・・・などと暢気な事を言ってる場合ではなかった。

 彼女の傍に、置時計が落ちて表面のガラスが割れていた。

 千鶴はお腹を押さえて、脂汗を出して唸っている。口から少し血を滲ませている。

「どうしたの?」

「お腹が・・・・お腹が、痛い・・・」

 見ると、捲れたスカートから出ている太腿に血が流れていた。


!!!


!!!


!!!


「オイ! 病院に行こう。いや、救急車だ! 救急車を呼ぶぞ」

「救急車はいや!」

「そんなこと言ってる場合か!」

「でもいや!! 大丈夫だから、そっとしていれば治るから・・・」

「そんなわけないだろ。血が出てるぞ」

 私は最悪の事態を予想した。そして、その予想は、99.9%当たっていると思わずにいられなかった。

 私は無理矢理救急車を呼んで、20分後、千鶴とともに救急車で病院に運ばれたのだ。



「お腹の子供は諦めてください。流産しています」



 病院に運ばれて、30分ほど廊下で待たされたあと、出てきた医師に私はそう言われた。

 流産・・・・やはり、妊娠してたのか。

 最悪の予想が当たってしまった。私は息苦しさを感じて、医師と向き合っているのが辛くなった。

「お腹の子の父親ですか?」

 医師は、私を睨んで訊いた。

「いえ」

 私は首を振る。

「では、あなたは?」

「彼女の会社の上司です。電話をもらったので、かけつけてきたんですが・・・」

「そうですか? 父親は誰かご存知ですか?」

「いえ、知りません」

「お腹に強い衝撃を与えた痕跡があります。たとえば、何かで殴るとか、蹴るとか。しかも、ぶつけたというよりも故意に殴ったというような痕跡です」

「お腹を、ですか?」

 私は眩暈を覚えた。

 私は、犯人と思われる奴の顔を浮かべて、舌打ちをした。会社では猫をかぶっていたわけだ。本当は、凶暴でかつ自分本位の最低な奴だったのである。

「内出血してましたから。とりあえず、母体の命には影響はないですが、精神的に参っているようですので、しばらく入院させてください。身内の方には連絡が取れますか?」

「会社に行けば連絡先がわかると思います」

「では、身内の方に来て頂いてください」

 医師が立ち去ろうとするのを、私は呼び止めた。

「あの、本人は、妊娠していることを知っていたのでしょうか?」

「以前からってことですか?」

「ええ」

「それは、わかりません。妊娠初期ですから。つまりもっとも大切な時期で、お腹を圧迫するとすぐに流れてしまうような大事な時期だったので、まだ本人は気づいてなかったかもしれません」

「今は?」

「知っていますよ」

「本人に妊娠していたことを知らせたのですか?」

「ええ、手術室では意識がありましたから。赤ちゃんがだめになったとだけ告げました」

「本人に会えますか?」

「今は、鎮静剤と精神安定剤で眠ってます。今夜はそっと寝かしておいた方がいいと思いますよ。ショックが大きいと思います。明日は大丈夫でしょう」

 医師が立ち去った。最後まで、私に疑いの目を向けていた。

 私は、病院の廊下で呆然と立ち尽くしていた。

 千鶴が妊娠? そして、流産・・・

 相手は、想像できた。許せなかった。男と女がつきあって妊娠する。今の世の中では、珍しいことではない。

 慌てて結婚する「できちゃった結婚」がどれくらいの割合を占めるのかわからないが、決して少ない数字ではないだろう。高校生の妊娠も増えているという。親に言えずに人知れず彼とともに堕胎する者、誰にも言えずに堕胎も出来ずに産み落として死なしてしまう不幸な事件が後を絶たない。

 しかし、彼らは違う。きちんと話し合って結婚する道もあるし、やむを得ず堕胎するにしても、きちんとした手続きをとることが出来たはずだ。

 ただ、妊娠を本人が知らなかったとしたら、その相手の男も知らなかった可能性はある。

 お腹を故意に蹴った疑い・・・

 私は怒りがふつふつと湧いてくるのを感じていた。

 きっと、千鶴にしても、相手の男にしても、妊娠のことは予想できていたのではないか。そして、その件で言い争いになって相手の男は故意に千鶴の腹部を蹴った。

 なんて悪魔のような男。

 では、千鶴が私にあれほど執拗に追い掛け回していたのはどういうことか。

 結婚というキーワードまで出ていた。妊娠するほどの恋人がいるなら、私に執着するのはおかしいではないか。

 いったいなにがどうなっているのか・・・

 私は釈然としないまま、ナースステーションで、自分の身分と会社名を伝えて、その日は帰った。



 翌日、私は午前8時過ぎに病院に立ち寄り、千鶴と面会した。

 千鶴は、げっそりと、一晩で4~5才老けたように衰弱していたが、私にかすかに笑いかけた。

 私はベッドの脇の椅子に腰掛けた。青白い顔で、昨夜唇に滲んでいた血もきれいに拭われていた。左腕には点滴がつけられている。

「課長が助けてくれたんですって?」と弱々しい声で言った。

「え、まぁ。キミから電話を貰ったからね」

「電話ですか・・・」

 千鶴は首を傾げて、

「あたし、昨日の記憶があまりなくて、朦朧としてたみたいで、無意識に課長の番号にかけていたみたいですね。また迷惑をかけてしまったみたいで・・・」

「そんなことはいいんだ。それよりも、何があったんだ?」

「もうわかってるんですよね?」

 千鶴が、切なそうに目を閉じた。

「課長には申し訳ないと思っています。彼が・・・あいつが言ったんです。課長があたしに気があるって。あたし舞い上がってしまって・・・でも、冷静に考えたら、課長があたしなんか相手にするはずありませんよね。あたしどうかしてました。でも、これだけは言えます。課長だったら、あたし、結婚したいと思ったことも事実なんです」

 千鶴の目から大粒の涙が流れた。とり憑いていた悪魔が、体から静かに離れていったような気がした。

 魔女が、普通の女の子に変わる瞬間だったのかもしれない。

「でも、お腹の父親と一緒になるのが、本来の筋なんじゃないのか」

 千鶴は黙り込んだ。

 それができないから、彼女は苦しんで、私を父親の代用品に選んだと言える。

「このことを、社長に話していいか?」

「あたし、クビですね」

「クビにはならないよ。別に悪いことをしたわけじゃない。単に、病気で会社を休むだけだ。だが、許せない奴が一人いる。そいつを懲戒免職にするために、社長には話さなければならないな」

 私は千鶴の目をジッと見つめた。千鶴は私から視線をそらした。

「課長にお任せします」

「ありがとう。キミの恋人を罰しなければならないけど、いいね?」

「もう恋人ではないです。あたし、男を見る目がありませんね。あんな男を好きになるなんて!」

「仕方ないさ。人間の本性なんて誰にも判らないから」

 私は、別人のように変貌したときの千鶴を思い出して苦笑した。あの凶暴な千鶴は、千鶴の本当の姿ではなかった。しかし、千鶴の中に、どのような理由があろうとも、性格が一変するほど変貌してしまう要素は確かにあるのだ。

「課長は・・・あいつとは違いますね。優しいですもの」

「それも、わからんよ。じゃ、会社に行くから、お大事に」

「ハイ、ありがとうございます」

 千鶴の表情が柔和になった。こうしていれば、本当に可愛い一人の女の子なのだ。

「いいから、気にするな。大事な部下じゃないか」

 私は笑って、「お見舞いに手ぶらできちゃったな」と冗談を言いながら病室を出た。

 病院のロビーで会社に電話をかけて、社長を呼び出して、昨夜からの経緯を話した。

 社長は相当驚いていたが、すぐに本人を呼んで事実を確認すると言ってくれた。千鶴が私にしてきた一連のストーカー行為は、決して忘れることはないだろう。だが、嫉妬深い女が一人、好きな男を追い掛け回したと考えれば、世間でもゴロゴロしているネタかもしれない。

 それに実被害もないのだ。千鶴が私にしたことは、社長には黙っていようと決心していた。それに、当社の経理には彼女は欠かせない戦力だった。


 会社に戻って、自分の席につくと、川島みづきが心配そうに近づいてきて、

「社長が戻り次第来るようにと言っています」と言った。

「わかった。じゃ、行って来る」

 私は、みずきに笑いかけて肩をポンと軽く叩いた。

「あ、あの」

 みずきが呼び止めた。

「なに?」

「先日は、課長に変なことを言って申し訳ありませんでした。よく考えたら、あたしみたいな小娘と結婚したいなんて思うわけがないですもんね」

 みづきは申し訳なさそうに頭を下げた。私は軽く笑って、

「そんなことないぞ。キミさえよければ、一緒になってもいいと思ってるよ。でも、キミにはかっこいいフィアンセがいるんだろう? 大事にしないとな」

 そういって私は歩き出した。

 エレベーターを待っていると、上から下りてきたエレベーターの扉が開いた。降りてきたのは、直属の部下の大杉亮太だ。

 私は、彼を一瞥してそのままエレベーターに乗ろうとした。

 大杉は、私を手で制して、ニヤリと笑った。

「お腹の子供は流れたそうですね。せっかくあんたを父親にしてやろうと、あいつをその気にさせたのに、あんたにその気がないなんて・・・もったいないなぁ、結構いい女なんですよ、あっちの方は」

 大杉が、にやりと笑った。

 私は、咄嗟に右手で大杉の首を掴んで、後ろの壁に押し付けた。

 大杉は、私の意外な行動に呆気に取られていたが、そのうちに「く、苦しいですよ」と切れ切れに言った。

「おまえの処分は社長に任せて、何も言わないでおこうと思っていたんだが、もう我慢が出来ない。おまえをぶっ殺してやる」

 大杉の顔がみるみる紅潮してゆく。苦しそうに顔が歪んでいった。

 私はふっと力を抜くと、

「彼女と彼女のお腹の赤ちゃんと同じ思いをさせてやりたい。おまえなど、殺す価値もない」

 そういって吐き捨てるように大杉を押しのけた。



 エレベーターで社長室に向かうとき、あいつにとって、私はあいつの「いけにえ」だったのだろうか、と考えて苦い気持ちになっていた。



【終】


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― 新着の感想 ―
[良い点] 小説は自分のことはいい人物に仕立てれて得ですね。 [気になる点] 本人を知っているだけに、事実を元にとしておりますが、自分自身を強烈に美化しすぎてアホらしい&キモイ。 [一言] 何年たって…
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