【第八話:男の世界】
宮島口のフェリー乗り場を出たのは、午後三時だった。
厳島神社の鳥居を見た。
海の上に立つ、あの鳥居を見た。
フェリーの上でくま子と並んで見た、あの景色。
もう、次のチェックポイントへ向かう時間だ。
プレスカブのエンジンをかける。
一発でかかる。
今日も律儀なやつだ。
国道54号線を北へ。
広島市街を抜けて、山へ向かう。
瀬戸内の温かい空気が、少しずつ変わっていく。
木々が深くなる。
空が狭くなる。
気温が、じわじわと下がっていく。
(寒くなってきた)
九月のはずだ。
でも山は正直だった。
*
三瓶山北の原キャンプ場に着いたのは、ちょうど午後七時だった。
標高約九百メートル。
遮るものがない草原に、巨大な三瓶山のシルエットが立っている。
夜空に黒く浮かぶその姿は、静かで、でかくて、少し怖かった。
気温を確認した。
十二度。
「……さむっ」
思わず声が出た。
九月に十二度は想定外だった。
テントを張った。
ペグを打つ手が、少し悴んでいる。
テントの中に潜り込んで、バッグを漁った。
取り出したのは、小さな湯たんぽだ。
北海道対策として鹿児島を出る前に買っておいた防寒グッズの一つだ。
まさか島根で使うことになるとは思っていなかったが。
「北海道様、お待たせしました」
独り言を言いながら、湯たんぽにお湯を入れた。
寝袋に滑り込ませる。
じわじわと温かさが広がってくる。
(これは……すごい)
文明の利器だと思った。
*
腹が減った。
バッグから取り出したのは、日清カレーヌードルだ。
非常食として持ち歩いていたやつだ。
ガスバーナーでお湯を沸かして、カップに注いだ。
三分待つ。
その三分が、今夜は永遠に感じた。
一口すすった。
「……うまい」
うまい、なんてものじゃなかった。
九月の標高九百メートルの夜に、震えながら食べるカレーヌードルは、今まで食べたどの食べ物よりも旨かった。
じゃこ天も、塩ラーメンも、お好み焼きも、ウニイクラ甘エビ丼も、全部旨かった。
でも今夜のカレーヌードルは、別の次元にいる。
寒ければ寒いほど、旨い。
それがわかった瞬間、本田はキャンプというものが好きになった。
湯たんぽを抱えて、寝袋に潜り込む。
三瓶山のシルエットが、テントの外に立っている。
星が出ていた。
山の星は、平地とは違う密度で空を埋めている。
本田はその星を見ながら、眠りについた。
*
翌朝。
夜明けと同時に起き出して、テントを撤収した。
朝の三瓶山は、霧に包まれていた。
幻想的な景色だったが、寒さは本物だった。
カブのエンジンをかけて、北へ向かった。
出雲を抜け、松江を過ぎ、国道9号線へ出た。
峠を下りきった瞬間だった。
視界が、一気に開けた。
日本海だ。
瀬戸内海とは全然違う。
穏やかな内海じゃない。
荒々しい、鉛色の海が、水平線まで広がっている。
波が白く砕けている。
風が強い。
本田はカブを路肩に止めて、しばらく海を見た。
日本海を、初めて見た。
同じ海なのに、全然違う顔をしている。
(日本って、広いな)
当たり前のことを、今更思った。
でも、走って来たからこそわかる広さだった。
*
ベタ踏み坂を越えた。
江島大橋。
アクセルを全開にしても、カブの速度が落ちていく。
ギアを落として、エンジンを回す。
唸りながら、登っていく。
「頑張れ……頑張れ……!」
カブに語りかけながら、坂を上がった。
頂上から見える中海の景色が、ご褒美だった。
米子を抜け、倉吉を過ぎた。
日本海沿いの国道9号線を、ひたすら走る。
風が横から吹いてくる。
ハンドルを取られないように、体で風を受ける。
道の駅「あらエッサ」に着いたのは、夕暮れ頃だった。
島根と鳥取の県境に近い、安来市の道の駅だ。
カブを駐輪場に止めて、建物に入った瞬間だった。
「……あったかい」
冷暖房完備の情報休憩室が、二十四時間開放されている。
椅子とテーブルがある。
電源もある。
トイレもある。
「文明の利器……!!」
昨夜の湯たんぽに続いて、二日連続で文明に感動した。
今夜はここで寝よう。
荷物を下ろして、一息ついた。
外はもう暗くなっていた。
*
その時だった。
駐輪場の方から、聞き慣れた音が聞こえてきた。
二ストローク。
あの甲高い、独特の音だ。
間違いない。
ストリートマジックだ。
本田は窓から外を覗いた。
一台の原付が駐輪場に入ってきた。
スズキのロゴが見えた。
ライダーがヘルメットを脱いだ。
鈴菌だった。
「鈴菌さん!」
本田は外に飛び出した。
鈴菌が振り返った。
疲れた顔をしているが、目は生きている。
「本田か」
「なんでここに!?」
「道の駅だから」
一言だった。
確かにそうだった。
「今夜はここか?」
「はい。休憩室が暖かくて」
「俺はテントだ」
鈴菌はさっさとテントを設営し始めた。
迷いがない。
手慣れている。
本田はガスバーナーでお湯を沸かして、カレーヌードルを二つ作った。
「鈴菌さん、カレーヌードルいりますか?」
「もらう」
二人で並んで、カレーヌードルをすすった。
夜の駐輪場に、湯気が立ち上る。
*
しばらくして、鈴菌がぽつりと言った。
「スタートの時に見かけたチャンプって人のジョグ、見たか」
「ペリカンジョグって呼ばれてた人ですか? 速かったですよね」
「ああ」
鈴菌は缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺もHi-UPで出ればよかった」
「ハイアップ?」
「スズキの原付だ。ペリカンジョグに対抗するなら、あれしかなかった。いや、順位を気にしないならGAGで出たかった」
「ギャグ?」
「GAGだ。八〇年代のスズキのミニバイクだ。あれで日本縦断したら最高だった」
本田にはさっぱりわからなかった。
でも鈴菌が本気なのはわかった。
「ストマジじゃダメだったんですか?」
「ストマジが悪いわけじゃない」
鈴菌は即座に言った。
「ストリートマジックは名車だ。スズキが誇る二ストスクーターの傑作だ。ただ、個性が強すぎてスズキ信者しか乗らない。それだけだ」
「褒めてるんですか、けなしてるんですか」
「褒めてる。最大限に」
本田はカレーヌードルをすすった。
この人の言葉は、時々解読が難しい。
*
「本田、二ストと四ストの違いはわかるか」
鈴菌が静かに聞いた。
「……なんとなくしか」
「なんとなくじゃダメだ。教える」
本田は覚悟した。
長くなる予感がした。
「四ストは吸気、圧縮、爆発、排気の四行程でエンジンが回る。お前のカブがそれだ」
「はい」
「耐久性が高い。燃費がいい。扱いやすい。長距離には向いている。だから新聞配達にも使われる」
なるほど、と本田は思った。
プレスカブが三十年間現役でいられる理由が、少しわかった気がした。
「でも」
鈴菌の目が、少し変わった。
「二ストは違う。吸気と圧縮、爆発と排気を同時にやる。二行程で回る。だから同じ排気量でも、パワーが全然違う」
「それがあの音ですか?」
「そうだ。回転数が上がるにつれて、急激にパワーが出る。あの感覚は四ストじゃ絶対に出ない」
鈴菌はストマジのエンジンを撫でた。
まるで生き物に触るみたいに、丁寧に。
「ただし、二ストには弱点もある」
「弱点?」
「オイルを別に補給しなきゃいけない。四ストよりエンジンの寿命が短い。排気ガスが多い。だから今は新車で作られなくなった」
「じゃあ、これから二ストは減っていくんですか」
「もう絶滅危惧種だ」
鈴菌は静かに、でも確かな声で言った。
「だから今のうちに乗っておけ。二ストの咆哮を知らずに原付を語るな」
本田はその言葉を、静かに受け取った。
チャンプのペリカンジョグの音が、頭の中に蘇った。
アプリリアの音が蘇った。
鈴菌のストマジの音が蘇った。
あの音たちは、全部二ストだったのか。
(なんか、乗ってみたいな)
気づいたら、そう思っていた。
「鈴菌さん、鹿児島に帰ったら二スト原付を買いたいんですけど、オススメはありますか?」
鈴菌の動きが止まった。
それから、ゆっくりと本田を見た。
「……本当にいいのか」
「はい」
「スズキでいいか」
「スズキで」
鈴菌は少し間を置いた。
まるで大事な言葉を選ぶみたいに。
「ZZだ」
「ゼットゼット?」
「スズキが最後に作った二スト原付スクーターだ。軽くて速い。デザインもいい。中古市場でも今でも人気がある。これしかない」
本田はスマホでZZを検索した。
細くてスタイリッシュなスクーターが出てきた。
確かにかっこいい。
シュッとしている。
でも。
「あの、リアキャリアって付けられますか?旅にも使いたいので荷物が」
鈴菌の動きが、完全に止まった。
ゆっくりと、本田の方を向いた。
「今、何と言った」
「リアキャリアが……」
「ZZにキャリアを付けるな」
静かだった。
でも、有無を言わさない迫力があった。
「え、でも旅に使うなら荷物が」
「付けるな」
「いや、でも」
「付けるな」
三回言った。
鈴菌が三回同じことを言うのは、初めて見た。
「ZZはZZのまま乗れ。あのスタイルを崩すな。荷物はシートバッグで工夫しろ。キャリアだけは絶対に付けるな」
「……わかりました」
本田は素直に頷いた。
この人に三回言われたら、従うしかない。
*
それからも、鈴菌の話は続いた。
スズキの歴史。
二ストの魅力。
ガンマを置いてきた後悔。
GAGを所有したことがある知人への羨望。
Hi-UPへの未練。
本田は相槌を打ちながら、半分は眠りかけていた。
でも不思議と、嫌じゃなかった。
鈴菌の言葉には、愛があった。
スズキへの、二ストへの、バイクへの、純粋な愛が全部の言葉に込められていた。
難しい単語が多くてついていけない部分もあった。
でも、二ストと四ストの話は、本当によくわかった。
「鈴菌さん」
本田が眠気に抗いながら聞いた。
「なんで鈴菌って呼ばれてるんですか?」
「スズキ菌に感染してるからだ」
「治りますか?」
「治らない」
誇らしそうに言った。
「感染したら最後、スズキしか見えなくなる。これは病気じゃない。才能だ」
本田は笑った。
この人は本当に、底抜けにスズキが好きなのだ。
怖いとか、ヤバいとかじゃなくて、ただ純粋に、子供みたいに好きなのだ。
「鈴菌さんって、いい人ですね」
「スズキ乗りに悪い奴はいない」
それが答えだった。
*
気づいたら、空が白んでいた。
本田は休憩室の椅子の上で、首が痛くなりながら目を覚ました。
鈴菌の話を聞きながら、いつの間にか眠っていたらしい。
外を見ると、鈴菌はもうテントを撤収していた。
ストマジのエンジンを暖機している。
白い排気煙が、朝の空気に溶けていく。
「起きたか」
「おはようございます。いつから起きてたんですか?」
「六時だ」
「何時間寝たんですか」
「四時間あれば十分だ」
本田は首を回した。
ゴキゴキと音がした。
「鳥取砂丘まで、一緒に走るか」
鈴菌が言った。
誘っているのか、確認しているのかわからない言い方だった。
でも、本田には十分だった。
「はい、行きましょう」
荷物をまとめてカブにまたがった。
キックを踏む。
一発でかかる。
ストマジのエンジン音と、プレスカブのエンジン音が、朝の道の駅に響いた。
二ストと四スト。
甲高い音と、低い音。
全然違う音が、並んで走り出した。
国道9号線を東へ。
日本海が、朝の光を受けて輝いている。
鉛色だった昨日の海が、今朝は青く光っている。
同じ海が、光の加減でこんなに変わる。
ストマジが前を走る。
プレスカブが続く。
二台の排気音が、日本海沿いの国道に溶けていった。
寝不足だった。
首が痛かった。
でも、悪くない朝だと本田は思った。
鳥取砂丘まで、もうすぐだ。




