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【第七話:広島にて、宇宙まで飛んだ船】

 尾道から国道2号を西へ。



 瀬戸内の穏やかな海を左に見ながら、本田は呉を目指していた。


 しまなみ海道を渡りきった達成感は、まだ体の中にある。


 でも走り続けると、それはすぐに「次」への燃料になっていく。


 旅って、そういうものなのかもしれない。



 海沿いの国道を流れていく景色。


 造船の街、呉が近づいてくる。


 あの山の向こうに、でかい何かが待っているのはわかっていた。



   *



 大和ミュージアムの駐車場に入った瞬間、本田の目が止まった。



 くまモンだらけのモンキーが、そこにいた。



(まだいるのか……?)



 しまなみ海道で会っていない。


 どこかで追い抜かれたのか、別ルートを走ったのか。


 でも確実に、先にここへ来ていた。



 本田はエンジンを切り、ヘルメットを脱いで館内へ入った。



 戦艦大和の模型が、視界に飛び込んできた。


 一瞬、言葉を失った。


 全長二十六メートル。


 実物の十分の一のはずなのに、目の前に立つとその圧倒的な大きさに体が縮む気がした。



 その模型の前に、小柄な後ろ姿があった。


 背筋がまっすぐだ。


 微動だにしない。


 くま子だった。



 本田はゆっくりと近づいた。



「……なんで、まだここにいるんですか?」



 くま子が振り返った。


 少しだけ笑う。



「あら? 本田くんやったっけ」



 熊本訛りの、柔らかい声だった。



「私のモンキーは速かけんね。温泉くらいはのんびり入るとよ」



 当然、という顔で言う。



 本田は言葉を失った。



(温泉……? このレース中に?)



「峠では、アプリも後ろやったよ」



 さらっと言った。


 冗談のように言った。


 でも、目は本気だった。



 本田は知らなかった。


 くま子のモンキーに過給機が組まれていることも。


 その意味も。


 速さの次元が、自分たちとはそもそも違うことも。



 速さは余裕を生む。


 余裕は楽しみを生む。


 そのことを、本田はこの日初めて理解した。



 二人はしばらく、並んで戦艦大和を見上げた。


 くま子は何も言わなかった。


 本田も何も言えなかった。



 でかい。


 とにかく、でかい。


 全長二百六十三メートル。


 世界最大の戦艦が、この呉の海から出ていった。


 そして、沈んだ。


 帰ってこなかった。



「……大きいですね」



 本田がぽつりと言うと、くま子が静かに頷いた。



「うん。でも、宇宙まで飛んでいったけんね」



 本田は首を傾げた。



「宇宙?」



「宇宙戦艦ヤマトの元ネタたい。知らんと?」



「あ……なるほど」



「沈んだ船が宇宙を飛ぶって、すごかよね」



 くま子は模型をじっと見つめたまま言った。



「終わったものが、また走り出すって。なんか、好きたい」



 本田はその言葉を聞いて、自分のプレスカブを思った。


 新聞配達のお下がり。


 三十年前の鉄屑。


 それが今、日本縦断レースを走っている。



 終わったものが、また走り出す。


 そういうことかもしれない。



   *



 館内を出た後、二人は市内へ戻った。



 初めて、くま子のくまモンモンキーの後ろを走った。



 速い。



 本田はスロットルを全開にしたが、じわじわと離されていく。


 信号のたびに追いつき、また離される。


 直線では、あっという間だ。


 同じ原付のはずなのに、別の乗り物みたいだ。



 信号で並んだ時、本田は叫んだ。



「くま子さん! そのモンキー、何が違うんですか!?」



「過給機たい!」



 くま子は平然と答えた。



「空気をエンジンに強制的に押し込む装置。市販のユニットが出とるとよ」



「カブにも付けられますか!?」



「付けられるよ! でも高かよ!」



 値段を聞いて、本田は黙った。


 とてもじゃないが、今の自分には届かない数字だった。



 お好み焼き屋の前で、二台は止まった。



   *



 鉄板の前に二人で座った。


 湯気が立ち上る。


 キャベツがどっさり積まれて、麺が敷かれて、生地が重なっていく。


 広島風だ。



 くま子は次々と追加を入れる。



「チーズ追加で」


「もちも入れて」


「牡蠣もいけますか?」



 本田はメニューをじっと見た。


 一番安いもの。


 それだけを頼んだ。



 くま子はそれを見逃さなかった。



「遠慮せんでよか」



 鉄板越しに、じっと見る。


 その目が、真剣だった。



「レース中やけん、これは投資たい」



 そう言って、勝手にトッピングを追加した。



「半分こね」



 本田は何も言えなかった。


 ありがたい、が先に来た。


 悔しさは、少し後から来た。



 牡蠣入り広島風お好み焼きを一口食べた。


 ソースの甘さ。


 牡蠣の旨み。


 麺のもちもち。


 全部が重なって、口の中に広がる。



「……うまい」



「でしょ!」



 くま子がにっこり笑った。


 その笑顔には、一切の曇りがない。


 何百キロ走っても、レース中でも、この人はこういう顔をするのだ。



(この人は、何者なんだろう)



 本田は思った。


 速くて、明るくて、人に食べさせて、それで全部当然という顔をしている。



「くま子さんって、なんでこのレース出たんですか?」



 食べながら、本田は聞いた。



 くま子は少し考えた。


 そして、箸を止めた。



「……正直に言うと」



 珍しく、少しだけ声のトーンが落ちた。



「たまたまくまモングッズ買いよったら、くまモンモンキーがあってね。買ってみたら楽しくて、ハマって、気づいたらこのレース見つけてて」



「それで出たんですか?」



「うん」



 あっさりと答えた。



「なんとなく、やね」



 本田は箸が止まった。



「……なんとなく、ですか」



「そう。大した理由なんてなかとよ。くまモンのバイクで走ったら楽しそうやな、って。それだけたい」



 くま子は少し照れたように笑った。



「あんたは? なんで出たと?」



 本田は言葉に詰まった。


 ロリのツイートを見たから?


 田辺さんに言われたから?


 どれも正解で、どれも違う。



「……なんとなく、です」



 くま子の目が、少し丸くなった。



「なんとなく?」



「はい。うまく言えないんですけど……なんとなく、外に出たかった、みたいな」



 くま子はしばらく黙っていた。


 それから、吹き出した。



「あんたもなの!?」



 笑い声が、お好み焼き屋の中に広がった。


 他のお客さんが振り返るくらいの声だった。



「私もなんとなくやった! 同じたい!」



「え、じゃあくま子さんも大した理由ないんですか!?」



「ないよ! 全然ない!」



 二人で笑った。


 声を上げて、馬鹿みたいに笑った。



 お好み焼きが、少し冷めた。


 でも、それでもうまかった。



(いつか稼げるようになったら、必ず返そう)


 そう心の中で決めながら、本田は笑い続けた。



   *



 フェリーに乗る。


 宮島へ向かう便だ。


 二人でデッキに出た。



 海が広がっている。


 島影が近づいてくる。


 そして、鳥居が見えてきた。



 厳島神社の大鳥居。


 海の上に、ただ立っている。


 高さ十六メートル。


 満潮の時は、まるで海から生えているように見える。



「でかい……」



「でしょ!」



 くま子がまたにっこりと笑った。



 本田はぼんやりと鳥居を見ながら、さっきの会話を思い返していた。



 なんとなく、外に出たかった。


 それが本当の理由だ。


 でも、なぜ外に出たかったのかは、まだうまく言えない。



(ちゃんと言葉にしたい。いつか)



 鳥居が、どんどん大きくなってくる。


 フェリーが近づいていく。



 その時、本田が急に口を開いた。



「あ、そうだ」



 くま子が振り向く。



「理由、もう少し思い出しました」



「うん」



「僕、原付で海を越えてみたかったんです」



 くま子は黙って聞いている。



「職場の田辺さんから聞くまで、原付で海を越えられるって知らなかった。橋も、フェリーも。それを知った瞬間に、なんか……」



 本田は鳥居を見ながら言葉を探した。



「自由の翼が欲しかったんだと思います。ずっと三十キロ制限の中にいたから」



 くま子はしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。



「うち、くまモンモンキー買った日ね」



「はい」



「近所を走っただけやったとよ。たった五分くらいの距離」



「うん」



「でも、帰ってきた時に泣いてたんよ」



 本田は驚いて、くま子の顔を見た。


 くま子は鳥居を見ている。



「なんで泣いてたのか、うちも最初わからんかった。でも今はわかる」



 少し間があった。



「外に出られたから。自分の足で、自分だけの速度で、行きたいところへ行けたから」



 風が吹いた。


 瀬戸内の、柔らかい風だ。



「あんたの言う翼って、うちも同じものを探しよったと思う」



 本田は何も言えなかった。


 言葉が、追いつかなかった。



 大きな鳥居が、すぐそこまで来ていた。


 海の上に、ただ立っている。


 何百年も、嵐が来ても、戦争があっても、ここに立ち続けてきた。



 くま子がぽつりと言った。



「沈んだ船が宇宙を飛ぶように、三十キロの原付が日本縦断しよるとよ」



 本田は笑った。


 なんか、全部がつながった気がした。



   *



 フェリーを降りて、駐車場に戻る。


 夕暮れが、宮島の山を橙に染めていた。



 本田は鳥取を目指す。


 くま子は岡山へ。


 既に宿を予約しているらしい。


 速い者は、予定も確実だ。



「じゃあね」



「また、どこかで」



 二人は自然に左手を上げた。


 二本指。


 Two-finger salute。



 そして、同時に叫んだ。



「I have a low exhaust!」



 声が重なった。


 お互いの声が、夕暮れの海に溶けた。



 くまモンモンキーが南へ。


 プレスカブが北西へ。


 瀬戸内の風が、二台の間を通り抜けた。



 走り出してから、本田は気づいた。


 くま子の「翼」の話。


 あれは、きっと誰にも言ったことがない話だったんじゃないか。


 なんとなく、そう思った。



 だとしたら。


 自分も、言えてよかった。



 トコトコトコ……。



 プレスカブのエンジン音が、夕暮れの国道に響く。


 北西の空に、一番星が出ていた。




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